第1話 サーカス

 

「パパ、どこに行くの?」

 帰宅して間もないにもかかわらず、再び出掛ける準備を始めた父に、娘は訊ねた。
 父は視線を一度、娘に向けると、すぐに目を逸らして、「ちょっとな」と答えになっていない返事をした。
 娘はますます気になって父に問いかける。
「帰ってきたばかりじゃない。お遣いにならわたしが行くわ」
「いや、ちょっと職場でトラブルがあったから、片付けにいくだけだよ」
 職場に行くのであれば、娘を連れて行くわけにはいかない。そのくらいのことはわかっていた娘は、「気をつけてね」と笑って手を振った。
 父は一瞬だけ出掛けるのを躊躇うように立ち止まった。
 そして今度は娘の方に振り返って、その頬をくしゃくしゃと撫でた。
 娘は目を細める。この、粗雑だが暖かく撫でてくれる手が好きだった。
「行ってくる」
 父はそう言って出て行った。
 それが、娘が聞いた、父の最後の言葉だった。

 

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 白い廊下を走っていく少女がひとり。腰まで届く長いおさげを振り乱し、白いワンピースをひらひらと舞わせながら駆け抜けて行く。廊下を歩いていた白衣の研究員たちは彼女にぶつかりそうになるのを避けながら、「またか」と苦笑して見送っていた。
 少女の手には、先ほど手に入れたフライヤー。
 紙の質が悪く印刷も不鮮明なそれには、「Noah’s Ark(ノアの箱舟) ~Peter Pan(ピーター・パン)~」という大きくてカラフルなポップ字体と、空を飛んでいる少年の写真で賑やかに彩られている。
 少女には、これを誰よりも早く見せたい相手がいた。
 白衣の間をくぐり抜け、少女が飛び込んだのは研究所の一番奥の、日陰部屋のそのまた奥のデスク。
 パソコンとにらめっこをしている女性に、少女は後ろから勢いよく抱きついた。
「ミーナっ!」
「っ、アンジュ! びっくりさせないでよ……!」
 女性――ミーナは、飛びつかれた勢いでズレてしまった黒ぶちの眼鏡をもとの位置に戻してから、腰にまとわりついた少女を引きはがす。
 一方の少女――アンジュは悪びれた様子もなく、フライヤーを友人の前に突き出す。
「なに? ……サーカス?」
「んー、わたしもよくわかんないんだけど、演劇みたいなストーリー仕立てで、サーカスみたいに大道芸やるんだって!」
 ミーナはさっとフライヤーに目を通してから、それをアンジュに返す。
 それからなにも言わずにパソコン画面とのにらめっこを再開するが、その側で期待に満ちた眼差しを向けられれば、気が散らないわけがなかった。
「……あのね、サーカスってどういうものかわかってる? 人がいっぱいいるし、空気もテントの中で篭りきってるし、動物だっているし、アンタの身体じゃ行くのは無理。諦めなさい」
「えーっ!?」
 アンジュは世の終わりのような声を上げる。
 話は終わった、とっとと帰れと、ミーナはアンジュに背を向けた。
 アンジュはその背中に飛びついて戯れる。
「アンジュ、今、仕事中だから……」
「お仕事終わったらサーカスに行こ!」
「ダメよ、アンタになにかあったら責任取れないわ」
「最近ちっとも遊んでくれないじゃん……」
「……」
「ミーナが仕事詰めだったから、いい気分転換になると思ったのに……」
 小さく零された言葉に、ミーナも返事につまる。
 静まり返った研究室の隅っこを、沈黙の妖精たちが行進しているような気がした。それが三人くらい通り過ぎていった頃、とうとうミーナの方が折れた。
「……いつもの場所に、変装して来なさい。遅刻したら帰るわよ」
「……! ありがと! ミーナ大好き!」
 アンジュは身を乗り出してミーナの頬にキスを送る。そして素早く身を翻して、部屋を出て行った。
 呆れたような、恥ずかしそうな、嬉しそうな表情のミーナがひとり部屋に残される。
「ダメだなあ…… あたしもあの子にだけは甘いよなあ……」
 さて、上司に見つかったときの言い訳を考えておかなければ。
 ミーナはパソコンとのにらめっこを再開しながら、頭の片隅でうまい言い訳がないか考え始めた。

 

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 インド・ニューデリーにある研究所で、アンジュは実験参加者として暮らしている。
 実験参加者と言えば聞こえはいいが、一昔前の言い方だと被験者だ。
 その研究の対象は、アンジュが持っている、他人にはない能力であった。
(あ、まただ)
 ミーナの研究室から出て行ったアンジュは、自分の後ろ姿が視界に入ったことに気づいて、息は吐いていないのだが溜め息を吐くような仕種をする。
 気持ちを落ち着けて、頭の中で繰り返す。
(わたしはここ、わたしはここ、……)
 すると、手足の感覚が戻ってくる。
 ここでようやく本当に溜め息を吐いて、もう一度走り出す。
 幽体離脱。
 アンジュの一族は時々、魂が身体から離れていく特異体質の人間を生み出してきたのである。
 研究員たちは、この現象について仮説を立てている。
 いわく。
『霊子にSn細胞が拡散している』
 霊子とは、いわゆる幽霊を構成している物質らしい。
 そしてSn細胞とは、異能者を異能者たらしめる特殊な細胞。
 極めて珍しいタイプの異能者らしく、アンジュは物心ついた頃から、一族から引き取られてこの研究室にいる。
(……?)
 一瞬、何となく違和感を覚えたが、アンジュは気にせず走り続けた。
 それよりも、すぐに今夜の衣装を用意しなければならない。

「そうだ、ミーナにもらった髪飾り、着けて行こう!」
 走っていたのが段々とスキップになり、ついにはくるくると踊りながら、アンジュは廊下を走り抜けた。

 

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 この世界には、異能者がいる。
 その事実が証明されたのは、今から十五年ほど前のこと。
 ルイーゼ・サリヴァンという科学者は、異能者を異能者たらしめる細胞・Sn細胞の存在と、その細胞によって異能が発現する原理を解明し、世界に衝撃を与えた。
 伝説や物語に登場する異能力者は実在する。
 もともと、彼らは常人には感じえないものを感じ取り、常人には真似できない不可思議な術を用いた。そのために、常人の社会から飛び出したり、排除されたり、あるいは反対に祀り上げられたり、そうでなければひっそりと息を潜めて、人間社会にとけ込んで生きてきた。祀り上げられてきた異能者たちの超能力的な行為は常人の想像を超えたものであったため、長い間、異能者たちは「神に遣わされた者」として、多くの人々の信仰を集めた。
 しかし、現代になって、異能者の存在が科学的に明らかになった。異能者はSn細胞の測定によって発見することができるようになり、祀り上げられてきた異能者たちにも研究者の関心が集まるようになった。
 当初は科学による自分たちの能力の解明を良しとしなかった異能者たちであったが、異能研究が世界的に知れ渡るようになると、若い次世代の異能者たちは自分の異能が一体何なのかを知りたいと、自ら研究所の門を叩くようになった。現在では、異能者を中心とする団体が異能者研究機関となんらかの関わりを持っていることも珍しくない。異能研究者たちはデータを、異能者たちは自分たちの能力にお墨付きをもらうのである。
 このような時代の流れの中で、異能者研究は現在でも発展を続けている。
 
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 ミーナはいつも通り、中古の大型スクーターで乗り付けた研究室の裏の小さな公園の前で、崩れかけたブロック塀に腰掛けてアンジュを待っていた。
 目の前にあるのは、とある財団が運営している研究所の、白亜の建物。周りには古い建物が多い中、この建物は夜中でも発光しているのではないかと思うくらい新しくてきれいな外壁で、なんとなく近寄り難い雰囲気を醸し出している。
(本当、忌々しい研究所よね……)
 そう心の中で毒づいたミーナは、しかし数年前、ここへ自ら志願して入所した。
 若いにもかかわらず、熱心な研究態度から研究所では一目置かれている彼女であるが、極端な人付き合いの悪さが原因で、いつも研究所の奥の方に引きこもっている。
 当然だ。研究所のメンバー、特にあの上司と、仲良くなどできるはずがない。
 誰とも話さず、ただ機体に向かう、そんな彼女を外に引っ張り出すのは、いつだって。
「ミーナ! 待たせたっ?」
 アンジュはミーナに言われた通り、長いおさげを解いてツインテールにして、服装も地味なものを選んで変装していた。前髪には、存在を主張し過ぎることのない、花の模様があしらわれた銀の髪留めが飾られている。
 目の前で立ち止まったアンジュの全身を確認してから、ミーナは自分が被っていたキャップをアンジュの頭に乗せる。
「これで万全」
「へへ、ありがと」
 ミーナは公園の時計に目をやると、「ちょっと急いだ方がいいかもね」と呟くように言って、スクーターに腰掛けた。その後ろに、なにも言われなくてもアンジュが飛び乗る。
「行くわよ」
「うん!」
 アンジュが自分の腰にしっかりと抱きついていることを確かめてから、ミーナはスクーターを発進させた。

 

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 舞台裏で、四条理仁はほうと息を吐いた。
 近くにいた、今回の主役・ピーターパンの衣装を身にまとった一人の同僚が、それに気づく。
「どうしたのよ、理仁?」
 長年連れ添った親友でもある彼女に、理仁は心配要らないと微笑む。
 しかし、それで誤魔化される親友ではなかった。
「例の女の子のことね?」
「……」
 理仁はしばらく黙っていたが、観念したように口を開く。
 それは、彼が彼女にだからこそ零せる弱音だった。
「桜…… オレは、今度こそ救えるだろうか」
「大丈夫よ。今回はアタシも、十兵衛もいるんだから」
「アネキ、呼んだー?」
 名を呼ぶ声に気づいた少年が、桜と理仁のいる場所を振り返る。
 桜は「今はいい」と少年に答えて、理仁の隣に腰掛けた。
 隣に感じる体温に理仁の心が落ち着く。
 理仁はそっと囁く。
「ああ…… 必ず彼女を救い出す」
オウ
 短いが、世界中の何よりも頼りがいのある返事に、理仁はふっと笑みを零す。彼女や、先ほどの自分の騎士とならば、たとえ凶弾が飛び交う戦場であっても、きっと平気だ。理仁は心からそう思った。
 彼は、一年前の約束を果たすために、戻ってきた。
 

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