第19話 モンスター

 

 目の前の女の子は、今にも泣き出しそうなのに、どうしても我慢して泣けないという顔をしている。

 彼女には、女の子に言いたいことがあった。
 けれど、彼女にその言葉はプログラムされていなかったから、言えなかった。

 女の子はぽつりと呟いた。
「絶対に、復讐するの。だから、あなたも協力してちょうだい、ANJU」

 彼女には女の子を救えなかった。
 彼女は己の非力さに絶望した。

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 アニルは逃げ出そうとする所員の集団にある指示を加えたあと、適当な一人を連れ立って、普段は所長(自分)以外の立ち入りを禁止している「アルシャド研究室」へと向かった。
 ミーナとアンジュが接触するのを防ぐためにルートを遮断したが、時間が経ち過ぎた。すでに出会っている可能性も否定できない。時間を無駄にするわけにはいかないと焦る思考に、閃いたものがあった。それが、アルシャドの遺したこれであった。
 室内で、自身は深い椅子に腰掛けて、所員に指示をしながら、いくつもの電極を身体の各所に配置していく。
 アンジュを監禁していた部屋が内側から蹴り破られたと、通信が入っていた。
 あの機械仕掛けの人形が目指すとすれば、それはミーナだ。
 他方、そのミーナは魔王陛下らとともに動いている。
 魔王陛下が現れた理由は定かではないが、№1の話を信じるならば、あくまで「自分たちのために」戦う彼らが、第三者の仇討ち合戦などというつまらない厄介事に積極的に首をつっこむとは考えにくい。加えて、犯罪者集団がアニルによるサイバーテロを止める理由も見当たらない。
 そうであるとすると、魔王陛下が現れたのは、『誰かに請われたから』、と考えるのが妥当であろう。ミーナか。ステージでの様子を見た限り、彼らのことは知らなかったと思われる。それでは、他の所員か。彼らにアニルとミーナが敵対関係にあるという事情は漏らしていない。それはミーナも同様のはずである。そうすると、残るは。

「アンジュさん、ですかねぇ……」

 一年前のことを思い出す。アンジュは研究室にいたミーナに襲いかかり、デスクトップ一台と周辺機器を破壊した。アンジュがミーナを止めようとしていたことは明らかだった。
 アンジュなら、魔王陛下になにを請うか。なにをもってしても『ミーナを止めて欲しい』と請うのだろう。たとえ自分が捨て駒にされたことを知ったとしても。
 DILがアニルの手に渡り、アニルの手でばら撒かれた今、ミーナ自身が手を下す必要はなくなった。それでも、ミーナが作ったDILによって混乱が起こることを、アンジュは許しはしないだろう。それも含めての『ミーナを止めて欲しい』だ。
 魔王陛下はDILを止めに来る。それを阻止するために、これを使う時が来た。
「アルシャド。貴方の遺作、利用させていただきますよ……」
 始めなさい、と所員に命ずると、彼はためらいなくボタンを押下した。
 頭の中がじんと熱くなり、ふわりとした浮遊感を覚えたのを最後に、アニルの意識はどこかへと消えた。

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(あー、ヒロミツのせいで時間無駄にした……)
 自分勝手極まりない言いがかりを頭の中でぼやく。戦闘という名の喧嘩の始まりが、彼を見つけた瞬間切りかかっていた自分であったことはまったく意に介さない、それどころか、廣光(ひろみつ)の方があっさり斬り殺されていれば時間をもっと有効的に使えたのだと本気で思っているのがこのユーリ・クズネツォフという男である。
 適当な端末のある部屋に潜り込み、電源をつけると、ユーリはビッグ4から手渡されていたUSBメモリをソケットに差し込む。どのような理屈かユーリは知らないが、ビッグ4に関連するデータを他の組織のものに置換するプログラムだということは聞いている。戦中派のユーリは『面倒な時代になったものだ』と常々思う。
 しばらく待って、画面に現れた進行度が「完了」になったのを確認して、そっと部屋を出る。これでデータの上ではビッグ4の名前は消えたが、それだけでは足りない。メモ一つ残してはならないと、彼の現在の首領から指示されている。
 手元のそれに指をかけた時、頭上のスピーカーから警報音が鳴り響いた。
「……火事か?」
 自分が手を下すまでもないかと期待して近辺に『眼』を向けるが、火の気は見当たらず少しばかりがっかりする。
「まあ、どっちにしろ火事にはなるんだから構わねぇか」
 火炎手榴弾のピンを引き抜いて、無造作に投げる。ユーリが部屋から出て行くのとほぼ同時に爆発し、熱風が部屋の外にまで流れてくる。
 ここだけでは足りない、地上の研究棟にも火を放たなければならない。
「やっぱり、戦争ってのはこうでなくちゃあなぁ……」
 懐かしい、硫黄の混合液の燃える匂いに口角を上げて、白皙の死神は駆け出した。

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 B102号室は、入り口左手に一台の端末と、右手に資料を詰め込んだラックが数列に渡って配置されている、シンプルな内装だった。
 ミーナはラックにもたれかかりながら、理仁たちが端末の前で苦戦しているのをぼうっと眺めていた。
「電源ってどれ……?」
「あの温泉マークみたいな、湯気が一本しか立ってないやつだよね……?」
「……やはり、多少手荒でも聖のもとに合流すべきだったのでは……」
 聖が想定していた以上に、この三名は機械の操作に絶望的に疎かった。
「ミーナぁ…… 電源がどれかくらい教えてよぉ……」
「アンタたち、あたしの心境わかってる?」
 桜の泣き言にミーナが冷たく答える。
 そこで、十兵衛の羽に包まれていたアンジュが、もぞもぞと動く。
「……アンジュさん、わかるんですか?」
『電源ボタン! サクラちゃんの手元! あ、今通り過ぎちゃった、もっとバックバック! ああ、行き過ぎ行き過ぎ! もう! じれったいなぁ!』
「……十兵衛、放してやってくれ。もう暴れることもないだろう」
 理仁に指示されて十兵衛は拘束を解く。
 アンジュはヨタヨタと危なげな足取りで桜の隣に向かうと、迷うことなく電源ボタンを押した。
 画面がぼうっと光を放つのを見て、三名が「おお……」と感嘆のため息を漏らす。
 ミーナが呟く。「いや、なにに感動してんのアンタたち……?」
 起動するまで、しばしの静寂。
 すると、桜がポツリと呟く。「あ、みんな、耳塞いだほうがいいかも」
「は?」ミーナが桜に訝しげな視線を向ける。そしてその直後。

『お前らなにやってんじゃアホォォォォォォッ!』

 画面が切り替わると同時に、聖の絶叫が部屋に響いた。
 桜の忠告通り耳を塞いでいた十兵衛と理仁も、声量とはまた違った聖の迫力にビクリと一歩、後退る。一人、耳を塞がなかったミーナは「キーン……」と痛む耳を押さえ込んだ。
 画面には聖の少し苛立った横顔が映っている。
『時間かかりすぎだろ、なに電源入れるだけで手間取ってんだ! アホか! お前ら揃ってアホなのか!』
 桜が負けじと大声で言い返す。
「だから言ったでしょ! アタシたちがそっち行こうかって! 天才ならこうなることくらい予想しときなさいよバカ聖!」
「あ、聖さんにはこっちのこと見えるんですね?」
 あまりに不毛な口喧嘩が始まりそうだったので、十兵衛が無理やり話題を変える。聖は『ああ』と肯定した。
『その部屋の監視カメラからお前らの醜態はライブで見てた。本当お前らは、どうして電源入れるだけで……』
「それはもうゴメンってば。えっと、ディルだっけ? そっちはどうなの?」
『「ゴメン」って軽いな、お前…… まあいい。DILは俺が抑えてる。今のところのインド政府の安定は、俺の両手によって支えられていると言っても過言ではない』
 なにが過言ではないのかよくわからなかった理仁・桜・十兵衛の後ろで、ミーナが「はぁ?」と呆れたような声を漏らす。
「アンタ、誰か知らないけど、DILを抑えてるってどういうことよ?」
『おお、初めましてだな、ミーナ。俺はノアの箱舟の「蛇」、松原聖。まあ、言っちまえば万能の天才だ』
 聖は「天才」の部分を妙に強調して自己紹介した。
 ミーナが呆れたとばかりに鼻先で笑った。
「天才って、アンタ自分で自分のことよくもまあ……」
「いや、驕りでも何でもない」
 理仁が口を挟む。「蛇は知識の象徴。彼の脳はあらゆる知識を吸収・消化する」
 ミーナが「それも異能?」と尋ねると、理仁は「ああ」と首肯した。
『それで、「DILを抑えてる」の意味だがな。DILは現在、インド行政諸機関に一斉攻撃を仕掛けようとしているところ、俺が行政側のシステムをハックしてあれこれ対抗している状況だ。言いたかねぇがコイツ(DIL)すげぇな、どのウィルス対策ソフトの構成も役に立ちやしねぇ』
「……待ちなさい、行政機関のシステムをハック……するところまではまあいいわ。DILの攻撃に耐えてるって…… どうやって?」
『さっき言った通り、DILについては有効な対策プログラムがねぇから、力業だな。……やべぇ、そろそろ腕が痛くなってきた』
 ミーナが「ブレイン・モンスター……」と力なく呟く隣で、理仁が聖に訊ねる。
「その、対抗するというのは、DILを止めるのとはまた違うのか?」
『これは対症療法に過ぎねぇ。あと、俺の腕が攣ったら御仕舞い(ジ・エンド)だ。……そこでだ、ミーナ。DILを無効化するコード、教えてくれないか?』
 三人と一体の視線がミーナに集中する。ミーナは一瞬たじろいだあと、「嫌」と首を振った。
「何度も言わせないで。あたしはこんな国滅びろって本気で思ってるんだから」
「……前にも言ったけどさ、ミーナ。あんまり思い詰めると、あんたが苦しくなるだけよ?」
 桜がそっと手を伸ばそうとするのを、ミーナは思いっきり振り払った。
 ミーナの視線が桜を射抜くように突き刺さる。
「アンタが一番気に入らないのよ、サクラ。へらへら笑って、なにも恨んだことありませんみたいな顔しちゃって! みんながみんなそうやって幸せに生きてきたわけないでしょ! アンタみたいな奴に知った顔されるのが一番腹立つのよ!」
「おい、ミーナ……!」
『理仁、落ち着け』
 理仁が声を荒げるのを、聖が制する。
 理仁はなにか言いたげだったが、そっとミーナから目を逸らした。
 聖が言葉を続ける。
『そうは言うがなぁ、アニルに出し抜かれた今、そんなことしてても意味ねぇだろ……ってなんだこれ――』
 聖の声の調子が急に変わる。理仁が「どうした?」と訊ねると同時に、またもや画面が切り替わる。
 画面が真っ黒になり、スピーカーから『フフフ……』と、ミーナが一番聞きたくなかった声が響いた。
「アニル……!」
『先ほどはどうも。ミーナさん、そしてノアの箱舟の皆さん』
 画面上に白い陰が浮かび上がる。白衣を纏ったアニルその人だった。
 画面の中のアニルは白い歯を見せて嗤う。
『なるほど、これほどのハッカーが控えていたとは。ノアの箱舟も多芸多才だ――』
『あー! クッソ! なんだコイツびくともしねぇ!』
 聖の悔しそうな声が響く。音声だけは繋がっているらしいと気づいた理仁が、聖に問う。
「どうした、聖?」
『ハックされた! クソ、なんだよコイツ、いや待て、オレが負けるわけがねぇ落ち着け……!』
『そうですね、多少梃子摺りましたよ、蛇・松原聖さん? しかしDILの働きを阻害する貴方を、私が見逃すわけにはいきません』
 ミーナが「待って」と口を挟む。
「アニル側(研究所)にあたしを凌ぐ技術者はいないわ。行政機関にハックかました上に、DILに対抗できるマツバラがやすやすと負けるわけがない。アニル、なにを使ったの?」
 ミーナがその「なにか」に気づいていることに、アニルはもちろん理仁も気づいた。
『さすが。良い勘を持っていらっしゃる、ミーナさん。貴女の考えている通りの物ですよ。貴女のお父様の遺作、〈Consciousness Converter〉』
「やっぱり……!」
『お前らだけで話進めんな! 説明しろ! なにが〈意識交換機(Consciousness Converter)〉だ!?」
『良いでしょう、蛇。貴方なら理解できるはずです。C.C.は意識をデータにコンバートする。脳による記憶や感情、性格の保存、さらには予測、意識は、神経細胞を走る電気信号によるもの。すなわち、人間の脳はコンピュータ上の回路基盤と同じ仕組みではたらくというところまでは、良いですね? ならば、脳の内部活動を評価してそれをコード化することによって、人間の脳はデータ上に再現することができるはず。これを考えたのは私ですが、それをもとに実現までこぎつけたのはミーナさんのお父様、我が朋友、アルシャドです』
『……つまり、お前は紛うことなきアニル本人ってわけか?』
 疑いを捨てきれない聖を、アニルは嗤った。
『左様。そして、人間の脳のスペックはコンピュータよりもよほど高い。確かにこのようにコンピュータの中に潜り込んでしまうと上限はコンピュータのそれにともなって頭打ちされてしまいますがね。マツバラ、知識の権化である貴方に太刀打ちできたのも、すべてはC.C.のおかげです」
 そこまで言って、アニルは白衣を翻した。
 ミーナが叫ぶ。「アニル、どこへ行くの!」
『私の愛すべきDILたちが困っているようですので、その手助けに。貴女は止めませんよねぇ、ミーナさん? 貴女はこの国が大嫌いなんですものねぇ? 良いのですよ、それで。まあ、せいぜい身辺にお気をつけて?』
 ミーナがぎりぎりと歯噛みする。アニルの姿はパッと消えて、代わりに聖の映像が飛び込んできた。
 理仁が叫ぶ。
「聖、彼奴がなにを言っているのかわからなかったが、どうなっているんだ?」
『まあ要するに、人間をデータ化してしまうという倫理観ガン無視で馬鹿げた変換器作った奴がいたってことだな! アニルの相手は手強そうだ、DILの方も手がつけられねぇ!』
 そこまで言って、聖が息を呑むのがスピーカー越しにもはっきりと聞こえた。
『お前ら、入り口から離れろ!』
 その瞬間。
 「パンッ」という軽い音と、
 ミーナの悲鳴が、部屋に響いた。

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 常であれば、理仁、桜に十兵衛、画面越しに部屋の様子を見守ることのできた聖も気づいただろう。全員の意識がアニルにばかり向いていた点は、完全に箱舟の戦士たちの落ち度だった。
 六人が言い合っている中、部屋の入り口から室内を覗き込んでいる人影に気づいたのは、アンジュだけだった。そして彼らが手にしている銃がミーナに向けられたとき、アンジュの機体(からだ)は動いていた。
『ミーナ! 伏せて!』
 ミーナを抱えて資料を詰め込んだラックの陰に倒れ込んだ。これを好機とばかりに暴徒が蹴り倒した鉄製のラックと、そこから雪崩のように降り注ぐ資料から、アンジュは小さな機体でミーナを守ろうとする。
「アンジュ、あんた……!」
『ミーナ、無事?』
 〇と一だけの言語でアンジュは訊ねる。
 理仁と十兵衛が奇襲を仕掛けてきた所員たちを切り伏せる音、所員たちの悲鳴、桜がアンジュとミーナの名前を叫ぶ声、そのどれもがとても遠くに聞こえる。
『ミーナ、大丈夫?』
『大丈夫、大丈夫よ、アンジュ、でもどうして……?』
 本当に、わけがわからなかった。ミーナはアンジュを捨てたのに。それも五回も、顧みることもなく。どうしてこの子はこんなに他人に甘いのか、わからなかった。
 アンジュはへにゃりと笑った。ミーナの大好きな、アンジュの子供っぽい笑顔。
『ミーナ。わたし、ずっと言いたかったことがあったの』
『そんなことより、早くこの本棚どけないと、あんた潰れちゃう……!』
 泣き出しそうになりながら、本棚を持ち上げようとするミーナに、アンジュは『いいの、聞いて?』と優しく語りかけるものだから、ミーナは思わずアンジュの目を見た。
 アンジュはやはり笑っていた。
『ミーナ。わたし、泣かないでって、何度も言ったね。ミーナが泣くとわたしも悲しい。ミーナには笑っていてほしい。ミーナには、控えめだけど優しい、あの笑顔が似合うよ。
 ……でもね、本当の本当に言いたかったことがあるの。本当の本当はね、いつだって、泣きたい時に、好きなだけ泣いていいんだよ。わたしがいるから。友達の前では、いつだって泣いていいんだよ。
 ミーナ、本当は泣きたかったんだよね。お父さまが死んじゃって、悲しくて辛くて寂しくて、でも、ミーナは強いから絶対に泣かなくて。
 あの頃のわたしは、まだ決まりきった挨拶しかできない小さな存在で、小さかったミーナに、「泣いてもいいんだよ」って、簡単な言葉すらかけられなくて。……思い出すのが遅すぎたね。ごめんね。でも、今さらだけど、今度こそちゃんと言うよ』

 
 泣いてもいいんだよ。わたしがいるから。

 

 ――それっきり、人形は動かなくなった。
 ミーナは状況も忘れて、呆然とアンジュの顔を見つめていた。
 桜がラックを持ち上げて、「アンジュ、ミーナ!」と呼びかけるまで、ミーナはピクリとも動けずにいた。

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