魔王陛下の食卓の音楽

第二章

 

 同日の昼。
 四条理仁は、一人、テントから離れた小さな公園を訪れていた。昼時だからか、公園に人気はなかった。ベンチで一人、ぼうっと空を見上げる。
 その日は快晴で、日差しが強かったにもかかわらず、理仁はいつも通りの黒いコートを身に纏っていた。体温含め体調の管理は、Sn細胞が結晶化した心臓に任せっきりで、季節に合わせて衣服を変える必要はなかった。板についたこの黒衣を今さら変える気にもなれず、結局この格好でここ数年過ごしている。

 〈緋の心臓〉の所有者であり、不老不死の異能者である理仁には、食事を取る必要性がない。ただでさえ大所帯で食事の準備が大変な“ノアの箱舟”で、不要な食事を取る理由はないだろうと、彼は食事時になると、そっとテントから離れるのが習慣になっていた。

 最後に食事をしたのはいつだろうか、と、ふと考える。昔、“ノアの箱舟”とも、桜とも出会うずっと前。ユーリやベアトリクスや〈最初の一人〉とともに、あの酔狂者集団に飼われていた頃、付き合いで口にしたワインとチーズが最後だったかもしれない。あまり良い記憶ではないので静かに首を振って頭から追い出す。
「あ、魔王様! いたいた!」
 彼を慕う少年の声に、理仁は振り返る。十兵衛が公園の入り口から駆け寄ってくる。
「魔王様、探しましたよ! すぐに戻ってください、友恵さんが呼んでます」
「どうした?」
「あー、なんというか、アネキのことでちょっと」
 言葉を濁す十兵衛に、理仁は眉をひそめる。「桜が、どうした?」
「なんか、健康診断の結果が、問題アリだったみたいで」
「……病か?」
 表情がますます曇る理仁に、十兵衛は苦笑いで「違いますよ」とその懸念を否定した。
「まあ、友恵さんのテントに行きましょう。オレよりも、友恵さんや聖さんに説明したもらった方が手っ取り早いし正確です」
「わかった、向かおう」
 理仁は黒衣を翻して、小走りになる十兵衛に続いた。

 

   ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃

 

「桜が、食べない?」
 理仁は訝しげに、友恵の説明を鸚鵡返しに呟いた。
 友恵は困ったように頷く。「それも、尋常じゃないくらい」
「コレ、あのバカの健康診断結果。体重もだが、体脂肪率も問題。ついでに付け加えると鉄とか赤血球もギリギリ」
 理仁も手渡された紙切れに目を通すが、正直なところよくわからなかったので、黙って聖に返した。その代わりに質問する。
「その、このまま食べない状況が続くとどうなるんだ?」
「そうねぇ、あんまり低体重だと、女性ホルモンが減少して婦人科系の病気になるかもしれないし、骨がもろくなったり…… 貧血や免疫力の低下も怖いわねぇ。そもそも、まだ十代だし、身体を作る上で栄養不足は問題だらけだわ」
 友恵はゆったりとした口調で答えるが、やはり困り顔だ。
 それを聞いて、理仁も困惑した。大切な友人が危険な状態であれば、なにを差し置いてでも助けなければと思うのが彼であった。しかし、そもそも食事と縁遠い彼には、なにをすればよいのか皆目見当もつかなかった。
 そのとき、聖が「でもな、」と口を開く。三人の視線が聖に集中した。
「アイツ、別に食べることに拒否感があるとか、もっと痩せたいとか、そういうわけでもなさそうなんだ。朝は時々抜くが、昼と夜は必ず十兵衛とぺちゃくちゃ駄弁りながら食事に来るしな。それに、体型だとか体重だとかに変にこだわってる風でもない。もっと根本的に、食へのこだわりがないように、俺には見える」
「そうねぇ、お肉もお野菜もパンも、好き嫌いしているわけではないわよねぇ。そのとき食べたいものだけを食べている印象だわ。もっと食事の大切さに関心を持ってくれればいいのだけれど……」
 聖の分析に、友恵も同意する。理仁は、聖と友恵が、桜の様子をそんなにも観察していたのかと内心驚いていた。聖は普段から周囲を観察しているし、よくテーブルを共にするらしいから納得できるとしても、友恵は団長とともに上座で食事をとるはずだ。しかし、友恵も「お姉ちゃん」と慕ってくれる桜のことは、気にかけていたということだろう。
 そもそも、理仁自身がテントに寄り付かないのであるから、わからないことがあって当然といえば当然ではあるが。理仁は無表情の下でなんとなく、疎外感を覚え始めていた。どうして友恵が自分を呼びつけたのか、わからなかった。
「そこで聞きたいんだが、理仁。アイツが食べない理由、なにか思い当たらないか?」
 今度は聖が理仁に問いかける。急な問いかけに、理仁は首をかしげた。
「オレが? もちろん協力したいが、なにか役に立てるだろうか?」
「アイツを例のヘンテコな実家から誘拐したのはお前だろ。実家で食事のときになにか変なことがあったとか、その後のことでもいい、俺たちの知らないアイツのことを教えてくれ」
 理仁は、自分にもなにかできるかもしれないと思い、「思い出してみる」と記憶を辿る。
「……確かに、桜を憎んでいた母親に、差し入れの菓子に毒を盛られそうになったこともあった。まあそれは、桜に付いていた世話係によって阻止されたんだが……」
「いきなりヤバそうなのが出てきたな……」
 聖が苦虫を噛み潰したように表情を歪める。友恵も十兵衛も、険しい表情だ。
「だが、世話係は欠かさず三食の準備をしていたし、桜もそれは食べていたはずだ」
「そうか。実家でのトラブルはまぁ、こう言いたくはないが、桜にとっても珍しいことじゃなかったんだろうな」
 聖はイライラとした様子でタバコを咥える。
「そうね。あの子には〈害悪の告知〉があるし、身に降りかかる危険は察知できるものね。もちろん、辛かったでしょうけれど」
 友恵は悲しげに目を伏せて、そう呟いた。
 十兵衛は難しげな表情をしていたが、「じゃあ、実家では世話係さんがうまくフォローしてくれてたわけですね。そうすると、その後が問題だったってことですか?」と聖たちに問いかけた。
 聖はジッポを取り出してタバコに火をつけると、「そうかもしれねぇな」と、理仁に話を続けるよう視線で促した。
 理仁はその後のこと、桜を実家から誘拐したあとの様子を思い起こす。
 そして。
「あ……」
 理仁は自分でも思ってもみなかったほど、間抜けな声を出した。
 聖が身を乗り出す。「どうした?」
 友恵も十兵衛も話の続きを待つ。
 理仁は言いにくそうにしばらく目を逸らしたあと、観念して口を開いた。
「その…… オレ自身、食事を取るという意識が薄かったから、というのは、言い訳にならないんだが……」
「なんだ、ハッキリ言えよ」

「……桜に食事を取らせることを、忘れていた時期があった……」

 聖がガクリと首を折った。
 十兵衛は苦笑している。
 友恵は真剣な表情で「どのくらい? 一日? 二日?」と訊ねる。
 理仁はもごもごと口ごもっていたが、友恵に「はっきり仰言い」と命じられて、答えた。

「……一週間……」

 友恵は頭を抱えて、深いため息をついた。
 十兵衛の苦笑いも、一瞬で乾いたものになる。
 聖はタバコを口から離して、

「ほぼほぼテメェのせいじゃねぇかッ‼」

 思いっきり理仁を怒鳴りつけた。
 理仁は反論する余地もなく、「その通りだ……」と俯いた。
「その間、桜はどうやって飢えをしのいでいたの?」
 友恵が努めて冷静に質問を続ける。
「ほぼ水だけで…… それと、宿泊先でオレ達が食事を取らないのを気にした女将が、オレの知らないうちに、桜に余り物を分けてくれていたらしい…… 一週間して、桜の方から『ごはんを買いたい』と言われて、ようやく気づいた……」
「そうねぇ、あの子、人見知りなところがあるから、誘拐犯に食事をお願いするのも躊躇ったんでしょうねぇ……」
 友恵が当てつけにそう言ったので、理仁はうなだれるしかなかった。
「桜には、申し訳ないことをしたと思っている……」
「そうだよ、こんな生活破綻した不老不死者に拾われたら食事に無関心にもなるわ。納得だわ。どんなバカな誘拐犯でも食事の世話くらいは思いつくわ。底抜けのバカはテメェだわ」
 聖はタバコを吹かしながら大声でそう言った。
 十兵衛も目を逸らしている。彼もやはり怒り心頭なのだろうと、理仁は思った。
 友恵は「さてさて」と手のひらを叩く。
「まあ、理仁が救いようのないお馬鹿さんだということは今にわかったことではないわ。お馬鹿さんを詰るより、今は目の前の問題をどうにかしましょう」
「そうだな。今からでも食事に関心を持たせるにはどうすればいいか、考えるぞ、十兵衛」
「……はい」
 聖は理仁を無視して十兵衛だけに呼びかけた。十兵衛も聖たちの方を向く。理仁は出て行けと言われているような気がしたが(少なくとも聖はそう思っているはずだ)、そこから動かなかった。桜への申し訳なさもあったが、なによりも、なにかできることがあるのならば協力したいという思いが強かった。
「とりあえず、50キロの壁は越えなきゃだよな。やっぱ、食事のメリットを徹底的に教え込むのがいいんじゃねぇか?」
「口であの子に言ってわかるかしら? 桜はお嬢様育ちだから、試しになにか口に合いそうなものを買ってきてみるわ」
「やっぱり、たくさん食べたら褒めてあげるのが一番だと思いますよ!」
 皆それぞれに案を出すが、理仁にはなにも思いつかない。
 理仁は、自分の無力さを歯がゆく思いながら、三人の話し合いをじっと見つめていた。

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