第16話 ヒロミツ

 

 ずるずるとパイプを引きずって歩く人形の少女を、所員達は遠巻きに見やった。
 ふらふらと倒れこみそうな不安定さでありながら、その足取りに迷いはなかった。
 アンジュはなにもない虚空を見つめながら、ひたひたと歩く。
 ミーナと一番長い時間をともに過ごした、あの場所。
 研究所の端にある日陰部屋。
 もともと人気の少ない場所だったことに加え、今は荒れ狂った品評会のために多くの所員が地下ホールから動けずにいる。それはミーナも同じだった。
 けれど、アンジュが真っ先に来たのはここだった。
 ここに来ればミーナに会えるという信念が、何よりも勝って思考の真ん中にあった。
 扉を引くが、鍵が閉まっていて開かない。
 アンジュは首を傾げたあと、パイプをドアに向かって振りかざした。

   ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃

「うおおおぉぉっ!? なんだなんだ、見つかったか!?」
 背後で何者かがドアを叩く――というより、叩き壊そうとする振動に、聖は純粋な恐怖心から首を縮こませた。
「だから嫌だったんだよッ、俺は現場要員じゃないって言っただろ理仁のド阿呆ッ!」
 ミーナの研究室には、聖が潜り込んでいた。桜が奇襲を仕掛けたのと同時に、狼狽える所員の混乱に乗じて所内に入り込むのは容易かった。あとは、ミーナの残したコンピュータに直接アクセスするだけ。
 のはずだった。
 少なくとも数分前までは。
「理仁ォ! これでなんかあったら一生恨むからなぁぁぁ!」
 若干涙目になりつつも『ANJU』と『DIL』のデータをミーナのパソコンからコピーする手際に迷いはない。データ移行完了まで5分、4分、……3分までカウントされたところで、白い扉は前方に倒れて、扉としての役目を終えた。
 聖がぎこちない所作で振り返ると、そこにいたのはあどけなさの残る少女の顔をした機械仕掛けの人形。
 先日まで人間の少女のように動き回っていたアンジュだった。
「お前が、アンジュか……」
 聖の口から声が漏れる。その声に反応したのか、アンジュだった人形が顔を上げる。
「……」
「……意識は…… なさそうだな……」
「……」
「……敵じゃない、味方だ、って言って伝わるか……?」
「……」
 人形はくるりと部屋を見渡し、口を開く。
「101111100100110100101100110100010110101100110100111001111100010111010011111010110100110100111110010110011010」
「……アルシャド言語?」
 聖が身構えるのとほぼ同時に、人形はパイプを握りしめて聖の方に向かってきた。小さな体のどこからそんな力を出しているのか聖にはさっぱりわからなかったが、あのパイプで殴られたら腕の一本は逝きそうだなと妙に冷静に分析する。反射的にそれを避けようとして、背後に設置した端末のデータ移行が終了していないことに気づき聖の動きが止まった。
(あー、腕一本で済みますように……)
 パイプが振り下ろされることを覚悟し、最低限の被害で済むように利き腕でない左腕を頭上に掲げた。
 覚悟していた衝撃は、しばらく待っても訪れなかった。
「……あんた、普段飄々としてるくせにピンチになるとテンパるわよね」
 呆れたような、安心したような優しいアルトに、そっと目を開ける。
 叩き壊された扉の向こうに、九節棍を操る紅い瞳の少女が立っていた。
 その棍棒の先は、人形が振り上げたパイプに絡み付いて、その動きを制している。
 彼女(桜)に助けられたのだと遅れて理解する。
「遅いんだよノロマ。呼び出してから何分かかってんだ」
 助けられたことに感謝はするが、口をついて出るのはいつもの悪態ばかり。これはもう脊椎反射なので、仕方がないと勝手に諦めている。
「ハァ? 助けてもらっといてその言いようはないでしょ? テンパりバカ聖」
「うるせーよ……」
 力なく呟いてへたり込む。桜がそれ以上言い返さないので妙に調子が狂うが、とりあえずほうっと息を吐いた。
 人形は桜の方をじっと見て口を開く。
「111000010110011110010111101100010110110010100100010110111110011010」
「あー、ごめん、アンジュちゃん。その言語理解できないんだけど……」
 桜はそう言って聖の方を見やる。
「そっちのバカならわかるかもしんない」
 バカ呼ばわりされたことはこの際気にせず、聖はこの場を納める最も適当な文章を導き出す。
「111010110100110100111110010110110000111000111110111100101000100100110100101100110100010000…… ミーナはここにはいねぇよ」
 聖がそう言うと、人形は小首を傾げてしばし思考したあと、
「010111111110110110110100101100111000101000010110111110110110110000111110100110010000」
 そう言い残し、九節棍が絡み付いたパイプを放り捨てて、よろよろとした足取りで桜の横を通り過ぎ、部屋から出て行った。
 桜は人形のことも気になったようだったが、それよりも先に聖のもとに駆け寄った。
「ホント、バカじゃないの? ハッカーが腕折ろうなんて自分から武器を捨てるようなものじゃない。なんで避けないのよ」
「こっちにはこっちの事情があるんだよ」
 そう言って背後のデスクトップを指で示す。
 画面には『End』文字。身を挺して守ろうとしたコピー作業は無事に完了したらしい。
「わかったか?」
「なにかが終わったってことはわかった」
 彼女にしてはまともな返答だったので聖はいつものように悪態をつこうとする口を閉じた。
 桜は人形が歩いて行った方を見て眉をひそめる。
「アンジュちゃん、どうなっちゃったの? アタシさっぱりわかんないんだけどアンジュちゃんが壊れかけてるっぽいのはわかる」
「その通り、壊れかけてるんだ。プログラム『ANJU』には穴がある。それを埋めない限り、『ANJU』は自己破壊を繰り返して自滅する」
「なんで?」
「そうプログラムされてるんだよ。誰がどうしてそんな真似したのかは知らねぇがな。順当に考えれば作成者のミーナがそうしたんだろうが……」
「ミーナがアンジュちゃんにそんな酷いことするとは思えないわ」
 桜はゆっくりと首を横に振った。聖はミーナとは面識がないのでなにも言い返せなかった。
「……ひとまず、アンジュの方は理仁に任せて、俺は『DIL』をなんとかする」
「ディルって何?」
「今この瞬間にもこのインドという国を転覆させようとするウィルスだ。細かい説明は端折るがこっちを止めないとインターナショナルにヤバい」
「なんかわかった」
 雰囲気だけでもわかり合ったところで、地下から爆音が響くとともに、研究所の建物が小刻みに揺れた。
 桜と聖が顔を見合わせる。
「あっちもなんだかヤバそうね」
「ああ。『DIL』の件でも『ANJU』の件でも作成者であるミーナの協力が不可欠だ。桜、ミーナをここに連れてきてくれ」
「了解。……って言っても、素直について来てくれるか微妙だけど」
「なんだ、喧嘩でもしたのか?」
「んー、っていうか、単純に嫌われてるのよね」
 他人の心中を語るには断定的すぎるとも思えるきっぱりとした言い様に、聖は「ああ」と得心がいったように頷いた。
「お前、インドア派には鬱陶しく見えるんだよな」
「現役引きこもりの貴重なご意見どうもありがとう。うるさいわよ」
「ま、お前はお前らしくやればいいさ。お前の懸命さはちゃんと伝わるよ」
 揶揄(からか)うつもりなしに、聖は思ったままを口にした。
 桜は意外そうに聖の顔を一瞬見て、顔を綻ばせた。
「……ありがと。行ってくる」
 そう言い残して、桜は部屋を駆け出していった。
 聖は床にどんと胡座をかくと、散らばったラップトップの一つを膝の上に乗せて構える。
「さて、ノアの箱舟の『蛇』、松原聖サマの伝説の始まりだ」
 骨ばった細い指が、目にも留まらぬ速さでキーボードの上を踊った。

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 ミーナをかばうように、理仁が一歩前に出る。
 それに対して、タウフィックが進み出た。
「ノアの箱舟の『魔王陛下』か。三年前の俺と同じと見縊るなよ」
「……雷帝・タウフィック。神経系にSn細胞が集まった電気エネルギー操作系の能力者、だったか」
 理仁が腰に携えた太刀に手を伸ばそうとしたとき、「待ってください」と少年の声が理仁を制する。
「魔王様、ここはオレが」
「十兵衛……」
 十兵衛は自分の背丈ほどもある大剣を構え、理仁の前に立った。
 意識はタウフィックに向けたまま、十兵衛はそっと理仁を振り返る。
「オレの武器は、このホールくらい広いところじゃないと勝手が悪いですし。それに、ミーナさんを救うって、アンジュさんと約束したんでしょう? 約束は守らなきゃ」
 アンジュ、と、理仁の背後でミーナが呟く。
 理仁は逡巡していたが、タウフィックの唸り声とともに十兵衛が駆け出すのを見て、「無理はするな!」と叫んだあと、ミーナの手を取りステージ裏に駆け出した。
「ミーナ!」叫ぶアニルの声が轟音にかき消される。
「なに、なんなのよ、アンタ達……!?」
「……異能力を見るのは初めてか?」
 研究所員達がミーナの姿を見とめて襲いかかろうとするのに対して、理仁は右手を振りかざした。途端、襲いかかろうとしていた所員達が時間が止まったように動かなくなる。
 ミーナはこくりと唾を飲み込んだ。
「異能者…… 魔王陛下……」
「そうだ」
 理仁は地上へ出る通路を的確に選んで進む。
 階段の踊り場に出たところで、待機していた傭兵達が理仁達に銃を向けて待ち構えていた。理仁はコートを脱いでミーナに差し出す。
「弾除けだ。頭から被って表から見えないようにしろ」
「って、こんなコートじゃ銃弾貫通するでしょ……!」
「異能者が作った特注品だ。鉛玉くらいなら十分除けられる」
 有無を言わせない理仁の態度に、ミーナは仕方がなく与えられたコートを頭から被る。
 ミーナがすっぽり収まるそのコートは、なんだか懐かしい香りがした。
 しかし、懐かしさの正体を探る前に、銃弾の雨が理仁とミーナに向けて注がれる。
 悲鳴を上げるのも忘れて、震えながら黒いコートの端を、手が真っ白になるほど強く握りしめた。
 特注品だというのは本当のようで、銃声は耳を劈くようだったが弾が触れた感触すらない。どういう原理なのかわからないが、研究者としての科学的根拠の追求はこの際捨て置いて、その恩恵に預かることにする。
 銃声が止むのを待ちながら考えるのは、幼い電子の友人のこと。

 アンジュは、ミーナを救って欲しいとこの異能者達に頼んだという。
 ミーナは彼女を、用済みとばかりに捨て去ったのに。

「なんでそんなこと頼んじゃうかなぁ…… 本当、わけわかんない……」
 悪態を吐いた声は涙声だった。

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 降り注ぐ銃弾の第一波を跳躍でかわした理仁は、第二波の銃撃に対して、静かに右手を振りかざした。
 銃弾は時間を遡行するかのように銃口へと吸い込まれていき、巻き戻った銃弾を銃身は受け入れることができず爆発する。
 思わぬ反撃に逃げ惑う傭兵達を、理仁は無関心な目で見送った。逃げようとする者を追うつもりはなかったし、逃げてくれるならむしろありがたかった。他にまだ戦うつもりのある人間がいるのかを見回していたとき、

 その視界が、なんの前触れもなく暗転する。

「よぉ、ヒロミツ。まだ生きてたの?」

 忌々しい声のする方向に直感だけで太刀を向ける。
 キンッ、と金属が触れ合う硬質な音が響き、受け止めきれなかった衝撃を殺すように後ろへ飛び退る。
 対峙するのは目に見えなくてもわかる、灰白色の中途半端に長い髪をうなじでまとめた、碧く輝く眼球を持つ白皙の死神。
「そちらこそ、この世に用などないんだろう、ユーリ・クズネツォフ。さっさと地獄へ堕ちたらどうだ」
 吐き捨てるようにそう言うと、どちらからともなく舌打ちが漏れる。
 悪態をつき合うのはもはや原始反射的な行動であって、そこにはあまり理由などないのだが、そもそも双方にとって理由など必要なかった。ただ、このやりとりが何百回と繰り返されたことで、互いに互いのことを世界で一番気に食わないと確信するに至ったことは違いない。
「やっぱりお前は気に食わねぇな。ここらで首落としてけ」
「アヴェ・マリア唱えてから掛かって来い。全身の骨を断ってやろう」
 この世界で一番純粋にこれっぽっちの意味もない何百回目かの私闘が、狭い階段の踊り場で静かに幕を開けた。

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