第18話 サイレン

 階段で繰り広げられる緋と碧の結晶型能力者同士の戦いと、機械仕掛けの少女が人間の女性の腕をひねり上げるという異常な光景を目の当たりにして、追いついた十兵衛は一瞬、どちらから先に手をつければいいのか迷った。
 しかし、「十兵衛、ミーナを!」という、彼が一番好きな少女の端的かつ鋭い指示で、機械仕掛けの少女を止めるために手足が動いた。
「アンジュさん、すみません!」
 おそらく声は届いていないだろうが一応断った上で、十兵衛はアンジュの腕に手をかけた。アンジュの視線が十兵衛に向く。
 ミーナにさほどの脅威はないと判断したアンジュは、新しい敵である十兵衛に標的を変更した。ミーナから手を離し、十兵衛の腕を振り払って後方に飛びすさり距離を取る。
「101111100100111100010110101100110100111001111100010111011010」
「……! ミーナさん、アンジュさんと会話、できませんか!?」
 自由になった腕を抱えて呆然とするミーナに、十兵衛は叫ぶように訊ねる。
 ミーナは「え?」と、そんなことは考えてもみなかったというような訝しげな表情を向けた。
「アンジュさんの使ってる言葉、ミーナさんにはわかりませんか? 敵意がないことを伝えればひょっとしたら――!」
「そんなの、アンジュに届くかどうか……」
 戸惑うミーナに十兵衛は若干声を荒げる。
「このまま手をつけられないよりは、なにかした方がずっといいでしょう!」
「ひっ……」
 ミーナは怯えたように後退る。十兵衛は、怖がらせたことに対する反省と、このくらいで怯えるなんてという苛立たしさで、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
 ミーナに期待するのはやめて、アンジュの拘束に頭を切り替えた十兵衛は、もう一度、背中に黒い羽を構成する。
 極力傷つけずに捕らえるには、蔓状に変化させたのでは具合が悪い。そう判断すると、今度は羽を網状に変化させる。黒い網になった羽が高速で、アンジュを包み込むように迫りゆく。
 羽のスピードに反応できなかったアンジュは容易く網にかかり、もがけばもがくほど複雑に絡みつく。
「アンジュさん、すみませんがしばらくこのままで辛抱してください」
 無表情で拘束から脱出しようとするアンジュに、十兵衛は声をかける。ミーナが無理でも、理仁ならばアンジュの言葉を理解できるかもしれない。十兵衛は、理仁とユーリの喧嘩が終わるまでしばらく待とうと考えていた。
 しかし、アンジュはそんな十兵衛の考えを知ってか知らずか、さらに抵抗を激しくした。機械の身体の節々から「ミシリ」という不吉な音が響いたことに、十兵衛は目を見開く。
「抵抗しないでください、アンジュさん、身体が壊れてしまいます!」
 返答はない。アンジュは人間であればありえない方向に関節を曲げようとした。十兵衛は、アンジュの身体のためには、一旦拘束を解くべきかと唇を噛んだ。

「010110111110100000010111001011111000101000111100101010001011」

 女性の悲鳴にも似た声が響く。
 十兵衛とアンジュの視線が女性に向く。
「ミーナさん……?」
「アンジュ、あたしよ、ミーナよ! 壊れちゃうから、もう抵抗しないで!」
 アンジュは首をかしげた。
「111010110100110100111110010110011010」
 十兵衛にはアンジュがなにを伝えたいのか皆目わからなかったが、ミーナは頷く。
「111010110100110100111110010110010000111001110100111000010011110000010110111010111010110100110100111110010110001011」
 それを聞いたアンジュは、初めて表情に変化を見せた。
 十兵衛は驚いた。彼女は口角を上げて、微笑んだのだ。
 壊れかけた機械が浮かべる人間のようなその笑顔は、見る人を不安にさせるような歪さを含んでいた。
「100010110000111110010110011100011100111001110000100010111100010111111110110110111001111100010111010000」
 ミーナはアンジュの言葉を聞いて、顔を覆った。

 アルシャド言語。
 ミーナの父が作った、使える人間などほんの数人しかいない、オリジナルの言語だ。
 ミーナにはアンジュの言葉がすべて聞こえていた。けれど、彼女に自分の言葉が届くか、不安だった。彼女は耳を傾けてくれるという、確信を持てなかった。いや、それどころか、届くはずがないとすら思っていた。だから、少年に会話を試みるよう説得されたとき、戸惑ったし、躊躇した。
 けれど、少年が生み出した網にとらわれて、自分を傷つけてまで逃げようとする彼女を止めたくて、その一心で、ミーナは叫んでいた。

『アンジュ、やめて!』

 母親に縋りつく子どものように必死だった。
 少年とアンジュの視線がミーナへ向く。
「ミーナさん……?」
 アンジュは首をかしげた。
『ミーナ?』
 ミーナは頷いた。
『そうよ、あたしよ、ミーナよ!』
 それを聞いて、アンジュは不器用に笑った。
『ミーナ。やっと見つけた』
 ミーナは気づいた。
 彼女はミーナを探していたのだと。
 捨てられても、壊れかけても、アンジュはどうしようもなくアンジュだった。
 ――疑って、問い詰めて、その手でこの首を絞めつけてくれたほうが、よっぽど気が楽だったのに。
 ミーナは顔を覆った。
 涙は流れない。
 ただ、胸が締め付けられるように痛かった。

   ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃

 視界封印はすぐに解けた。ユーリにしてみれば挨拶代わりだったのだろう。理仁は太刀を構えなおしてユーリと対峙した。
 ユーリは短剣を両手に構えて何度も理仁の懐に飛び込もうとする。狭い階段の踊り場では太刀よりも短剣のほうが有利。理仁は間合いを詰められないよう注意しつつ、両の剣を薙ぎ払って攻撃を防いだ。
 短期未来予知を使っているのか、あるいは理仁相手に喧嘩慣れしているためか(おそらく後者であろうと理仁は思った)、ユーリは慌てた様子もなく、薄ら笑いを浮かべたまま構えを取り直す。理仁は距離を取って次の攻撃に備える。
 先ほどからこの繰り返しだ。
「なんだよヒロミツ、全然攻めて来ねぇじゃねぇかぁ? 少し見ねぇうちに腑抜けたかぁ?」
 短剣を片手で弄びながらユーリが口を開く。忌々しい呼び方と、特徴のないくせに妙に神経を逆なでする声に、理仁は無表情の下で舌打ちしたくなった。
「貴様こそ、昔はもう少し狙いが正確だったと思ったがな。ご自慢の眼球が腐り始めてるんじゃないか?」
 今度はユーリがあからさまに舌打ちした。
「……テメェは気にくわねぇ」
「奇遇だな、オレも貴様が大嫌いだ」
 ユーリは両の短剣を握り直して、踊るように軽やかに理仁の間合いに入ってくる。太刀を構え直そうとするのを、ユーリは左脚で蹴り飛ばして、右の剣が理仁の首を狙って振り下ろされる。理仁はなにも持っていない左手でその剣を払って、足場の不安定になったユーリの脇腹を思いっきり蹴りつけた。ユーリの身体が宙に浮く。追加の一撃を加えようと太刀を振り上げた理仁は、ユーリが薄く笑っているのを見とめて目を見開く。
「幻視――!」
「遅ぇよ!」
 ユーリはなにもない虚空を足場にしてくるりと身を翻し、ガードのなくなった理仁の胴に短剣をつきたてようとした。
 理仁は息を飲み、その様子を呆然と見つめる。

 その瞬間、なにが起こったのか、理仁もユーリもすぐには理解できなかった。
 理仁の目前、ユーリの剣の前に、黒い影が前触れもなく現れたのである。

「……この緊急時に、なに遊んでんのよアンタたちはっ!!」

 理仁をかばうように現れた黒い影は、その得物をユーリの首元に当てて彼の動きを封じた。
「……なんだテメェは……?」
「桜……」
 黒い影烏丸桜は、呆れたようにため息をついた。
「アンタたち、顔を合わせれば喧嘩ばっかりして。トムとジェリーか」
 呆れてはいるが、警戒は緩めていない。桜は目の前のユーリを睨みつけた。
 一方のユーリは、「サクラ……?」と呟き、やがて思い出したように目を見開いた。
「サクラといえば、ヒロミツについて回ってたあのガキか……? 前会ったときと全然違うじゃねぇか……」
「ユーリだったっけ? アンタねぇ、不老不死基準で考えすぎ。成長期の子ども舐めんじゃないわよ。『三日会わざれば刮目して見よ』って言うでしょ」
「……桜、それは男子についての慣用句では……」
 理仁の疑問は桜には黙殺され、東洋の慣用句を知らなかったユーリにはスルーされた。
 ユーリは「フン」と鼻を鳴らす。
「なるほど、箱舟で魔王とともに魔獣を名乗る小娘はテメェか。なかなかいい番犬を飼ってるじゃねぇか、ヒロミツ? 無欲そうなツラしてそういう趣味(シュミ)があったとは知らなかったぜ?」
「貴様――!」
「勘違いしないで、アタシが勝手につるんでるだけよ」
 理仁の頭が一瞬沸騰しかけたのを、突き放したような桜の声が鎮めた。
「そんなことより」桜は話を変える。「なんでこんなところに碧の瞳がいるのよ? ビッグ4が関わっているの?」
「あー……」
 ユーリは妙に間延びした声で呟いた。
「そうそう、仕事があったんだ。クソ面倒くさくてつまらねぇ仕事。それ片付けようと思ったらヒロミツいるじゃねぇか。途端に殺したくなってよォ」
「で、仕事ほったらかして喧嘩してた、ってこと? ネコとネズミの方がよっぽど賢いわよ……」桜は盛大にため息をついた。
「五月蝿(うるせ)ぇ。今回はオレの勝ちだな、番犬に救われたヒロミツさんよ? オレはもう行くぜ」
「……さっさと失せろ、目障りだ」理仁は吐き捨てるように答えた。
 桜の得物がユーリの首から離される。
 ユーリはパッと退いて距離をとる。その碧い目が輝いた瞬間、ユーリの姿は掻き消えた。
「……本当、アンタたちってバカよね。他にやるべきことがあるでしょ?」
「すまない、桜……」
「謝るならアンジュちゃんとミーナに謝るの。アタシに謝ってどうするのよ」
 スタスタと階段を下りていく桜に、理仁はそっと声をかける。
「それと…… ユーリの言ったことは、気にしなくていいからな……?」
「は? どれのこと? なんにしてもあのバカのことなんて気にしないけど」
「いや…… 気にしてないなら、構わない……」
 桜が訝しげに理仁を見上げるが、理仁は妙に気まずそうな表情を背けただけで、それ以上はなにも言わなかった。桜は首をかしげたが、追及している場合ではない。
 階段を下りた先で、十兵衛の羽に包まれたアンジュと、しゃがみ込んだまま顔を俯かせるミーナと、理仁たちを見て微笑む十兵衛が出迎えた。

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 さて、と十兵衛は両掌を合わせる。
「どうにかこうにか用心棒のタウフィックさんとハサンさんには退場してもらえましたし、ミーナさんとアンジュさんにも会えたし、オレたちも合流できたわけですね。アネキ、囮役と喧嘩の仲裁、お疲れさま」
「今回一番働いてるのは十兵衛でしょ。アタシは玄関で大暴れしただけだし、どっかのバカに至っては喧嘩始めただけだし」
「……すまなかった。アンジュ、ミーナ、十兵衛……」
 理仁が頭を下げるのを、十兵衛は苦笑して見ていた。
「まあ、お怪我がなくてよかったです。それと、働いてる人といえば聖さんを忘れちゃダメだよ、アネキ。聖さんに連絡しなきゃ」
「あー、テンパりバカ聖もいたわね…… 『ディルを止める』とか言ってたけど……」
 『DIL(ディル)』と聞いて、ミーナの顔がこわばったことに、桜が気づく。
「ミーナ、『ディル』ってなにか知ってるんでしょ? うちの自称天才ハッカーが、『作成者であるミーナの協力が不可欠だ』って言ってたの。なんか『インターナショナルにヤバい』んだって」
「……あたしは協力しないし、止めないわよ。アニルには出し抜かれたけど、あたしはこの国が大嫌いなんだから。いい機会だわ、こんな国、『DIL』で転覆しちゃえばいいのよ」
 吐き捨てるミーナを、桜は戸惑ったように見つめた。ミーナとアニルのステージでのやり取りを見ていた理仁と十兵衛も、なにも言えない。
 そんな中、機械仕掛けの少女が口を開いた。
『ミーナのことだもん、なにか止める手段は作ってるんだよね?』
「え……?」
 ミーナがアンジュを見る。
 桜と十兵衛はアンジュの言葉がわからず顔を見合わせるが、理仁は理解していた。じっとアンジュの言葉の続きを待つ。
『わたし、知ってるよ。「DIL」っていうのは、要するにわたしの上位互換なんでしょ? 思い出したんだ、ミーナが一年前から「DIL」を作ってたこと』
『……そうよ、あたしの作ったウィルスよ』
『ミーナは、本当にこの国が大嫌いだって、わたしも知ってる。けど、ミーナはどんなに嫌いな人に対しても、そこまで悪いことはできないことも知ってるよ。ミーナは根っこが優しいんだもん。だから、きっと「DIL」を止める手段も用意してるはずだよ』
『……当然でしょ、技術者として、ストップをかける手段(コード)は用意しているわ』
『じゃあ、それ(コード)を見つけることができたら、魔王さまたちの勝ちだね』
 そう言うと、アンジュは理仁に視線を向ける。
 理仁は深く頷いた。
「わかった。コードを探すよう、聖に連絡する。いいな、ミーナ?」
「勝手にしなさいよ。見つかるはずないけどね」
 理仁はコートから端末を取り出すと、聖に連絡を取ろうとした。
 その時、耳を劈くような警報音と、赤いランプの点滅が、場を支配した。
「えっ、なに? 火事とか?」十兵衛が桜を見る。
 桜は首を振った。
「……害悪は感じられない。けど、このタイミングは不自然よね」
 理仁の持っていた端末から、聖の声が響いた。
『お前ら、無事か?』
「ああ、無事だ。なにが起こっているかわかるか?」
『火災ではないが、誰かが非常ボタンを押したらしい。そのせいで地下と研究棟をつなぐルートが封鎖されてる。桜にはこっちに来いと伝えていたが、どうやら難しそうだ』
「力づくで突破することは?」
『お前もかなり脳筋ぽいこと言い出すよな…… お前たちならできるかもしれないが、それよりも地下の端末室から通信した方が手っ取り早い。回線を遮断されないよう確保しておくから、お前らはB102号室に向かってくれ』
「了解した」
 通信を切ると、理仁は桜と十兵衛に視線を向ける。
 二人は揃って頷いた。
「よくわかんないですけど、とにかくその部屋を目指せばいいんですね?」
「ただ、その非常ボタンを押した奴が気になるわよね。まるでアタシたちをここに閉じ込めようとしているみたい」
「……桜の言うことももっともだ。慎重に進もう」
 理仁がコートを翻して歩き出す。十兵衛もアンジュを抱えたままそれに続く。
 桜は、しゃがみ込んだままのミーナに手を差し伸べた。
「行くわよ、ミーナ」
「なんであたしまで……」
「あなたには見届ける義務がある。それに、こんなところに女の子一人置いていくわけにもいかないでしょ」
 ミーナは顔をそらして、自力で立ち上がった。
「……手は借りないわ。自分で歩ける」
「あ、そう」桜は手を引っ込めた。
 ミーナは先を行く理仁たちに続く。
 桜は辺りを見渡してから、警戒して後駆(しんがり)を務めた。

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