第14話 未練

 十六年前。長谷川邦彦は、SLWが発足する少し前から、当時は異能者研究の聖地と言われた、ドイツの片田舎のとある研究室に留学していた。

 彼の指導者として指名されたのは、サリヴァン博士を始めとして変わり者と評される人間が多かった研究室内でも、特に「異端児」とまで評された女性研究員。

『やあ、君がハセガワクニヒコか』

 緊張した面持ちで面会したのは、長谷川より少し歳上の、さらさらとした金髪に理知的な瞳を眼鏡の奥に隠した女性。

 彼女は微笑んで右手を差し出した。長谷川も一度ズボンで汗ばんだ手を拭ってから右手を差し出し、握手した。

『私は、アルベルティーナ・クラインミヒェル。長いからベルで構わんよ。よろしくな』

 それが、長谷川とアルベルティーナの出会いであった。

 彼女の研究スタイルは、長谷川に言わせれば「思いつき・即・行動」であった。

 彼女の打ち立てる仮説は、長谷川から見ると飛躍していたり、突飛もないものだったりすることがままあった。言った通り「思いつき」なのである。彼女は「直観だ」と言ったが、同じことだと長谷川は思った。

 そして、思いついたら即、行動である。本当に即時の行動すぎて、長谷川が研究が始まってから慌てて倫理委員会に宛てて許可申請書を作成したことは何度もあった。というより、彼女が事前に申請書を作成したことなどほとんどなかったと言ってよい。

 それでも、彼女は天才だった。科学の神様に愛されていた、とはサリヴァン博士の言だったか。彼女の打ち立てた理論は、異能者研究を十年早めたとも言われた。

 その結果、十五年前に異能者の存在が証明された。研究を指導したサリヴァン博士も、アルベルティーナと手を取り合って喜んだ。

 しかし、SLWが発足し、アルベルティーナも研究室の一員として働き始めた頃から、彼女の問題行動は隠しきることができなくなった。それは、SLWに出資する国からの監査が入るようになったことが大きい。片田舎の小さな研究室でも問題視はされていたが、国の補助が入ることになってからそれはますます上層部を悩ませる種となった。

 その知らせを聞きつけた長谷川が何度、倫理規定を遵守すべきだと言っても、アルベルティーナの耳には届かなかった。彼女の問題行動は、彼女が起こそうとして起こしているわけではないことは、長谷川にもわかっていた。もはや頭で考える以前の話なのである。彼女は思いついたらそのまま行動に移した。そしてその問題行動を非難され続けた。

 そして、とうとう起きてしまった十三年前の『アドルフ・ブルーノ兄弟遺棄致死事件』。当然、彼女の指導を受けていた長谷川も、倫理委員会から事情を聴取された。

 SLWの倫理委員会は、この事件をなんとかして隠蔽しようと躍起になっていた。SLWはまだ軌道に乗り始めたばかりであった。ここで不祥事が表沙汰になれば、世界から見放されることになる。

 とうとう、アルベルティーナを弾劾するために委員会が開かれることになった。委員の一人は、アルベルティーナをよく知る長谷川に、こう囁いた。

『クラインミヒェルが長年に渡って研究倫理違反を犯していたことを証言すれば、それを隠そうとしてきたお前のことは見逃してやる』

 長谷川は三日三晩悩んだ。当時の長谷川はまだ若手だった。ここでSLWからアルベルティーナとともに追放されてしまえば、どこにも行くところがなくなる。しかし、恩師であるアルベルティーナを裏切ることも、簡単にできるはずがなかった。

 委員会開始のギリギリまで悩んで、長谷川はアルベルティーナに付いて行くことに決めた。ネクタイを締め、スーツを着て、委員会に臨んだ。彼ははっきりと言うつもりだった。『彼女はSLWに必要な研究者です』と。

 委員会が始まると、担当者がアルベルティーナの問題行動の数々を説明し始めた。長谷川は『お前たちになにがわかる』と、まるでなにもかもわかっているかのように説明を続ける委員に憤っていた。

 そのとき、会議室のドアが開いた。

 出席者がそこにいる人物を認め、委員長は『何の用だ』と低い声を響かせた。

 アルベルティーナ・クラインミヒェルがそこに立っていた。

『研究倫理規定違反は私が一人でやった。ハセガワ研究員は私に倫理規定を遵守するよう助言し続けた。それを無視したのは私だ』

 ー長谷川は彼女がなにを言ったのか、一瞬わからなかった。彼女は自ら、SLWで築いた地位を捨てようとしているのだ。

 委員長は長谷川に向かって訊ねた。

『クラインミヒェル博士のご発言は本当ですか?』

 長谷川はアルベルティーナを見た。アルベルティーナは笑っていた。

『……』

 静かな会議室の真ん中で、どれほど悩んだのだろうか、あるいは案外それほど時間はかからなかったのかもしれない。

 長谷川は絞り出すように言った。

『……博士のおっしゃる通りです』

 委員たちはほっと、安堵するように息を吐いた。

 委員長が厳かに告げる。

『クラインミヒェル博士の責任は重い。ついては、SLW研究室より彼女を除籍することを提案する』

 異議なし、という声がいくつも上がった。

 委員長は満足そうに頷き、『それでは、クラインミヒェル女史は研究室から速やかに退去すること』と、会議室の入口で成り行きを見守っていたアルベルティーナに告げた。

 アルベルティーナもまた満足そうに『了解した』と答えて、そっと立ち去った。

 長谷川はいても立ってもいられず、その背中を追いかけた。

『ベル!』

 二人以外誰もいない廊下で、泣きそうになりながら指導者の名を呼ぶ。

 アルベルティーナは不思議そうに振り返った。

『どうしたんだ、クニヒコ?』

『どうしたんだ、じゃない! ここにいられなくなるんだぞ!』

『ああ、寂しくなるな』

 アルベルティーナはそう言うと、複雑そうな顔をした。

『でもな、どうしてかな、そんなに後悔はしていないんだ』

『……あんなに好きだった研究ができなくなるかもしれないのに?』

『それは困るから、どこか雇ってくれそうなところを見つけるよ。明日から求職活動だ』

 アルベルティーナは、珍しく冗談めかしてそう言った。

 何も返せない長谷川に、アルベルティーナは微笑んだ。

『元気でな。私がこんなことを言うのもおかしいが、研究、頑張れよ。お前は見所があるからな。ああ、指導の引き継ぎはサリヴァンに任せてあるから安心しろ』

『サリヴァン博士じゃない…… オレの指導者はアンタだけだ……』

『嬉しいことを言ってくれるね。私の弟子もお前が最初で最後だ』

 さようなら。アルベルティーナはそう言い残して、なんの未練もないかのように立ち去った。おそらく本当に未練などなかったのだろう。未練というのは彼女には縁遠い言葉だと長谷川は思った。

 彼女のことを何もわかっていなかったのは、長谷川も同じだった。

 悔いる心は十年以上の間、長谷川の中で燻っていた。

   ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃

 須藤率いる救助班は、亨たちが隠れているとされた住宅に足を踏み入れた。

 森隼人準一等が須藤に告げる。

「隊長、人が押し入った形跡が」

「ああ。うまく逃げ出せたならいいが……」

 玄関から室内に向かって、土足でずかずかと上がり込んだのであろう侵入者たちの足跡が残されていた。須藤たちも「失礼する」と一言断ってから土足で家の中に入っていった。

 リビングのテーブルは倒されており、椅子も脚が折れて転がっている。他の部屋も同じ状態だろうと、須藤たちは思った。

「ん…… SLWの方々ですかい?」

「……!!」

 森とほたるが須藤を庇うように前へ出る。テーブルの陰に、男が後ろ手で縛られて倒れ込んでいた。

 その声に聞き覚えのあった須藤は「待て」と警戒する部下たちに告げる。

 須藤が近付くと、男は気怠そうに半身を起こした。

 男の左目は大きく腫れ上がり、Tシャツには血と泥がにじんでいた。明らかに暴行された形跡に、現場慣れしていない赤松恵三等が息を呑んだ。

 須藤が「佐倉君のお父様ですね」と確認すると、正の分身は首を振った。

「オレは佐倉正の分身です。本体は亨と一緒に山に逃げ込みました。ついてきてください、追いかけましょう」

 正の分身は手首の関節を外して縄から抜け出すと、器用に関節をはめ直した。須藤は、彼がここでSLWを待っていたのだと気づく。

 見た目は痛々しかったが、正の分身は何でもないかのように立ち上がって、勝手口を目指す。

 ほたるたちが視線で須藤に指示を求めると、「ついて行こう」と須藤は答えた。

 五人が勝手口から家を出て、亨たちと同じように山へと入ろうとした、そのとき。

 ーパーン……

 どこかで銃声が響いた。

 五人の視線が交錯する。誰も何も言わなかったが、次の瞬間には走り出していた。

   ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃

 ーパーン……

 亨が足を踏み出そうとしたその場所に、弾丸に巻き上げられた土煙が立つ。亨の右足はどう反応すればよいのかわからずに宙に浮いた状態だったが、結局バランスを崩して尻餅をついた。

 目の前には、サングラスで目を隠した風音と、へらへらと薄い笑みを浮かべる№4の姿。風音の手には、少女の華奢な手に似つかわしくない拳銃が握られていた。

 正が亨を庇うように前に出る。

「随分早いご到着だな」

本物(・・)の千里眼を舐めないで頂きたいわ」

 風音が冷たく言い放つ。

 そして、正の方に目を向けると、「ふうん」と珍しいものを見たといった風に声を上げた。

「白銀の脳細胞……の、影武者ですか。息子も息子ですが、親も親ですね」

「……そりゃあどうも。ただし、今は休職中ですぜ」軽い調子でそう言った正の額に、暑さによるものとは違った汗が浮かぶ。「アレが人の心を読む娘か?」と小声で訊ねると、亨は小さく頷いた。

「隣のは姿を自由に変えられる能力者」

「なるほど」正が短く答える。

「まさかあそこから逃げ出されるとは思わなかった、さすがだよ。……亨クン、大人しく戻ってきてくれるならお父さんには手を出さない。どうする?」

 №4が笑みを絶やさぬまま、しかし警戒するように亨に話しかける。

 亨が何か言う前に、正が答えた。

「お断りだ。息子は渡さないし、オレも生きて帰る」

「親父は黙ってろ、僕らは亨クンと話をしているんだ」

「じゃあ俺から言わせてもらうよ、俺は戻らないし、親父と帰る」

 亨が答えると、№4は口の片端をつり上げた。

 風音も薄く笑って、「№4、お願いします」と囁いた。

 頷くと同時に、№4の姿がぼうっとぼやけたように、亨たちには見えた。№4の腕や脚は、ひょろひょろとしていた若い男のものから、筋骨隆々とした武闘家のように逞しいものに変化した。亨が正の背後で息を呑む。

「親父…… アレ相手にどうにかなる?」

「馬鹿にすんな、オレは白銀の脳細胞様の元影武者だぞ?」

 正は安心させるように笑ってみせた。

 変化を完了させた№4が、不敵に笑う。

「こういうのはあんまり趣味じゃないんだけどね……っ」

 言い終わるか終わらないかのうちに、№4が正の目の前に迫る。

 正は繰り出される蹴りから、自ら背後に飛び退って衝撃を逃れた。

「親父っ!」

「舐めるな……!」

 正は距離を詰めて、№4の腹部に蹴りを入れようと構える。№4は身体を捻ってそれを躱そうとするが、予想より一瞬早く繰り出された蹴りを躱しきれず脇腹に衝撃が走る。ただの蹴りにしては衝撃が強かったそれに、№4は笑みを絶やさずに問いかけた。

「なにそれ、何か仕込んでる?」

「さあ、どうだろうな?」

 蹴り出した足を引き戻して、正は悪戯に成功した子どものように笑った。

 少女の声が山に響く。

「№4、靴底に鉄が仕込んであります。蹴りには気をつけて」

「なーるほど」№4が感心したように息を吐いた。

「あーあ、ばらされちまった」

 正は心底残念だと言いたげな表情をしていたが、№4が拳を作って構えたのに応じて表情を引き締める。

 殴り合いが始まった。

 亨は固唾を飲んで拳の応酬を見守っていた。大丈夫だと笑った父親を信じていないわけではなかったが、亨は正のことをほとんど知らなかった。そのことが不安を増長させていたし、また、なにも知ろうとしなかった自分に腹立たしさも覚えていた。

「貴方が戻ってくるというのなら、お父さんは無事に返してあげてもいいのよ?」

 いつの間にか隣に立っていた風音が囁く。

 亨は彼女に、きっ、と目を向ける。

「信じられるかよ、そんなの」

「貴方にも、不完全でも千里眼があるんでしょう? 私の心を覗いて見ればいいわ。嘘なんて言っていないことはわかるでしょう」

「……なに、覗いていいの?」

 亨は意外に思った。彼女の頭の中には、組織についての情報もあるはずだ。自分の千里眼を使えというのは、それを自ら曝け出そうとするのと同じことのはず。

「なにを遠慮する必要があるの? 危機に陥っているのはそちらなのに。手段なんて選んでいる場合じゃないでしょう?」

 それに、どうせ貴方は私たちが連れ去るんだし。と、風音は付け加えた。

 本人の許可があるならいいだろうと、亨は目の前の少女に意識を向ける。頭の中に、彼女の思考が流れ込んでくる。

 その中に、ひとつ、亨を引きつけるものがあった。

(え、この子……)

「嘘じゃないのははっきりしたでしょう、わかったのなら降参して。早くしないと、お父さんの無惨な姿を見ることになるわよ」

 風音はいらいらとした様子で亨に詰め寄る。

 亨はこくんと唾を飲み込んで彼女の顔を見た。

(彼女を止めれば、№4も引き下がるはず……)

 否、そんな打算以前に、亨には彼女を見捨てておけなかった。

「風音さん」

「……なに?」

 名前を呼ばれて一瞬戸惑ったようだったが、風音は千里眼の能力だと気づいて応じる。

 亨は訊ねた。

「どうしてそんなに、親父を懐かしそうに見ているの?」

「……?」

 風音は、意味がわからないと言った風に亨を見やった。

 だって、と、亨は続ける。

「君は、姿を見られたのに、俺さえ連れ戻せれば親父を無事に返そうとしてる。そんなことしても自分たちが不利になるだけなのに。犯罪組織の人間のやることとは思えない。まるで、……『あのとき』親父さんたちに認めてもらいたかったのを、やり直そうとしているみたいだ」

「……っ!」

 風音の表情が険しくなる。しかし、あくまで冷静な声で、

「そこまで心を読むなんて、デリカシーのない子ね」

 と亨を蔑んだ。

 亨は怯まない。

「ねえ、風音さんは」

「もうやめなさい」

「『あのとき』、認めてもらいたかったんでしょう?」

「やめなさい」

「自分の能力で弟が助かったことを」

「やめて」

「いや、それ以前に、」

「やめて……」

「自分がここにいていいんだってことを」

「いい加減に……」

「でも」

 亨は告げる。

「普通の人間らしく親父を助けたところで、ましてや、犯罪者として俺を連れ戻したところで、君の帰りたかった場所には帰れないよ」

 亨の背中に衝撃が走る。胸ぐらを掴まれ、立木に背中から叩き付けられたのだと遅れて気づく。華奢な体つきをしているが、それなりに力はあるらしい。

 風音が忌々しげに亨を見ている。

「思っていたより、自分の能力を真似されるって嫌な気分ね。しかもこんな子どもに説教されるなんて」

「いや、歳そんなに変わんないでしょ……」

「五月蝿い。……『帰りたかった場所』? そんなものないわ。彼らは私が帰ることを望まなかった、私を排除しようとした。だから捨ててやったのよ、もう、私には要らなかったから!」

 風音は、最後は叫ぶようにそう言った。

 亨の目に憐れみに似た色が浮かぶ。

 それを見て取って、風音の苛立ちが頂点に達する。

「なによ、その目は! 言いたいことがあるなら言いなさいよ!」

 離れたところで殴り合う正と№4にも、その悲鳴にも似た叫びは聞こえたのであろう、彼らの意識が一瞬、亨たちの方に向けられる。

 亨も負けてたまるかとばかりに叫んだ。

「アンタこそ嘘つくな! 帰りたかったんだろ、家に! 帰れると思ってた、帰るのが当たり前だと思ってた、だから除け者にされそうになって慌てて逃げ出してきたんだろ! アンタにはあの家が必要だったんだ!」

 亨の腹部を鈍い痛みが走った。少し遅れて、殴られた、と理解が追い付く。血のようなものが胃から口までせり上がってくるような感覚。正の「亨!」という悲鳴にも似た声と、№4の「千里眼⁉」と戸惑ったような声が響いた中に、

「佐倉さん!!」

 しばらく聞いていなかった懐かしい女の子の声が聞こえたような気がしたが、その声の主の姿を確かめる前に、亨の意識は闇に沈んだ。

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