第1話 牛丼

 午前二時前。歩行者はおらず、車道を制限速度をオーバーした自動車がたまに流れて行く以外は、静かな深夜のオフィス街。

 SLW第一捜査隊恩田班は、市民が寝静まっているそんな時刻であっても、特殊警察組織として果敢に活動していた。

 路地に逃げ込んだ窃盗犯を赤黒い螺子と飛針が追う。

『ハヤト、表に回って。狭い場所では役立たずだわ。私と小野準二等で叩き出す』

「役立たずってミユキおま…… 了解です、班長」

 路地の入り口で足を止めた森隼人準一等捜査隊員は、インカムから冷たい指示が飛ぶのに苦笑して答える。佐倉亨三等捜査隊員は先輩である隼人の隣で、そわそわしながらそれを聞いていた。

 亨の見立てによれば犯人は『身体を自由に液状化できる』珍しいタイプの異能者で、通気口などから深夜の質屋などに侵入し、貴金属の窃取を繰り返してきたと考えられている。銃弾を撃ち込んでも暖簾に腕押し、石に灸、糠に釘……とにかく弾が身体をすり抜けてしまいかえって周囲に被害が及ぶ。そんな、固形の武器など恐るるに足らずのはずの犯人の捕獲は、困難を極めるものになると予想されていた。

 はずだったのだが。

「御容赦ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ‼」

 鬼気迫る空気を纏って螺子を操りどこまでも追い続ける恩田美雪準一等捜査隊員と、無表情で美雪をサポートし飛針を繰り出す小野ほたる準二等捜査隊員から小一時間逃げ惑い続け、なんだか亨も可哀想に思うくらいには、犯人も追い詰められていた。主に、精神的に。

(だって怖いもん、ミユキ先輩も小野さんも)

『あれやられたらボクでも泣くよ……』

 頭の中の相棒と頷き合う。

 隼人と亨は班長である美雪の指示に従い、犯人と美雪たちが出てくるであろう路地の出口へ向かう。その出口を探すのは、亨の役目。

「じゃ、トオル。今回もいっちょ頼む!」

 白い歯を覗かせて笑う先輩に、亨も小さく微笑んでから意識を集中させる。

 

 犯人の思考を、いつか自分を誘拐した少女の能力《千里眼》で読み取る。

 

 混乱している犯人の頭の中には、一本のルートしかない。

「北二丁目ビルと中島第三ビルの間です。ミスターバックスの目の前」

「よっし、向かうか!」

 

 森隼人。SLW日本支部須藤第一部隊準一等捜査隊員であり、特に珍しい二重能力使い。その一つ目の能力は『筋肉・腱の増強』。肉弾戦となれば百戦百勝、跳躍力は五階建てのビル程度であれば助走なしに飛び越えられるほど。

 隼人は亨の身体を、俵を抱えるようにひょいと担ぐと、軽く膝を曲げて跳躍する。

 遠ざかるアスファルトと重力が消えたような違和感に、亨は脳の温度が少し下がったような気持ちになった。

 佐倉亨。

 未だ異能者の前振りのない行動に目を回している、新米捜査員である。

 

   ********

 

 この世界には、異能者がいる。

 その事実が証明されたのは、今から十五年ほど前のこと。

 ルイーゼ・サリヴァンという科学者は、異能者を異能者たらしめる細胞・Sn細胞の存在と、その細胞によって異能が発現する原理を解明し、世界に衝撃を与えた。

 Sn細胞、正式名称 〈Sullivan Nebel Zelle〉。観測者によって流動的に体内をめぐっていたり、身体の一箇所に凝集していたりしていたことから、サリヴァンはこれを『霧の細胞』と名付けた。前者が拡散型能力者、後者が集中型能力者と分類される。異能者は、この細胞を活性化させることで、細胞が有する様々な性質に応じて摩訶不思議な現象を引き起こすのである。

 ただし、Sn細胞を活性化させ、現実に不可思議な現象を意図的に起こすことができる異能者の数は、現在の統計上『世界人口の一パーセントに満たない』と推定されている。異能犯罪者対策局〈SLW〉は、この一パーセントに満たない数の異能者に幼少時から通常人と共存していくための道徳、心構えを教示し、異能の用い方を指導し、成人した異能者を、反道徳的な異能犯罪者を取り締まるための警察組織の捜査隊員として採用して、異能者と通常人の共存を図ろうと謳っている。こうして、異能者は社会での共存を認められているのである。――一部の異能者にとってはあるいは、強制されているとも言えるかもしれないが。

 ともあれ、伝説や物語に登場する異能力者の実在は、すでに一般世間の常識となっていた。

 

 しかし、話はここで終わりではない。

 強力な異能を操作でき、かつ、不老不死の性質を有する、特殊な異能者たちが存在する。

 

 学術名、結晶型能力者。

 

 Sn細胞が結晶化し、それが彼らに強力な異能と不老不死の身体をもたらしていると説明される。

 SLW創設に貢献した一人の女性研究者は、結晶化についてこう論じた。

 

『結晶化はSn細胞の自己保存のために起こる現象である。

 Sn細胞が結晶化する目的は、主である人間が危機に陥った際にその肉体を復活させることによる自己保存。復活した肉体は、Sn細胞にとっては自己保存のための道具となり下がる。

 すなわち、結晶型能力者の最終形態は、結晶化したSn細胞が永遠に存続するための道具、つまり、不老不死者である』

 

 結晶型能力者の存在は理論上の仮説であると、表向きには認識されている。 

 その裏で、SLWには、各国捜査隊の隊長格以上のメンバーと一部の研究員にしか知らされていない極秘事項がある。

 すなわち、『結晶型能力者は実在する』、と。

 SLWが確認した結晶型能力者は、二〇一四年三月時点で、三名であった。

 一人目は〈白銀の脳細胞〉。脳全体が結晶化した《全知全能》の能力者。

 二人目は〈碧の瞳〉。眼球が結晶化した《視界操作》《特殊視覚》の能力者。

 三人目は〈緋の心臓〉。心臓が結晶化した《魔法創造》の能力者。

 ただし、彼らの存在は公にはされなかった。SLW上層部は結晶型能力者の実在を確認した直後、彼らをめぐる闘争あるいは彼らが加担した反社会組織の台頭を危惧し、彼らの存在を隠蔽することに決めた。

 そして、SLW本部長は各国支部長に通達を発した。

『支部長は、緊急事態などの例外を除き、原則として捜査隊隊長格以上の構成員にのみ、結晶型能力者の実在を教示すること』

『結晶型能力者を発見した際は、支部長は、捜査隊隊長格以上の構成員を派遣し、速やかに拘束したうえ、支部長の管理下に置くこと』

『前記「緊急事態などの例外」に当たるかは、「結晶型能力者を発見した際」のほかは、支部長が具体的事情を総合的に考慮して厳格に判断すること』

 

 さて、SLWが確認していた結晶型能力者は、前述の通り三名であった。

 二〇一四年六月、ここに新たに二名の結晶型能力者が名を連ねることになる。

 四人目は結晶名未定。右の眼球に結晶化の兆候が見られる、《他人の心を見通す》能力者。千里眼(クレアヴォイアンス)と呼ばれる彼女は、〈碧の瞳〉ユーリ・クズネツォフとともに巨大国際犯罪組織ビッグ4に幹部として所属しており、国際指名手配されているが、軽井沢での事件以降、足取りは掴めていない。

 そして、五人目。結晶名〈陽だまりの希望〉。心臓にSn細胞の結晶が発見された、《他人の異能を学習する》能力者。SLWに保護された彼は、現在、SLWハイスクールに通い庇護を受けながら、その能力をより引き出すため、捜査隊員として前線で活動している。

 これは、そんな〈陽だまりの希望〉を背負うことになった少年・佐倉亨と、彼が出会った、ある異能者たちの物語。

 

   ********

 

 亨の読み通りにビルの間から飛び出した窃盗犯に、隼人は待っていましたとばかりに先制攻撃を仕掛ける。

 

 ――パチンッ……!

 

 軽い音に気づいた犯人が隼人の方を見た瞬間、その液状の身体が弾け飛んだ。

「はぁっ⁉」

「おっしゃ! 命中!」

 戸惑う犯人と、満足げに口角を釣り上げる隼人。

 

 森隼人、彼の二つ目の能力は、『音に衝撃波を宿らせる』という、極めて攻撃的な代物。

 先述の筋力増強と併せて、SLW日本支部でも指折りの武闘派。

 

 もっとも、能力者本人はそこまで攻撃的というわけではなく。

「大人しく捕まってくださーい、そろそろ逃げるのも疲れたでしょー?」

 なんとも気の抜ける調子で投降を求めるものだから、遅れて路地から出てきた美雪は渋い表情で同僚を睨んだ。

「ハヤト、真面目にしなさい。任務中よ」

「わーかってるって。オレそんなに不真面目に見える? いつもこうだろ?」

「そうね。つまり、いつも不真面目にしか見えてないわ」

「ひでぇ」

 苦笑いを堪えきれない隼人。しかし意識は犯人の方に向いている。

 血の螺子を身体の周辺で待機させている美雪も、同じ。

 美雪の隣には、新たな飛針を生み出し胸の前に構えるほたる。

 犯人の視線は自然、逃げ切れる可能性が少しでも残っている方向―― 自分を挟んで隼人の反対側に構える少年に向いた。

 彼だけは攻撃らしい攻撃をしてきていない。捜査班のフォーマンセルに一人の感知系能力者もいないというのは奇妙だから、彼が感知系なのだろうと犯人は思いついた。そう思い込んでしまった。

「うおおおおおおっ!」

「うわっ、こっち来んな!」

 腰が引けている亨に、液状化した犯人が覆い被さってその身体を包み込む。呼吸を奪われた亨はもがくことしかできない。

「トオル!」美雪が叫び、螺子を動かそうとするのを、犯人は牽制する。

「こ、こいつがどうなってもいいのか!」

 酸素を求めてじたばたと暴れる亨を抱え込みながら、じりじりと後退する犯人の背後に、人影が忍び寄る。

 人質を得て、三人の捜査隊員から逃げることしか頭になかった犯人は気づかない。

 人影は音もなく注射器を取り出し、

 

 ぷすっ……

 

「は?」

「ミユキ先輩、ハヤト先輩! 鎮静剤打てました!」

 背後にいたのは、自分が今、抱え込んでいるはずの少年。

 その瞬間に抱え込んでいた少年は消えて、犯人の目の前には張り詰めた空気の中で笑う本物の亨の姿。

 亨が素早く飛び退ったのと同時に、衝撃波が犯人の背中に命中する。

 犯人は液状化して衝撃を殺そうとしたが、身体が思うように動かない。亨が叫んだ『鎮静剤』という単語を思い出して、背中に冷たい汗が流れる。逃げ出そうとする犯人の足元にほたるの飛針が突き刺さり、足がすくむ。

 そして、赤い血の螺子が犯人を拘束した。

「……午前二時三分、常習窃盗犯人、古賀学を逮捕」

 美雪が静かに宣言する。

 連日の捜査の末、恩田班は犯人の拘束に成功した。

 

   ********

 

 犯人はすぐにSLW日本支部に送られ、今は逃亡防止のためのSn細胞鎮静剤追加投与と、身体検査を受けている。

 それらの手続きを、亨は興味深く見学していた。

『だいぶ慣れてきたんじゃないの? パパさんの《ドッペルゲンガー》もほぼ完璧に学習できてたよ!』

 頭の中に響く相棒の声に、亨の表情も思わず緩む。(マモルのおかげだよ)と、頭の中で答えた。

 結晶型能力者には、Sn細胞の結晶の声が聞こえる。亨にとってのその声は、子どもの頃から一緒にいる友人、マモルだった。

 夜も遅かったため、取調べは明日からということになり、亨は担当職員に見学をさせてもらった礼と別れの挨拶をしてからその場を立ち去る。

 荷物をまとめて帰り支度をしたあと、眠気でぼんやりした頭で廊下を歩く亨の背中に、深夜だからか控えてはいるが明るい声が響く。

「お、見学してたのか。勉強熱心だなー」

「あまりジロジロ見るものでもないけれどね」

「あ、ハヤト先輩、ミユキ先輩?」

 振り返った背後にいたのは、戦闘服からスーツに着替えた、班員の恩田美雪と森隼人。

 近づいた隼人はがしがしと亨の頭を雑破な手つきで撫でて、白い歯を見せて笑った。

「夜遅いけど帰り大丈夫か? 送って行こうか? ……っていうかホタルはどうした、一緒じゃないのか?」

「一人で帰っちゃいました。一緒に帰ったほうがいいかと思ったんですけど、『見学したいならしていけばいい』って置いて行かれちゃって……」亨は頬を掻いた。

 さらさらとした白い髪とすみれ色の瞳が印象的な、亨の同級生であり恩田班のメンバーでもある小野ほたるという少女は、亨のお世話係に任命された縁でしばしば行動をともにする仲間だ。『友人』と呼ぶには彼女の態度は少々塩対応な気もするし、けれど『知り合い』と呼ぶのはなんだか他人行儀な気がする、そんな関係。

 亨の誘拐事件のあと、反動のためか一時期、過保護に思えるほど亨に張り付いていたが、捜査隊でともに活動するうちにある程度は亨の能力を信頼したのであろう。あるとき、亨が『小野さんも、俺に振り舞われる必要はないからね』と言ってみたところ、ほたるも頷いて、最近ではそれなりに自由に出歩いてよいことになっている(ただし、後日防犯ブザーを手渡された)。

「女の子一人で夜道を歩かせるのはダメだろー……って言いたいところだけど、ホタルなら大丈夫か。オレむしろトオルのほうが心配。誘拐された前科あるし」

「被害者なんですけど前科ってなんスか」

 怒るなよー、と隼人は悪びれることなくにっかりと笑う。こんな冗談を交わしあえるくらいには、亨も捜査隊に馴染んでいた。亨自身が新しい環境に馴染もうと努力したのも少しはよい方向に影響したのかもしれないが、隼人の明るさがなければ有能な同僚たちに気後れしていたかもしれない。

 特に、隼人の隣に立つ美雪はなかなかとっつきにくかった。

「先程の《ドッペルゲンガー》、使い方としてはよかったわ。でも、分身の再現度はまだまだ低いし本体の居場所がバレバレだったわね。犯人が冷静だったらどうなっていたことか」

 恒例のアドバイス・タイム。一区切りついたらいつもこうだった。

『えーっ、再現度そんなに低かった? 今回頑張ったのにー!』

 頭の中で悔しそうな声が響く。マモルも今でこそ素直に指摘を受け入れているが、美雪の班に配属された当初は拗ねたりムキになったりしたものだ。彼も美雪を信頼するようになったのだと亨は思う。

 亨は美雪に向き直って訊ねる。

「再現度については、もうちょっと考えてみます。顔を中心に造形頑張ってるつもりなんですけど。それと聞きたいんですけど、俺の居場所、バレてました?」

「隠れていても緊張している人間の居場所はわかるものよ。緊張感は大事だけれど外に見せていい時と悪い時がある。心を落ち着けて、雰囲気に溶け込むの。背景になる気持ち、って言ったらイメージできるかしら?」

 雰囲気に溶け込む。背景になる。難しいことをさも簡単であるかのように要求されると亨は思った。

「……んー、お遊戯の木の役みたいな感じですか?」

「そうね、近いかもしれない。動きも喋りもしない、主張もしない、けれど当然のようにそこにある。木の役なら台詞を振られることもないでしょうし、立っているだけならさして緊張することもないでしょう」ここでひとつ、美雪は音楽の先生のように人差し指を立てる。「それを身体的な活動で言い表すなら、静かに、ゆったりと落ち着いて呼吸し、心拍を整え、平常を保つこと。自律神経を整えると緊張は静まるから、普段から訓練しておくといいわ」

 さらさらと紡がれる言葉は、初めてアドバイスを受けたときこそ冷たく突き放されたように感じられたし、時間が経ってもやはり冷たい印象は変わらないのだが、今では彼女の声が夏場に飲む冷水のように心地よく感じられる。

 亨は美雪になんとなく冷淡な印象を抱いていたが、彼女の仕事ぶりを見れば認識を改めざるを得なかった。定時には仕事をきっちり終わらせて帰宅し、非番のときは絶対に所内では見かけない一方で、戦闘となれば先陣を切って飛び出し逃亡しようとする相手をどこまでも追い詰め、先日の軽井沢の事件では結晶型能力者〈碧の瞳〉を相手に相討ちを覚悟で戦い退けたらしい。秘めてはいるが熱いハートの持ち主なのだと、現在の亨は理解していた。

 そうすると、美雪の方も亨を信頼してくれたようで、初めて「トオル」と名前で呼んでもらったときは、彼女に認められたようでマモルと喜び合ったものだ。

 ただし、それも相手によるらしい。美雪は、改まった場を除いて亨のことを呼び捨てにするが、ほたるのことは「小野準二等」と、亨より付き合いは長いはずだがまるで疎遠な相手のように呼ぶ。未だにその理由はわからないが、あまり仲がよろしくないらしいことは、亨も早々に察した。

「まっ、気配を消すのは宿題として、分身の再現度は結晶化が進まないんだから難しいよな。気長にやろうぜ」

 隼人は亨の肩を叩いて引き寄せ、「それに、隊長的にもオレ達的にも、結晶化は進んで欲しくないし」と小声で付け加えた。美雪にも聞こえたらしい、頷いて同意の意を表す。

 

 結晶化が進んだ果てにあるのは、Sn細胞が存続するためだけの、不老不死の身体。

 異能者としての力を引き伸ばすために神崎支部長の指示で前線に送り込まれたが、直接の上司である須藤隊長も、先輩である隼人や美雪も、亨が不老不死の存在になることを望んでいるわけではない。

 身近に自分の将来を案じてくれる大人達がいてくれたことで、亨も安心したものだ。

「ありがとうございます。……それじゃ、俺もう帰らなきゃ」

「おっと、引き止めて悪かったな」

 隼人が慌てて腕時計を確認すると、時計の短針は4に近づきつつあった。

「ハヤト、送って行きなさい。また誘拐でもされたら迷惑だわ。書類は私が片付けておくから、直帰して構わないわよ」

「『迷惑』ってセンパイ……」美雪の冷たい冗談に亨も一応突っ込んでおく。

「りょーかい。じゃ、トオル、行くか」

 亨が挨拶するより早く、美雪は「お疲れさま」とだけ言って、背を向け歩いて行ってしまった。亨も慌てて頭を下げる。

「あっ、お疲れさまでした!」

「おつー」

 隼人がひらひらと手を振りながら反対側に歩き出す背中を、亨は駆け足で追いかけた。隼人は欠伸を噛み殺しながら話し出す。

「さすがに(ねみ)ぃけど、まだ夏休みだし大丈夫だよな? 宿題終わったかー?」

「はい、あと一週間です。宿題は小野さんと勉強会させてもらえて、七月中に終わりました」

「ホタルがいれば怖いもんなしだろ。持つべきものは勉強できる友人だよな。オレもミユキにお世話になったわー」

 懐かしむような隼人に、亨も微笑む。

 美雪と隼人は同級生で、学年の主席と次席だったらしい。

「でも、ハヤト先輩も頭いいから、怒られなかったでしょ? 俺は一学期の成績があんまりだったからお小言頂いちゃいましたよ……」

「いや、次席って言っても大差をつけられての次席だからなー」隼人は当時を思い出したのか、苦笑した。「しかもあいつ小言とかじゃねぇの。オレの成績なんて所詮他人事だから見もしねぇの。ただあいつが勉強してるところに乗り込んでいくと『猿山のボス猿が……』みたいな冷たい視線を送ってくるの。次席なんてあいつにしてみれば負け犬の中の一等だったんだよな」

『負け犬の中の一等……』

「……厳しいッスね……」

 亨もマモルも、そんな二人が現在の信頼関係を築いた道程にどんな奇跡が起こったのかと不思議に思った。

「まあな。でもわからないところ聞いたらすげぇ丁寧に教えてくれるんだよ。他の奴は取っ付きにくいって近づいてこなかったけど、まあ確かに取っ付きにくいしオレもきっかけがなかったら近寄らないタイプだったんだけど、話してみればいい奴だろ?」

「はい、頼れる先輩です」

 ここで、亨に意地の悪い考えが浮かんだ。

「……でも先輩。いい加減片思い脱出しないと、ミユキ先輩が人付き合いよくないからっていつまでも一人でいてくれるとは限りませんよ?」

 何気ないふうを装って付け加えた言葉に、隼人の表情筋が固まった。

 亨から顔を背けて、赤くなった顔を隠そうと手で覆っているが、残念ながら真っ赤な耳は隠せていない。

「……いつから気づいてた?」

 いつもより声のボリュームを低くして隼人が訊ねる。こういうときの話し声は人気のない薄暗い廊下によく反射して響いているように聞こえて、この廊下を設計した建築士は内緒話を胸に仕舞っておけない油断のならない人間だったのではないかと、亨はどうでもいいことを思いついた。

「わりと前から。……っていうか、隠してるつもりだったんですか? やたら『美雪はいい奴だ!』って褒めちぎるのも、牽制してるんだとばかり」

「チガイマス…… うっわすげぇ恥ずかしい後輩に積年の思い勘付かれたとかダセェ……」

 隼人は顔を覆っていた手を離した。どうにか平常心を取り戻したらしく顔の赤みは引いたが、依然として耳は赤いままだった。

「……ちなみに聞くけど、他に誰かこのこと知ってる?」

「結構有名ですからね、同級生で学年の主席と次席で今は同じ隊の同じ班って。最初にマモルが『怪しい』って言い出して、俺も様子見てて怪しいなって思って、赤松先輩と話す機会があったときにさりげなく聞いたら『見守ってあげて』って遠回しに言われて、それで確信持ちました」

 赤松三等は、亨が恩田班に配属されたのと交代して異動した元班員だった。

 亨の配属を決定するにあたり、同級生のほたると一緒の方が亨も気が楽だろうと須藤が配慮した結果の人事異動。しかし、どちらかといえば、三等からなかなか昇級できない赤松と、ハイスクール生でありながら準二等として活躍する後輩のほたるを同じ班に所属させておくのは、赤松にとってマイナスだという判断が強く働いたのではないかと亨は思う。実際、異動前の引き継ぎで話をした赤松は、『先輩方と別の班になるのは寂しい』と言いながらも、どこか安心したような穏やかな表情をしていた。

 そんなことを思い出している亨の隣で、隼人は恨めしそうにぼやいている。

「赤松ぅ…… 気が利く奴だったけど先輩の片思いの行く末を見届けろなんて後輩に引き継ぎするなよあのバカ……」

「それは引き継ぎっていうか……」

『……まあ、引き継ぎだよね』

 うまい言い回しを思いつかず、頭の中の少年はそう結論づけた。

 夜勤用の出入口が見えてきたところで、亨はあまり先輩を動揺させるのもよくないと思い、この話はここらで締めくくることにした。

「お似合いだと思いますし、陰ながら応援してますよ。俺は」

「……おう、サンキュ」

 短く答えて、隼人はカードキーを出入口の認証端末にかざす。

 電子音とともに、かちゃりと解錠される音が響いた。

 オートロックのドアが再び施錠される音を背後に、亨と隼人は並んで歩き出す。肺に溜まっていた捜査機関の建物に漂う重苦しい空気を吐き出して深呼吸すると、いくらか胸がすっきりして、緑の少ないビル街であっても朝の空気は新鮮で気持ちがよいものだと亨は思った。

「……話変わるけどさ、腹空かねぇ?」隼人がぽつりと訊ねる。

「そうッスね、夕飯からだいぶ経ってますし」亨も同意する。

「ミユキは誘っても絶対夜食とか食わないからさ、普段は一人で食ってるんだけど。トオルは付き合うだろ、梅屋」

 隼人の視界の先には、二十四時間営業の牛丼チェーン店。扱っている事件によっては深夜まで居残ることになるSLW捜査員御用達の店だ。「ぐぅ」と亨の腹の虫が鳴いた。

「ご一緒します、先輩」

「よーし、いい返事だ!」

 亨も疲れていたはずだが、ようやく事件が片付いたからか足取りは妙に軽く、『帰ったら寝るだけなんだから食べ過ぎちゃダメだよ! 大盛り禁止!』と警告するマモルを(まあまあ)と適当に流して、店に入っていく隼人に続いた。

 

 夏休みも終わりに近づいた八月最後の週の朝は、昼間よりはいくらか涼しくて、白み始めた空にカラスの鳴き声が響いていた

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