第27話 ブラックアウト

 アニルが理仁に斬りかかろうとした瞬間、映像が乱れた。
「領域を乗っ取られた!」聖が叫び、ミーナは友人が採った恐ろしい行動に気づいて青ざめた。
「アンジュよ! あの子、避難先からあんたの支配権を奪ったのよ!」
 ミーナの言った通り、別の領域に避難していたはずのアンジュが、画面に映っている。
 理仁を庇うようにアニルの前に飛び込んだ少女が、固く目を瞑った。
 アンジュが斬りつけられた、その映像を最後に、画面はブラックアウトした。呆然とするミーナの隣で、聖が必死にキーボードを叩いている。
 状況を把握できず、しかし誰かに説明を求められるような雰囲気でもない張り詰めた空気の中、十兵衛は聖とミーナを交互に見つめていた。
 ふと、聖の通信機に着信が入ったことに気づいて、十兵衛は聖の代わりにそれを手に取る。発信者は桜だった。心臓が一際大きな音を立てた。受信ボタンを押して噛みつくように応答する。
「アネキ! 今どこ、無事なの!?」
『十兵衛? 心配かけてごめん。今はアニルの部屋にいるんだけど、アニルのやつ、突いても揺すっても目を覚まさないの。……聖は?』
「ちょっと待って」
 十兵衛は恐る恐る聖に声をかける。「聖さん、アネキから着信です。アニルの部屋にいるって」
「……おう、貸せ」画面に視線を向けたまま、聖は左手だけ十兵衛に伸ばした。
 十兵衛は聖の手に通信機を渡す。聖は肩と頭で通信機を挟んで、自由になった左手をキーボードの上に戻した。
「桜か」
『うん。アニルが目を覚まさないの。……なんかあったの?』
 聖の硬質な声音と、いつもの軽口を挟まない端的な応答から、状況は好ましくないのだと桜も察した。聖は事務的に答える。
「ああ。あとで説明する。と言っても、そいつが助かるかどうかだけ答えるなら望み薄なんだが」
 桜は一瞬黙り込んだ。納得はできなかったはずだが、
『……わかった、詳しくはあとで聞く。でも、とにかくこいつは連れて逃げるね』
 しかし、今はその時ではないと、聖が答えた以上のことは追及しなかった。
「さっき火で通れなくなった通路の突き当たり、アニルの部屋の反対側の通路、あー、要するにその部屋から出て左側だ。その通路の四番目の角を右に進んだ先の階段が作業員用の裏口に通じてる。さっきの火が突き当たりまで到達しそうだから急げ、あと煙に気をつけろよ。ドアにはロックがかかってるが構わねぇぶっ飛ばせ。俺たちも一段落ついたらすぐ出る。外で落ち合うぞ」
『わかった』
 聖は、桜がルートを理解して、彼女の方から通話を切ったことを確認してから通信機を傍に放った。早口で一方的な説明だったが、軽口など挟んでいられない案件が目の前にあったために常ならば心がけているような余裕を見せることができなかっただけで、桜が脱出できるかどうかも目の前の案件と同じレベルの重要事項だった。
 しばらくアンジュと理仁の行方を捜索して、しかし成果は上がらず、聖はやがて手を止めた。聖はミーナに向き直って頭を下げる。
「すまん。アンジュが動くと想定していなかった、俺の不手際だ。……アンジュの安否は不明だが、ここに残ってのこれ以上の捜索は危険だ。火が回ってきていることもあるし、人も集まってきてる頃だろう。あんたを連れて一旦脱出する。俺のことはあとで殴るなり蹴るなり好きにしてくれていい、ただ今は、おとなしく一緒に来てくれ」
 ミーナはぼうっとしたまま、聖の声が届いているのかどうかも怪しかった。
 聖はそっと肩に手を伸ばすと、糸が切れた人形のように、がくりと崩れ落ちた。慌てて彼女を支えて、顔を覗き込む。血色は良くないが呼吸も脈も正常だと確認して、「十兵衛」と、震えながらミーナを見つめている少年に声をかけた。

 聖の指示で十兵衛が彼女を抱き上げても、身じろぎひとつしなかった。十兵衛は、ミーナの身体が思っていたより軽くて、彼女の心も身体から離れてどこかへ消えてしまったのではないかとありえないことを考えた。
「聖さん、ミーナさんは……」
「精神的なショックだ。親友が目の前で斬られた上に安否が不明なんだ、無理もねぇだろ。おまけにこの数日はろくに寝てなかったらしいしな。治療はする、だがまずは脱出だ」
 自分の得物(端末)の扱いに関しては几帳面な聖が、持ち込んだ機材をバッグに乱暴に放り込みながら答えた。十兵衛は、聖が最後の最後でなにもできなかったと自責の念に駆られていることに沈痛な思いだったが、なんと声をかければよいのか、声をかけるべきなのかどうかすらわからなかった。
 この場で一番無力だったのは、聖ではなく十兵衛だった。理仁のことも、アンジュのことも、加えて桜のことまで、聖に背負わせてしまった。なにもできなかったくせに、ひとり安全な場所で見ていただけのくせに、魔王の騎士だなんて名乗ったくせに、責任だけは全部聖に押し付けてしまった。ミーナが目を覚まして、もし誰かを殴るなり蹴るなりして少しでも気が晴れるというのであれば、せめてその役目は聖ではなく自分に負わせて欲しいと思う。
「……そんな顔すんなって、お前はちゃんとお前の仕事をやったよ」
 黙り込んだ十兵衛に気づいた聖は、いつものような軽やかさはなかったが、それでも明るい調子で言って、十兵衛の髪をクシャクシャと撫でた。聖に気を遣わせてしまったことにますます十兵衛の心が沈む。これ以上気を遣わせてはいけないとわかっているのに、胸から溢れて紡がれる言葉は、頼りがいのない子どもじみた思いばかり。
「だって、オレ、なにもできなかった……」
「……頭を使う知的な戦いは俺の分野で、特殊な条件でのイレギュラーな戦いは理仁の分野で、頭を使わない派手な戦いは桜の分野。お前の分野はなんだ? ハプニングに弱い俺らの中で、徒らに騒がず状況把握に務めて、精神的サポート…… と言うとカッコつけすぎか、要するに鋭いツッコミ役に回ってくれることだろ」
 十兵衛は俯いたまま、それを聞いていた。聖は膝をついて、そんな十兵衛と視線を合わせようとする。
「いざとなったら桜を助けに行くって、言ってくれただろ。俺はその言葉に救われたよ。俺も桜を誘導できるか不安だったし、口でならなんとでも言えるが、実際に桜を助けに行けるかと言われれば俺には無理だった。目立つ出番が少なかっただけで、お前はちゃんとお前の仕事をしてくれたんだ」
「……こうして聖さんを困らせてるのに?」
「今は場面転換の休憩時間だからいいんだよ。これでも一回り年上なんだぜ? 少しくらい兄貴面させてくれ」
 聖は力なく笑う。休憩時間だなんて屁理屈を持ち出されて、やはりまだまだ自分は子どもなのだと思ったが、つかえていた不安を聖が吐き出させてくれたおかげで、少しだけ心を換気できたような気がした。
 聖の綺麗なコバルトブルーの瞳を見つめ返す。
「……やっぱりまだ情けないですけど、休憩時間は終わりにします。全部終わるまで、もう泣き言は言いません」
「よく言った。それでこそ俺たちの十兵衛だ」
 聖は微笑んで十兵衛の肩を叩いた。
 今はまだ、いつものように馬鹿みたいに笑い合うことはできない。事件はまだ終わっていないのだから。
「じゃ、ここからはお前の出番な。外に出て桜と落ち合うが、理仁とミーナのこと、頼むぜ」
「はい」
 十兵衛が頷くのを見て、聖は荷物を抱え直すと小走りに部屋を出て行く。十兵衛は理仁とミーナを揺らさないように注意を払いながら、彼の背中を追いかけた。

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 聖と十兵衛が出て来れそうで、かつ、人目につかない物陰に車を止め、桜は運転席で四人を待っていた。
 焦っていたらしい聖に早口でまくしたてられて、ちゃんと理解しているか自分でも心配していたが、非常口は意外にちゃんと見つかった。……実のところ気が急いて通り過ぎそうになったのだが、足元でなにかが光った気がして立ち止まったところで、視界の端に非常灯が見えて助かったのだ。
 落ちていたのは、女物のイヤリングだった。フロントウィンドウの前に持ち上げてそれを眺める。琥珀色の石は光を受けるときらきらと輝いた。
(高価そう……)
 こんな物を落とすなんて、持ち主は熊に追われるレベルで急いでいたお嬢さんか、普段から物の管理に気を払わないよっぽど高貴なお姫さまのどちらかだろう。友恵から毎月イラストつきのクラフト封筒に入れて手渡される自分の給料の何倍くらいだろうかとぼんやり考えた。危険を脱した安心感で、気が緩んでいる自覚はあった。
 窓をコンコンと叩く音に飛び起きる。駐禁の取り締まりかと焦ったが、驚かせた犯人は見知った銀髪だった。
「聖、無事? 十兵衛たちは?」
「そこに隠れてる。それ(車)どうした?」
「ちょっと無断拝借し(借り)た」
「最高かよお前」
「それほどでも」
 聖が合図すると、十兵衛がひょっこり顔を出す。どうして隠れているのかと訝しんだが、すぐにわかった。理仁とミーナ、大の大人二人を抱えているのだ。そして不安が生まれる。
「ちょっと、二人ともなんで運ばれてるのよ」
「説明するから車出せ、表に警察来てんだよ」
 助手席に乗り込みながら聖が指示する。十兵衛は理仁とミーナに挟まれて、バンの後部に落ち着いた。桜は玩んでいたイヤリングを胸ポケットに突っ込み、手早くエンジンキーを回す。
 発車した後で、聖が思い出したように訊ねた。
「そういやアニルは?」
「公園のベンチに捨てた。ちょっと焦げたかもしんないけど身体は無事」
「そうか」
 アニルの件はそれで自然終了して、今度は桜が質問する。
「どこ行けばいいの?」
「ガソリン空になるまでとにかく遠く、ミーナを寝かせられるモーテルとかあったらそこに停めろ」
「なんで理仁とミーナ動いてないの?」
「雑に説明するとかえって混乱すると思うが」
「もう十分混乱してるわよ」
「……理仁の意識は行方不明。『ネット人格』なら領域の消滅には巻き込まれないはずだが、なぜか帰ってこない。アンジュを探しに行ったんじゃないかと思うんだが」
「そうよ、アンジュちゃんはどうなったの?」
「消えた。ミーナが動けなくなったのはそれを目の当たりにしたショック。精神的なものだ」
 桜は眉根を寄せた。「消えたってどういうこと? 無事なの?」
 聖は深いため息をついた。「……しばらく探したが、俺には見つけられなかった。環境が整ったらまた捜索するつもりだが、今は理仁頼みだ」
 桜は質問を切り上げた。聞きたかったことは聞けたし、聖がとても疲れていることに気づいたからだ。
「寝てなさいよ、あんた今回一番働いたでしょ」
「まったくだぜ、お前も理仁も好き勝手動きやがって。少しは十兵衛を見習えよ、今もおとなしく……」聖が突然、なにかに思い至ったかのように黙り込む。
 桜も、穏やかな呼吸音に気づいた。
「……すぅ……」
 助手席の聖がそっと覗き見る。
 少年は理仁とミーナを羽でかっちりと保護したまま、真ん中でうつらうつらと船を漕いでいた。
「……どう?」桜が声を潜めて訊ねると、聖も同じように答えた。
「寝てる。やっぱお前すげーわ。本当はさっき少し不安定になりかけたんだよ。それがお前と合流した途端気を緩めた。どんだけ信頼されてんだよ」
「単純に疲れてたのよ。あんたも寝てなさいって。モーテル着いたらミーナを診て、またアンジュちゃん探すんでしょ」
「……だな」
 聖は腰をずるずると身体の重心をずらして、背もたれに頭を預ける。
「あと、頼んだ……」目を伏せて掠れた声でそう言い残し、次に聞こえてきたのは静かな寝息。

 まだ理仁もアンジュも行方不明のまま。
 ミーナについてはむしろ目が覚めたあとのケアの方が重要だ。
 だからこそ、残った十兵衛と聖は休むべきだと、桜は思った。疲れたときは休む、そうすれば力が戻ってきて、また頑張れるから。友恵が教えてくれた、単純だが間違いない定式だと思う。まだ幼いというのにしっかりしすぎな十兵衛も、年長だからと気を張り詰めてばかりの聖も、桜の目から見れば今回は働きすぎだった。……火の中に飛び込んで行って、気苦労をかけさせた本人が偉そうに言えたことではないのだが。
 まだ気は抜けない、だから少し緩めるだけ。
 もう少しだけ頑張るために、二人には休んでもらおう、と。
 いつものやかましいほどの賑やかさが懐かしかった。やっぱり自分たちは馬鹿騒ぎして友恵に怒られているくらいの方がちょうどいいのだと思う。柔らかいけれど芯のある声を思い出して、急に友恵に会いたくなった。自分たちが日常に戻るのは、ミーナを無事に日常に返したあとだ。
 五人を乗せたバンは、騒ぎで野次馬が集まりつつある研究所からどんどん遠ざかっていった。

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