第8話 独語

 

 あやのは、亨が目を覚ましたことに気づき「亨」と名前を呼んだ。

 亨は虚ろな目をしていたが、しばらくして目の前のあやのに気づいたように、「おかあさん」と、声にはならなかったが、唇を動かした。

 あやのは泣きそうになるのをこらえて、「よかった、助かったのね……」と呟いた。

 しかし、亨の次の一言で、目の前が真っ暗になった。

「まもるは……?」

「……」

 あやのは答えられなかった。病室に沈黙が下りた。

 どれほど時間が経っただろうか、あやのは小さな声で、問いかけに対する答えになっていないことを呟いた。

「……亨のせいじゃないわ。お母さんのせいよ……」

「……」

 亨は「何が」とは聞かなかった。そのことがあやのをさらに苦しめた。

 亨は聡い子だ。母親が直接語らずとも、その意味するところは理解したのだろうと、あやのは思った。

「亨のせいじゃないの、お母さんが悪かったの。だから、亨は悪くないのよ」

 あやのはうわごとを言うように、そう繰り返した。そう言わなければ壊れてしまいそうだった。

「……」

 亨は、傍らで俯くあやのを、焦点の合っていない目で見つめていた。

 

   ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃

 

 須藤は仏壇の前に正座して、静かに手をあわせた。

 写真立ての中には、幼い男の子が幼稚園の門の前で、小さなスーツでおめかしをして、恥ずかしそうに微笑んでいる。

「護と亨は一卵性の双子でした。でも、生まれたときから亨の方が少し小さくて。だから、護には、亨のことを守ってあげてって、よく口にしていたんです」

 あやのは須藤の後ろで訥々と語った。

 須藤はあやのに向き直った。

 あやのは続ける。

「あの事故の日も、亨をよろしくねって、護に言って、遊びに行かせたんです。だから、護は、私の言いつけ通り、亨を守ろうとして……」

「……道路に飛び出した亨さんを、助けようと追いかけた。あなたは、そう思って、ご自分を責めていらっしゃるんですね」

「だって、その通りなんですもの」

 答えたあやのは涙声だった。

 須藤は思う。護がどうして道路に飛び出したのかなど、護にしかわからない。母親の言いつけを守ったばかりに死んだというのは、あやのが思い込んでいるだけなのではないか。しかし、子どもを持ったこともない独り身の自分が、ものを言うのは憚られた。

「お話が変わりますが、よろしいですか?」

 須藤には、代わりに別の話を持ちだして、あやのがこれ以上自責の念に駆られるのを止めることしかできなかった。

 あやのは、目元を拭って、「なんでしょう」と背筋を伸ばして返した。

「亨さんは、SLWの検査で、気になることを言っていたんです。つまり、『頭の中に幼い声が響く』のだと。幼稚園の頃は口に出して会話をしていたそうなんですが、小学校に上がった頃から頭の中で会話するようになったのだと言っていました。奥さんは、覚えていらっしゃいますか?」

「もちろんです。……馬鹿らしいとお思いになるでしょうけど、護が帰ってきたのだと思いました。私が亨を守ってと言ったから、死んでもまだ亨を見守ってくれているのだと……」

 あやのがまた涙声になる。「でも、その独り言は小学校に上がってからなくなったので、もう護はいなくなったんだと思っていました。亨は、今でも聞こえていると、言ったんですか?」

「ええ、ずっと聞こえていたそうです。そうすると、独り言が始まったのは、事故後なのですね?」

「そうです」あやのは頷いた。

 須藤は思案する。もちろん、あやのが言うように、護が亨の傍らにいるなどと、オカルト染みた話を信じたわけではない。須藤の頭の中では、ドイツ本部研究室から届いた資料の中の一つの仮説に焦点が当てられていた。

『結晶化は、Sn細胞自身の自己防衛手段である』ー

 異能者研究の第一人者、ルイーゼ・サリヴァンの共同研究者であったという、ある女性研究者が主張した仮説である。

 彼女は、結晶化に関する研究においてルイーゼ・サリヴァン以上に情熱を傾けていたが、その研究態度の過激さから、SLW成立直後に追放された。今から十三年ほど前の話である。

(時間的にも整合する。本部研究室や第八捜査隊からの情報も併せて考えると、№3の正体はおそらく……)

 ーブブブブブ……

 須藤の鞄の中から、くぐもった振動音が響く。

 あやのに一言詫びて、鞄から音源である携帯電話を取り出し、発信者を確認する。待機を命じたほたるからだった。玄関に移動して通話ボタンを押す。

「須藤だ。どうした?」

『佐倉さんに関する情報提供がありました。ただ、……』

「ただ?」

 珍しく歯切れの悪い言い回しをしているなと、須藤は思った。

「誰からの情報だ?」

『……隊長、シジョウリヒト、という人物を、ご存知ですか?』

「……!」

 須藤は驚きのあまり、危うくスマートフォンを取り落としそうになった。

 その男の名前は知っている。しかし何故、今ここでその名前が出てくるのかがわからなかった。

(老婆心ってところか…… 相変わらず無茶な男だ……)

『隊長?』返事がないことを訝しむようにほたるが呼びかける。

 須藤はとりあえず「ああ」とだけ返し、頭の中を整理する。

「……そいつのことは知っている。お前、何か言われなかったか?」

『……情報以外には、特に何も』

 不自然な間があった。

(何か言われたな……)

 須藤は確信したが、今はその内容に構っている場合ではない。

「んで、情報って言うのは?」

『佐倉さんの現在地と、犯人に関してです。佐倉さんは、今、軽井沢にいるそうです』

「軽井沢?」案外遠くには連れて行かれていなかったことに少々驚く。最悪の場合、すでに海外に連れ去られているかもしれないと考えていた。

『軽井沢にある、加納由紀治という男の所有する別荘のどこかに捕らわれていると言っていました』

「加納由紀治? 財界の大物の?」

『第八捜査隊の資料にもその名前がありました。ビッグ4と関わりがあると考えられているそうですが、証拠は見つかっていません』

「そりゃ調べなきゃな…… まったく、なんて情報だ……」

 ひょっとすると、ビッグ4の幹部の名前が明らかにされるかもしれない。須藤は事態の大きさに頭を抱えたくなった。

 普通の高校での講演会で偶然拾ったのは、とんでもないパンドラの箱だったのかもしれない。

「わかった、第八捜査隊に協力を要請して、加納を調べよう」

『そのことなのですが、急いだ方が良いと』

「シジョウリヒトが言っていたのか?」

『はい。わたしにはよくわからなかったのですが…… 「碧の瞳」が近づいてきている、と。でも、「白銀の脳細胞」が手助けしてくれるだろうとも言っていました』

 須藤はまたも、スマートフォンを取り落としそうになった。

(……ひょっとすると、命日になる日は近いかもしれん……)

 須藤は縁起でもないことを考えながら、すぐに戻る、と電話を切った。

 電話が長いことが気になったのか、あやのが玄関まで様子を見に来る。

「あの、亨のことで何か……?」

「情報提供がありました。申し訳ありませんが、すぐに戻らなければなりません。進展があればまたご連絡します」

 あやのは、「どうか、お願いします」と、深々と頭を下げた。

「全力を尽くします」

 須藤はそう答え、手早く荷物をまとめて佐倉邸を後にした。

 

   ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃

 

 須藤が待機室を出てから一時間半、ほたるは、第八捜査隊から拝借してきたビッグ4に関する資料に目を通していた。

 どれも不確かな情報ばかりで、亨を救い出すには役に立ちそうにもなかったが、何もしないわけにはいかなかった。

「わたしのせいなんですから……」

 朝、亨と交わした会話を思い出す。『すごい』と言われたことに浮かれていたのかもしれないと、今になって思う。自分が油断しなければ、亨は攫われなかったかもしれない。須藤には『自分を責めるの禁止』などと言われたが、考えれば考えるほど無理な命令だと思った。

 プルルルル……

 静かな待機室で、須藤のデスクの上の固定電話が、突然着信音を響かせた。

 ほたるは驚いてデスクを振り返る。自分が出て良いものか迷ったが、留守を任されているのであるからこれも任務のうちだろうと、そっと受話器を手に取る。

「はい、須藤第一捜査隊、隊長待機室です」

『佐倉亨誘拐事件についての情報提供のお電話です。お繋ぎしてよろしいですか?』

 受付の女性の事務的な問いかけに、ほたるはぴくりと、片眉を跳ね上げた。

「佐倉亨誘拐事件について? そう言ったのですか?」

『はい』女性が無愛想に答える。

(須藤隊長は、まだ事件について公表していないはず……)

 どこからか情報が漏れたのか。ほたるは一瞬、事件のあったコンビニの店員を思い浮かべた。次に、登校しない亨とほたるを不審に思うであろうクラスメイトが頭に浮かぶ。あるいは、犯人自ら、情報撹乱を目論んで。……考え出したらきりがなかった。

 しかし、イタズラだとわかったら叩き返せばいいだけのことである。ほたるは、今は情報があるならどんなものでも欲しかった。

「……繋いでください」

『少々お待ちください』

 ほたるが頼むと、女性が電話機を操作するのが気配で伝わった。

 受話器から聞こえる音の質が変わり、しんとした沈黙が下りる。

 ほたるは、こちらから声をかけなければならないことに思い至り、「もしもし、お待たせしました」と少し慌てて電話が繋がっていることを確認する。「SLW日本支部第一捜査隊、小野準二等隊員がお伺いします」

『佐倉亨についての情報を提供したく、連絡差し上げた』

 落ち着いた男性の声が、ほたるの耳に心地好く響いた。

 ほたるはメモ帳とボールペンを資料の山の隙間に見つけ、情報を聞く体制を整える。

「ありがとうございます。どのような情報でしょうか」

『佐倉亨の現在地と、犯人の動向、それから第三者の介入の可能性』

 男性はゆったりとした口調で、はっきりとそう言った。

 ボールペンを握る力が強くなる。真実か、嘘か、見極めなければならない。

「詳しくお聞かせいただけますか」

『佐倉亨は現在、軽井沢にある、加納由紀治という男の別荘の一つに捕らわれている。しかし、彼はもうすぐ自分の力で脱走する』

「……はい?」ほたるは自分でも間抜けだと思うような声を出す。

 この男は、現在の状況だけではなく、未来の予測まで語り始めた。

 胡散臭い、とほたるは思った。

「あの、イタズラでしたら公務妨害の疑いで通報しますが」

『悪戯などではない。これが事実であることはすぐにわかる。……話を続けよう。佐倉亨が脱走した後、しばらくは誤魔化せるが、やがて犯人はそのことに気づき、佐倉亨を探しまわるだろう。犯人の中には「千里眼」という遠隔認知に特化した能力者がいる。彼女にかかれば逃げ出した佐倉亨を見つけることも容易い。加えて、「碧の瞳」が迫っている。奴に見つかると今の佐倉亨には手に負えない。つまり、見つかる前にSLWと合流できなけば、佐倉亨は助からない』

「……」イタズラだ、そう頭の半分で思いつつも、ほたるは集中して男の声を聞いていた。

 この声の主を知っている。

 思い出さなければならない。

 どこか懐かしく思えたその声に聞き入っていた。

『しかし、ひとつだけ救いがある。「白銀の脳細胞」は、今回は佐倉亨の味方だ。彼女の使者が、佐倉亨を手助けしてくれるだろう』

「……」

 『碧の瞳』に『白銀の脳細胞』、ほたるには聞き覚えのない言葉が次々に飛び出してくる。男が何を言っているのか、ほたるにはほとんどわからなかった。

 わからなかったが、ほたるはいつしか、この男を信頼してよいと感じるようになっていた。

 無論、ほたるが信頼してよいと感じたことと、この情報が須藤らに伝えるべき真実であるということとは、必ずしも結びつかないことも理解していた。詳しく調べる必要があった。

「わかりました。ご協力ありがとうございます」

『信じ難いとお思いだろうが、これは真実だ』

「では、最後に一つだけ。あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」

 一瞬、躊躇うような間があった。

 しかし、男はほたるの問いに答えた。

『……四条理仁。貴女を守ると約束した者だ。小野ほたる』

 ー君を守ると誓おう、ほたるー

「シジョウ、リヒト……」

 ほたるはそう呟いて、はっと気づく。

 頬を伝った一筋の涙が、メモ帳に落ちて滲んでいた。

「どうして……?」

『……この名を出せば、須藤俊彰も信じる。それでは』

「待っ……!」

 プツン。

 ほたるは、役目を終えた受話器をしばらく見つめていたが、やがて電話機に戻した。

(名前を呼ばれた……)

 自分は名字しか名乗っていない、にもかかわらず、男はほたるの名を呼んだ。

 忘れてはいけないことを忘れている。そんな気がした。

「……って、今はそんなこと考えてる場合じゃなくて……!」

 ほたるは我に返ると携帯電話を取り出す。

 シジョウリヒトの名前を出せば須藤は信じると、男は言っていた。ということは、須藤ならば何か知っているのだろう。

 ほたるは素早く目的の電話番号を探し出し、上司を呼び出した。

 

   ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃

 

『なあ。なあってば……』

『……』

 亨は頭の中の声に話しかけるが、いつもの幼い声は返って来ない。

 監禁されているこの部屋には時計がないため、実際の時間はわからないが、もう何時間も無視され続けているような気がする。独りぼっちの寂しさからそう感じるだけかもしれないが。

 ー亨の頭の中に、ある恐ろしい可能性が浮かんでいた。

 そのことを頭の中の声に相談したいのだが、前述の通り、取り込み中のようである。

 おそらく№3ならば知っている。確かめなければならない。

 しかし、どうすればいいのかわからないまま、亨はベッドの上でシーツにくるまって悶々としていた。

「護…… お前、まさか、な……」

 亨は検査着の上から、自分の心臓に右手を強く当てて呟いた。

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