第3話 夏日

 

『……サクラトオル、ヨンサイ……』

『ゾウキ……ハレツ……』

『……ミャクハクガ……』

『センセイ、トオルヲドウカ……!』

 いろんな人の声が聞こえる。

 いろんな人がぼくの周りを走り回ってる。

 遠くで泣いているのは、たぶん、お母さん。

 そうだ、ボールを追いかけて、道路に飛び出したから、トラックに轢かれちゃったんだっけー

 佐倉亨は大勢の大人に囲まれて、声をかけられている気がしたが、瞼を持ち上げる力さえなかった。

「ー奥さん、お子さんを救う方法がひとつだけ考えられます……」

 遠くで泣いている母親に、誰かが厭に優しく話しかけるのが聞こえたのを最後に、意識が途切れた。

 

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 その日は、夏はまだ先だというのに、強い日差しがじりじりと肌を焼くような暑さだった。

「暑いねえ……。そうだ、部活が終わったらアイス食べにいかない?」

 友人の誘いに、右目に医療用の眼帯を着けた少女ー高遠風音は一瞬嬉しそうな表情を見せたが、薄茶色の左目に謝罪の色を浮かべ、申し訳なさそうに首を振って答えた。

「ごめん、今日は用事あるから、部活休むつもり」

 そっか、じゃ、またね、と友人は残念そうに笑い、話題は午前中の小テストの結果に移る。

 友人は、小テストの点数が低かったから補講を受けるらしい。わざとらしく頭を抱えて世の終わりのような声で話すその様子に、風音は吹き出した。初学年の頃から補講常連のこの友人に頭を抱えているのは教師陣の方だろう。風音がそう言うと、友人はにやにやと笑った。

 風音も笑った。

 こんな時間がずっと続けばいいと思っていた。

 

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 放課後、高遠風音は部活を休むと顧問に伝えると、足早に高校を後にした。

 指定された時刻に、指定された人気のない道路をゆっくりと歩きながら待つ。すぐに後ろからシルバーのセダンが追いつき、風音の隣で停車した。

 運転手が素早く下車して後部座席のドアを風音のために開く。

 風音は何も言わずにその車に乗り込んだ。

 ドアが静かに閉められると、先に乗車していた老人から、数通の封筒が手渡される。

「お疲れさま。№1からの連絡だよ」

 運転手が席に戻り、車が走り出す。

 風音はそっと眼帯を外す。隠されていたその右目は遠目に見ると一見変哲のない琥珀色だが、通常あるはずの瞳孔がなく、虹彩と呼ぶべき部分は見る角度によって、砕けたガラス片が散りばめられているかのように、きらきらと光っていた。

 風音は右目で老人を一瞥し、短く訊ねた。

「……№4。今度は何の()ですか?」

「これかい? 同情を買うのにはうってつけだろ?」

 №4と呼ばれた老人は、大きな鷲鼻を自慢げに見せつけた。彼は、左瞼を大きく腫らし、顔の半分は火傷の跡のように爛れており、頭は薄い白髪が無造作に流れていて、目だけが爛々と楽しそうに輝いていた。

「今度のターゲットは心優しい普通の高校生らしいからね。こんな哀れな爺さんに助けを乞われれば振り向かないはずがないだろう?」

「遊んでいるでしょう、№4? はっきり言って怪しいです。普通の高校生なら怖がって近付いてきませんよ」

 風音が面白くもなさそうに意見を述べると、№4はますます面白そうに声を立てて笑う。

「君が普通の高校生を語るかねぇ? まあいいさ、確かにこれはほんのお遊びだよ。最近はあまり能力を使っていないから軽く準備運動してたってわけ」

 風音は№4を無視することに決め、手渡された封筒の一通を開き目を通す。大したことは書いていない。彼女のパトロンである№1からの近況報告だ。それでも、(SLWの連中が見たらとんでもないお宝情報よね、これ……)と頭の隅で考えていた。

 ボスの近況についての手紙は後で隠滅のため処分することにして、風音は二通目の封筒を開く。中身は次の活動の指示と、ターゲットになる少年を、おそらく隠し撮った写真。

「次は……№3のお手伝い(・・・・)ですか。彼女も熱心ですね。こんな少年を何年も追いかけ回して」

「そりゃあ唯一生存している秘薬の被験者だもの。ちょっと目を離した隙にSLWに引き取られてしまったとなれば慌てるのも仕方がないさ。……で、№1は君が指揮を執るように言っている。今回は僕はサポート」

 風音はボスからの指示を頭に叩き込むと、それを元通り封筒に仕舞う。

「ターゲットの活動パターンは決まっているようですね。常に一緒にいるという少女が邪魔ですが」

「そこで、僕の出番ってわけだね?」

「そうですね、あなたの能力があれば一瞬引き離すくらいのことはできるでしょう。決行は、そう……、週が明けた月曜日の朝、登校時に」

「オッケー、準備しとくよ」

 №4がそう答えるのとほぼ同時に、車が駅の前に到着した。

 長い(・・)金髪(・・)()シミ(・・)ひとつ(・・・)ない(・・)白い(・・)()()碧眼(・・)()女性(・・)が、自らドアを開けて出て行こうとする。

 №4は風音にひとつウインクしてみせると、

「じゃあね、風音ちゃん。また連絡するよ」

 そう言って車を降り、駅の改札へ歩いていった。

 風音は呆れたように息をつく。

(どこの世界に自分から目立ちにいく特殊工作員がいるのかしら……)

 風音の乗った車は、道ゆく人々の視線を集める美しい姿の№4を置いて、走り出した。

 

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 八歳の風音の右目がおかしいことに最初に気づいたのは、彼女の母親だった。

 瞳孔と呼ぶべき部分がなくなり、虹彩がガラス片を散りばめられたかのようにきらきらと光っている。

 嫌がる風音の腕を引いて眼科に相談したが、医師も首を傾げるばかりだった。

 次に風音の異常に気づいたのは、三つ歳の離れた弟だった。

「お母さん、お姉ちゃんってばおかしいんだよ。ぼくがかくれんぼでどこに隠れていても、あっという間に見つけちゃうの!」

 最初は母親も笑っていた。あなたの隠れ方が甘いのよ、などと弟をからかった。

 風音が十歳のとき、家族で行った川辺でのキャンプで、事故が起きた。

 弟がいつの間にか消えたのだ。

 父親は川で溺れたのではないかとあてもなく付近を捜索し、母親は戸惑い泣き崩れた。

 風音だけが冷静だった。

「あの子、川で溺れたんじゃないわ。森に迷い込んじゃったのよ」

 風音は当たり前のようにそう言った。

 そして、川とは反対側の森の方に向かって歩いていく。

 父親が信じられないといった様子で風音に続いた。

 風音は迷いなく獣道を進み、三十分ほど歩いただろうか、父親が引き返そうと風音に言おうとしたとき、風音が立ち止まった。

 風音たちが立っている場所から二メートルほど落ち窪んだ穴の中に、弟が倒れていた。

 父親は風音を押しのけて弟に駆け寄り、弟を抱き上げた。

 弟はすぐに病院に運ばれた。足を骨折していた。

 病院の廊下で、母親は風音の頬を打った。

「あんたがあの子を突き落としたんでしょう! みんながあの子を可愛がるから! 自分が目をかけてもらえないのを妬んで殺そうとしたんでしょう!?」

 風音は驚いていた。弟を見つけることができたのは風音のおかげだ。風音は「よくやった」と、褒めてもらえると思っていた。

 父親は風音に掴み掛かろうとする母親を止めていたが、風音を見る目は化け物を見ているかのようだった。

 それから数日経って、風音に来客があった。

「私は李紅元と申します。お嬢さんとお話をさせて下さい」

 訝しがる母親の前で、風音はその男と対面した。

 李は風音の右目を一目見て、「素晴らしい」と呟いた。

「お嬢さん、私と一緒に来ませんか?」

 風音は気づいた。この男は自分とは違うが、自分と同じ部類の人間なのだと。

「お兄さんの()は人を惹き付けるのね」

「勘が良いのですね。ええ、よく言われます」

「わたしが付いて行って、何かできるのかしら?」

「貴女はご自分の能力を過小評価しているようです。貴女の能力はこんなところで埋もれていて良いものではない」

「お兄さんにとって、わたしは必要なの?」

「その通りです」

 迷いなく返されたその一言で、風音は決めた。

「お母さん、わたし、この人と一緒に行く」

 風音が母親にそう言うと、母親は驚いて風音と来客とを見ていた。

 父親に相談させて下さい、と母親が言うと、李は頷いてその日は帰った。「次は迎えに来ます」と風音に囁いて。

 母親から来客の話について説明を受けた父親は、首を縦に振ろうとしなかったが、母親は隣室で風音が聞き耳を立てていることに気づかず言った。

「あの子、何か変だと思っていたのよ。この前の事故だって、やっぱり弟が可愛くなくて風音が何か引き起こしたに違いないわ」

「風音はおかしいところもあるが、僕たちの娘だろう。得体の知れない男に預けるだなんて考えられない」

「弟を殺そうとしたのよ」

「でも僕たちに居場所を教えた」

「風音自身あの男に付いて行こうとしているわ。止める必要なんてないでしょう」

「……」

 風音は、静かに襖を引いて、両親の前に姿を見せた。

 母親は気味悪いものを見るように風音を見ていた。父親の目にも、以前のような優しさはなかった。

 風音は言った。

「あの人はわたしを必要だと言ってくれた。お父さんとお母さんは、わたしが要らないんでしょう? わたしはわたしを必要としてくれる人に付いて行く」

 母親は止めなかった。父親は形ばかりは止めようとしていたが、本心ではどうなってもいいと考えていることが風音には伝わっていた。

 気がかりだったのは、弟のことだった。

 翌日、約束通り迎えに来た李は両親に頭を下げ、何かを手渡した。多分お金だろうと、先に車に乗り込んで窓から様子を眺めていた風音は考えた。

 後から車に乗り込んだ李に、風音は頼んだ。

「最後に、弟に会ってから行きたいのですが」

 李は「わかりました」と微笑んで承諾してくれた。

 まだ入院していた弟の病室に、李と共に入った。

 弟は人懐っこい笑顔で姉を迎えた。

「お姉ちゃん、その人は誰?」

「わたしを迎えに来てくれたの」

「お姉ちゃん、どっか行くの?」弟は不思議そうに首を傾げた。

「そうよ、遠くに行くの。だから、あなたとお別れをしにきたのよ」

 風音がそう言うと、弟は泣きそうな顔をした。

 風音は一瞬、このまま李に付いて行って良いのか迷った。

 しかし、迷いは一瞬だった。

 両親は風音を必要としていないけれど、弟のことは必要だと感じている。風音にとって両親はもう必要がなかったけれど、弟には両親が必要だ。それなら必要とされていないし必要ともしていない風音がいなくなればすべて丸く収まる。

 弟だけは風音を必要としてくれていた、それを知ることができただけで十分だった。

 ベッドに腰掛けている弟の頭を撫でて、なるべく優しい声を作って言った。

「元気でね。お母さんとお父さんをよろしく。二人とも、わたしにとってはろくでもなかったけど、わたしたちのお父さんとお母さんなんだから」

 約束よ? と風音が言うと、弟は頷いて、小さな小指を突き出した。

 風音も小指を差し出して、指切りをする。

「お父さんもお母さんも、ぼくに任せて。お姉ちゃん、たまには帰ってきてね?」

「さあ? どうなるかはわからないけど、みんなのことは遠くから見守ってるわ」

 結んでいた小指を離して、風音は病室を出た。李がそれに続く。

 弟が寂しそうに、姉の背中を見送っていた。

「安心して下さい。ご家族の様子は私が調査した上で貴女にお伝えしますので」

 車に乗り込んでしばらくしてから、李は風音にそう言った。

 風音は李が何を言っているのか一瞬わからなかったが、弟に言った「見守っている」という言葉を指しているのだと気づいて、首を振った。

「お兄さんがそんなことしなくても、わたしにはわかるわ。大丈夫」

「貴女のその眼でも届かないことがあるでしょう。それに、人は大切だと思っていた人のこともいつか忘れてしまう。貴女が忘れ去られないように、私から貴女の近況をご家族にお伝えしようと思っています。よろしいですね?」

 李は諭すようにそう言った。風音は「じゃあ、そうして下さい」と、あまり関心を持てないまま答えた。

 車はあっという間に、病院から離れていった。

 

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 №1ー李から届いた封筒の三通目には、家族の近況が記された紙切れが一枚、納められていた。幼かった弟は今度、高校を受験するらしい。すっかりたくましくなった弟だけが元気そうにポーズを決めて写真に納まっている。白髪が増えた両親は、口元だけ笑顔を作ってこちらを向いていた。相変わらずだ、と風音は写真と紙切れを封筒に戻す。

 封筒をまとめてスクールバッグに押し込み、外していた眼帯を元通り右目に当てる。運転手に「ここでいいわ」と告げると、車は交差点の手前で停車した。

 運転手がドアを開ける前に、自分でドアノブを引いて外に出る。

 慌てた運転手を「今日はご苦労様」と労って背を向けた。目を向けなくても運転手が深々と頭を下げて見送ったのがわかった。

 交差点を曲がると、思いがけない顔とぶつかりそうになった。

「え? 風音?」

「……!」

 部活の友人一同が、スクールバッグを肩にかけてぞろぞろとこちらに向かってきていた。

「どうしたの風音? 用事があったんでしょ? もう終わったの?」

 風音は一瞬後ろに注意を向ける。先ほどまで乗車していたセダンは、静かにその場を走り去って行った。

「……うん。用事は今終わったところ。みんなはどうしたの? アイス食べに行くんじゃなかった?」

「そうしようと思ったんだけどさ、部活終わったらすっごい冷えてて。アイスどころじゃないから、これからもんじゃ食べに行こうって話になったの」

 友人は行きつけの店の割引券の束をひらひらと見せる。

 確かに、昼間の暑さはすっかり気配を消し、冷え込んだ空気が無防備な首元を撫でている。

 友人は指を差して人数を数えてから、「……風音を入れて六人。割引券も六枚。ってわけだから、風音もどうよ? 一緒に行かない?」と笑う。

 先ほどまで静かだった風音のお腹が、くぅと、風音にしか聞こえないほど小さな音で空腹を訴えた。

「いいの? じゃあよろこんで!」

 風音は頷き、友人たちと合流して歩き出す。

 週が明けたら、風音たちは№1の命令通り、作戦を実行する。

 そして、SLWとの戦いが始まるのだろう。

(せめて、今だけは忘れさせて)

 風音は友人たちと戯れ合いながら、心の中で祈った。

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