ひょっとしなくても、自分が複数の敵を相手取るなんて無謀な判断だったのではないか。常時携帯している血液製剤をぐしゃりと奥歯で噛み潰したら、もちろん味の考慮なんてされていない錠剤の吐き捨てたいくらいの苦みで口の中がいっぱいになる。
急いで血液を補充しなければならないときのための最後の手段であるが、長谷川はじめ研究員たちにはいい顔をされない。彼らは美鈴たちの身体の負担にならないよう錠剤が解ける早さまで計算して薬剤を製造しているのだから、その思いを無碍にするようなものだ。ほんの少しの良心の呵責は噛み潰した薬と一緒に飲み込んだ。
血の蔓はしなやかで、余程のことがなければ千切れることもない。主には移動しようとする相手を拘束するために用いるが、勢いをつけてぶつければ鞭にもなる。勢いをつければ、であるが。
人を傷つける勇気を、鏑木美鈴という少女は持っていなかった。
成績優秀、実技指導でも常に正しく動けるはずの美鈴が、昇級したほたると違い三等隊員のままでいるのは、まずはこの、彼女の優しさゆえである。
蔓は基本的に拘束具として使用した。攻撃の手段として使えないならせめて仲間のサポートをしたいと考えた末の結論だった。
(お姉ちゃんなら)
自分を見つめようとするとき、同時に思い浮かぶのは、姉のこと。
美雪ならどんな異能を持っていても最大限に使いこなせるはずだった。
どうして自分にはそれができないのだろう。同じ血を分けた姉妹のはずなのに。
警察組織に所属しているからといって人を傷つけていいわけがない、それは当然である。ただ、美鈴が恐れているのは誰かが怪我をすることではなかった。恐ろしいのは、怪我をさせた自分のこと。
自分が自分で嫌になる。結局、我が身可愛さで逃げているだけ。自分が暴力を振るったと糾弾されるのが怖いだけ。
(お姉ちゃんなら)
そんなこと怖がりもしないだろう。自分のしたことだといつものすました顔で言い切って、独りですべてを背負って生きてゆく、それが恩田美雪という女性だった。
私にそんな覚悟ができるだろうか。たとえば、たった今、目の前に飛び出してきた三人の男たちを、自分の蔓で鞭打って地面なり樹木なりに叩きつけることができるだろうか。
そろそろと血の蔓が頭を持ち上げて、血走った目の男たちに狙いを定めていた。
その男たちは、どういうわけか美鈴の右斜め前方に吹き飛んだから、結局蔓の出番はなかったのだが。
「美鈴! 無事⁉」
さらさらした冷水のような、綺麗な声。美鈴の好きな、だけどちょっと苦手な、どこを取っても完璧すぎる姉が、息を切らせて美鈴を見ていた。
「美鈴?」
訝しげに近づこうとする姉に、返事をしなければと思い出して慌てて首を振った。
「大丈夫、無事」
ちらりと吹き飛ばされた三人衆に目をやる。うぐぅとかぜぇぜぇとか苦しそうだし脚が変な方向に曲がったりしているがなんとか生きている状態で、姉の手加減の上手さには驚かされるばかりである。
「彼ら、見たことがあるわね。懲戒処分になった元SLW捜査隊員だわ」
美鈴の隣で、美雪は腕を組んで忌々しげに吐き捨てた。
理解が追い付かなかった美鈴は、遅れて「えっ?」と聞き返した。
「どうして、捜査隊員が……? だってそういう、危ない人たちは、GPS埋め込まれてドイツ本部の監視下に置かれるって……」
「その本部が、裏で手を引いたのかもしれない」
美鈴は、理解の及ばない世界を、垣間見てしまった気がした。
美雪の方も、あまり深入りさせない方がよかったかと溜め息一つこぼして「そのうち話すわ、今は忘れていいのよ」と打ち切った。
「……貴女を襲ったのは、これで全員かしら。拘束しておいてくれる?」
「あっ、うん」
血の蔓で恐る恐る男たちを一か所に集める。中には骨折しているらしい人物もいるので、なるべく丁寧に。
くるくると両手足を縛ってしまえば、そこにいるのは古賀にほたるを誘拐させ美鈴たちに殺意を向けていた刺客だなんて大層なものではなく、白雪姫を前に震えるだけのつまらない浮浪者たちだった。
身動きを取れないようにして、美鈴は姉を見やる。美雪の視線は山の麓、亨たちが下って行った方に向けられていた。
「……誰か、お呼びでない人物がご登場のようね」
ぽつり、美雪の口から漏れた言葉の意味を、美鈴はこてんと首を傾げて聞いていた。
❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃
どこから、いつの間に現れたのか知れない二人組に、そこにいた全員の注意が向いていた。その中で誰より早く冷静を取り戻したのは隼人で、彼は二人の映像をプライベート用のスマートフォンに収めると須藤へ送信する。宛先も須藤のプライベート用端末にしておいたのは、須藤が、おそらくは世界の至宝を抱えるあの男の情報を、SLW上層部に察知されるのを恐れていたから。
ほたるの危機に現れた、自らを「魔王」と称する黒衣の男。
彼らはほたるを、友人だと言った。
上層部、神崎に伝わったら、またほたるを問い詰めるに違いなかった。
魔王陛下は鋭い目つきで周囲を見渡し、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……姿を隠そうとも、その醜悪な魂までは隠し切れん。貴様らに僅かばかりでも戦士の誇りが残っているならば、オレと戦って斃れることを許そう」
そう言うと腰に下げた太刀を引き抜き、姿を現さない敵に向け構えた。
返事の代わりに飛んできたのは発砲音。しかし魔王はこれを眉一つ動かさず両断してみせた。
魔王の隣に控えていた少女は、我慢の限界だとばかりに理仁に食って掛かる。
「もう! さっさと喰い殺しちゃえばいいじゃん! なに呑気に構えてんの⁉」
「……桜、すまないが……」
魔王はここで初めて人間らしい、少し困ったような表情を見せた。少女は魔王の前でもたじろぐことなく、むしろ腕組みをして踏ん反り返っている。
「……樹木が邪魔で間合いを詰め切れない……」
「……」
「……」
この間抜けすぎる返答は、隼人も亨も想定していなかった。
少女は「はぁー……」と深く、深く溜め息をついた。
「だから太刀一振りじゃそのうち困るって言ったでしょ! なんか近接戦用の得物も用意しときなさい!」
「すまない」
「あんたの『すまない』ほど当てにならないものもないわ」
すっぱり切って捨てて、少女が一歩前に出る。「全員屈んでなさい」
その忠告が隼人や亨に向けられたものだと把握する前に、少女は自分の胴体よりも大きな鎌を凪ぐように放る。
鎌は風を切りつけながら少女を中心とする円上を滑空し、円はだんだんと大きく広がって、周囲の樹木を飲み込んでゆく。刃に薙ぎ倒された木々の陰では、各々武器を構えていた男たちが身を縮込ませて、この嵐が過ぎ去るのを待っていた。
木々が倒れてずいぶん見晴らしの良くなった頃、少女は振るっていた鎌を手元に引き戻し、隣に屈んでいた魔王に告げる。
「これで動きやすくなったでしょ。害悪の数は十七。全員喰い殺しちゃってちょうだい」
「礼を言う、桜」
同時に魔王は飛び出した。
一人目には、大気中の水を酸素と水素へ分解し、これを摩擦で起こした炎により爆発させ地面に叩きつけた。
二人目には、草葉に含まれる水分子の運動を止めることで瞬時に凍らせ、冷徹なナイフと化したそれで四方から斬りつけた。
三人目は、光の分子を集めて束ねて、武装していた胴体に突き立てた。
四人目は、音の波を集約・膨張させ、鼓膜を貫き戦闘不能に。
――隼人には、脈絡のない異能力の連続だったかもしれない。
他方で、数々の異能を、亨は審美眼を通して視ていた。だから、ぎりぎりで理解できた。物理法則をも操作する、さらに上位の魔法の存在に。
魔王の異能力とは、魔法の創造であると。
須藤の話していた通り。この男の手にかかれば今も続く世界の戦争だってひっくり返るだろう。
十六人目が呻きながら倒れたあと、魔王はくるりと周囲を見渡した。
「……桜。一人足りない。取り逃がしたか?」
「ううん。近くにいるはずだけど…… やる気が失せたのかしら、害悪は弱まってるの」
少女は厳しい表情のまま気配を探っている。
くるり、頭の上の方で二つに結わえた黒い髪を靡かせて、隼人たちの方へと振り返ったとき、少女はようやく気づき叫んだ。
「違う! 理仁、最後の一人、全員道連れにする気よ‼」
隼人は叫びにもならない男の声に振り返った。古賀は半液状のまま、本来は首だったのだろうか、頭部より少し下の部分を押さえて身体を捻らせ、びちゃびちゃと不快な音を立てながらもがいていた。
「タス、ケ……」
最後に古賀は、隼人に手を伸ばそうとした。なにが起こっているのかもわからない隼人にはどうしようもなかった。古賀は自分が助からないことを悟ると、
「チクショ……」
そう吐き捨てて、動くことを止めた。
魔王が打ちのめした十六人についても似たような状況で、首元を押さえて身体を仰け反らせて、そしてすぐに動かなくなった。
一瞬にして死の森と化したそこに、ゆらゆらと覚束ない足取りで現れたのは、隼人たちと同じ制服を身にまとった厳めしい顔つきの男。出で立ちの厳格さと足元の危うさが釣り合っていなくて、隼人はなによりもまず気持ち悪さを覚えた。
「……! 先輩、あの男、古賀の記憶に出てきた男です! 小野さんを殺せって古賀を脅した捜査隊員!」
亨の声に我に返って、「意識読めるか⁉」と指示を飛ばす。
亨は捜査隊員の顔を射殺さんばかりに睨みつけた。対する捜査隊員は人形のようなたどたどしさで、話す、というよりも、単語をつらつらと吐いた。
「小野 ホたル ヲ 救ウ気が あルなら、 来イ。 緋の シンゾウ」
その右手が別の生物のようにうねったと思ったら、手の中に納まっていた小銃を自らのこめかみに突き付けて。
「――っ、待て……!」
隼人が小銃を弾き飛ばす隙も与えず、ぱんと軽い音を立てて、捜査隊員は崩れ落ちる。
「……今のが十七人目の害悪。もう、危険はないわ」
苦々しく表情をゆがめて、桜と呼ばれた少女は、最悪の現場に一応の安全が確保されたことを宣言した。
❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃
惨劇の数分後に現場へ到着した美雪は、隼人と共に後処理に追われた。真っ先に「子どもたちをここに留めておくべきではない」として、先に下山した平蔵・陽一含め全員を、赤松に指示して市内の小さな病院へと運ばせた。二人はその後も、駆けつけた他の捜査員とともに検証に立ち会っている。
病院には先に到着していた須藤と長谷川が待っていて、長谷川は特に状態の不明確なほたるの治療に当たった。
「わたしが忘れていたのは、陛下とさくらちゃん…… それに、ノアの箱舟のみなさんのことだったんですね」
長谷川には、ほたるに負い目があった。幼かった少女が過ごした、ほんの数日だけれども大切な時間を、上官の命令とはいえ蓋をして隠したのは長谷川だった。
「いいんです、長谷川さん。長谷川さんも須藤隊長も、わたしを支部長から守ってくださったんです。感謝こそすれ、恨むだなんてあり得ません」
第一捜査隊前隊長は、ほたるを連日取り調べ続けた神崎に進言していた。
『あの子は喋らないよ、どんな取調べにも屈しない。信仰というのはそういうものだ』
『だから、ここはひとつ、僕に任せてくれたまえよ』
『要は、小野ほたるから情報が洩れなければいい。記憶操作のプロなら研究室に知り合いがいるんだ。彼に頼んで小野ほたるにはすべて忘れてもらおう』
『まあ、ひょっとしたら小野ほたるを襲って記憶の蓋をこじ開けようとする馬鹿も現れるかもしれないが。その時は恐らく、緋の心臓が黙っていない。世界中のどこからでも、自分の分身なりなんなりを寄越すだろうね』
『それを逆探知できれば、緋の心臓も居場所もわかるかもしれないねぇ。まあ、これは運がよければの話だけれど』
神崎はその提案を飲んだ。その時期、いよいよ神崎による小野ほたる取調べの執拗さが、本部にまで知られるようになったという事情も影響した。
長谷川はもう一度、頭を下げた。
「それで、あの…… 陛下の居場所は、逆探知されたんでしょうか……?」
ほたるは自分のことより、明らかに魔王の心配をしていた。魔王はあの公園に、ほたるを一人残して逃げたというのに。これが信仰かと、長谷川は薄ら寒い心地がした。
「それは、トオルに神崎さんの頭の中を覗き見てもらうしか確認できんな…… だが、あまり関係ないんじゃないか?」
ほたるを守るため、魔王が逃げ際にほたるにかけた魔法。ほたるが助けを求めたとき、ほたるのために自らの分身を生み出す、緋の心臓という結晶なしには起こしえない異能力。
その分身が、役目を終えて消えゆくとき、ほたるに微笑んだのだ。
『迎えに来てくれるか? ほたる』
魔王陛下は、自ら、SLWの監視下に赴くことを約した。
しかも、ほたるの手で連行させ、彼女がSLWに仇成す存在ではないと示そうとしている。
彼なりのけじめなのかもしれないが、ほたるにとっては残酷すぎる役目だ。
「……四条理仁の連行については須藤の旦那から神崎さんに話が行くはずだ。旦那は日本支部の隊長の中で唯一、四条理仁の顔を知っている。迎えに行くとすれば旦那も一緒だろう。あとはハヤトと、トオルだな。ひとりで悩まなくていい。仲間に頼ってもいいんだぜ、嬢ちゃん」
ひとりでなんでもこなしてしまう、そんなほたるが長谷川は心配だった。頼る相手のいなかった昔の美雪より、頼る仲間がいるのに頼ることを知らないほたるは、これからひとり、四条理仁の自由が奪われる責任を背負っていくのだろうか、と。
ところがほたるは案外、安心しきった表情で頷いた。
「今回の件でよく、わかりました。わたしひとりでは、なにもできません。わたしは自分が思っていたより、ずっと弱かった……」
そこには失望も落胆もなかった。彼女は落ち着いて、真実を受け入れているように、長谷川には見えた。
「わかってんならいい。治療はとりあえずここまでにする。また呼び出すかもしれんが」
「ご心配をおかけしました」
ほたるはぺこりと小さな頭を下げて、診察室を出た。
待合室にはやはり、美鈴とエデン、それに平蔵と陽一がいた。
ほたるが近づくと、エデンが勢いよく立ち上がりほたるに抱き着く。
「大丈夫、長谷川さんからも問題ないって言ってもらえたから。エデンたちは?」
「あたしはなんにも! 走ったときに引っ掛けた擦り傷だけ消毒してもらった!」
「軽い貧血があるけど、帰って安静にしていれば大丈夫。今日はお姉ちゃんの帰りも遅そうだし、できればふたりのどちらかの部屋に泊めて欲しいんだけど……」
美鈴は荷物をまとめ始めるが、気づいたエデンは「待って」と声をかけた。
小首をかしげて、美鈴はエデンを見つめる。
「帰らないの?」
「えっと、んー、その……」
エデンは指先を擦り合わせたり、なにもない方向に目を向けたりしながら、歯切れ悪く、「えっとさ、佐倉がまだじゃん。急ぎじゃないならさ、待たない?」どうにか意味の通じる文章を組み立てた。
耳の端まで真っ赤になったエデンに、平蔵も陽一も驚いて顔を見合わせた。
「これはあれか……?」
「佐倉に春の嵐が来たか……?」
「嵐は余計だし別に春でもないし! あんなフラフラした奴、夜道に一人放っておくとか心配でしょ!」
そう言って食って掛かるエデンに、笑いをこらえきれなかった美鈴が噴き出す。三人で帰る予定が大所帯になりそうだ。
帰りはどんな話をしようか。やはりジェシカとアンとヘンリーの恋物語だろうか。
散々からかわれたエデンがなかなか戻ってこない亨に突っかかっていくまで、さほど時間はかからなかった。