魔王陛下の食卓の音楽

 

第四章

 

 理仁は広く、暗い空間を訪れていた。
 困ったときには彼女に頼るのが、常になっていた。
「おやおや、リヒト。そんなに暗い顔をしていかがなさったのです?」
 この部屋の主人である少女は、浮かない表情を浮かべた理仁を穏やかに微笑んで出迎えた。
「……友人のことで、相談したいことがあるんだ、ベアトリクス……」
「貴方の特に親しくしているご友人のことですね。今日一日、ご友人達と一緒に悩んでいらっしゃった」
 全知全能の異能者〈白銀の脳細胞〉を相手に、長々とした説明は不要であった。理仁は早速本題に入る。
「そうだ。桜が食事をとらないので、みんな心配している。しかし、オレには食事を取る習慣がもはやない。わからないんだ、桜がなにを思っているのか……」
「ご相談に応じたいのは山々なのですが、それは私も同じことですよ、リヒト。私もここ数年は水の一滴すら口にしていないのですから……」
 理仁はうなだれた。わかってはいたのだ、彼女も自分側の人間なのだと。
 しかし、ベアトリクスは続ける。
「けれども、貴方の方が記憶に新しいのではありませんか? 食卓の記憶を、思い返してごらんなさい」
「食卓……?」
 理仁は首をかしげた。理仁にとって「食卓」といえば、戦時下の貧しい家庭の風景だ。桜たちの時代とは違う気がする。
 ベアトリクスはそっと指を振る。
「丸いテーブル」空間にテーブルが生まれた。
 もう一つ、指をくるりと回す。
「暖かな色のランプ」空間が橙色の光に包まれる。
「貧しいけれど、温かい食事」トウモロコシの粉を混ぜた飯と、根菜の汁物。
「けれど、まだ足りない。貴方には思い出せませんか?」
 なにかが足りないことには気づいた。
 しかし、それがなんだったのか思い出せない。
「……考えてみる」
 理仁は黒衣を翻してその場を後にした。
「リヒト」少女の凜とした声が追いかけてくる。理仁は横顔で振り返った。
「大切にしておあげなさい。ご友人のことも、貴方自身も」
 ベアトリクスは母のような温かい微笑みを浮かべていた。
 理仁は一つ頷いて、今度こそ立ち去った。

 

   ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃

 

 理仁はそっと目を開く。
 例の公園のベンチに腰掛けていた。
 ベアトリクスの謎かけのような言葉に、しばし向き合う。
「テーブルと、ランプと、食事と、……?」
 考えるが、食卓といえばそれだけで十分な気もする。しかしベアトリクスはそれでは足りないと言った。理仁が経験した百年も前の戦時下の貧しい食卓とは違って、現代では何か特別な物が必要なのだろうか。いや、思い出せと言ったのだから、理仁の時代とも共通する物のはずだ。
「魔王様ー!」
 少年の声に振り返る。十兵衛がぴょんぴょんと近づいてきて、「お隣いいですか?」と訊ねた。頷くと、嬉しそうに笑って理仁の隣に座る。
「……桜は、どうした?」
「なんか、『今日はみんなアタシのために頑張ってくれたから、アタシも頑張る』って言って、完食目指して格闘してますよ」
 桜らしいな、と呟くと、そうですね、と同意の声が返ってくる。
 十兵衛は少し難しそうな表情をしていたが、考えをまとめ終わったのか、
「魔王様、ちょっと聞いてもらいたいことがあるんですが」と口を開いた。
「どうした?」
「聖さんは、魔王様が食事に無頓着だから、アネキも食事に無頓着になったって言ってましたけど、なんか変だなーって思ってたんです」
「変?」
「だって、言っちゃなんですけど食生活の破綻した魔王様に付き合って諸国行脚するにあたって、食事が取れないとなったら一大事じゃないですか。アネキは危機察知能力が尋常じゃないし、普通、食事に貪欲になるんじゃないかと思うんですよ」
 理仁にとっては目から鱗だった。確かに、言ってしまえばあの頃の桜は欠食児童のようなものだった。あの状況では無頓着になるというより、むしろ食事に執着するようになるのが自然ではないか。
 十兵衛は続ける。
「アネキ、別に食べるのが嫌いってわけじゃないんですよ。オレや聖さんでマック行こうって誘ったら喜んでついてくるし。まあ、ポテトのSサイズすら食べきれないんですけど。それでも、楽しそうですよ」
 そうなのか、と新しい情報に驚きつつ、理仁の中の子どもっぽい部分がちょっと拗ねる。
「……オレは誘われてない……」
「……誘って欲しかったんですか? 初めに誘ったとき『オレはどうせ食べる意味もないから、いい』って辞退されちゃうから、てっきり誘われるのも嫌なのかと」
 今度から誘いますね、と十兵衛は大人の対応を見せるものだから、理仁はなんだか恥ずかしくなった。
 理仁は記憶をまさぐる。『オレはどうせ食べる意味もないから、いい』。確かにこれでは、誘った相手に気を遣わせる。我ながらどうしてもっと気の利いた言い回しができないのかとため息をつきたくなるのと同時に、気がついた。
(オレは、桜になにを言ってきた……?)

 

『オレはいい。オレより桜が食べた方が、友恵さんも喜ぶ』

 

 先ほどのやりとりが脳裏に浮かぶ。
 思えば、それだけではなかったはずだ。

「……十兵衛、オレなりに、桜のためにやってみたいことがある。先にテントに戻ってくれ」
 十兵衛は首をかしげたあと、嬉しそうに頷いた。「魔王様の作戦ですね!」
 十兵衛がテントに戻っていくのを見送って、理仁は一人、街へと出かけた。

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