第五章
彼が初めて少女の食事の必要性に気づいた時、それに思い至らなかった自分に頭を抱えた。すぐに紙幣を握らせて、『好きなだけ買ってこい』と送り出した。
ホテルに戻ってきた少女は、釣り銭を返すのと同時に、彼になにかを差し出しながら小さな声で言った。
『これ、あなたの分』
それは、小さなクリームパンだった。
彼は首を横に振った。
『オレは、食べる必要がないから、いいんだ』
少女は、返答が意外だったのか、目を丸くした。そのあと、
『……ごめん』
と呟いて、一人でテーブルについて菓子パンの袋を開けた。
謝られた理由はよくわからなかったが、しばらく眺めていた少女の小さな背中は、なんだか寂しそうで。
理仁は帰路を急ぎながら考える。
思えば、本当に最初から、自分はなにも気づいていなかった。
戦時下、実家での食事風景。思い出すのは、塗装の剥げかけた卓袱台と、灯りを最低限に絞ったランプと、トウモロコシの粉で嵩増しした飯に、根菜を薄く切ったものが申し訳程度に入っている汁物と――
実家では一人、離れに隔離され、ずっとひとりぼっちだった少女は、自分を誘拐してくれた理仁に、内心でそれを期待していたのかもしれない。
今さら遅いかもしれないけれど、あの時、渡しそびれたものを、今、届けに行く。
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そっとテントの入り口を開くと、まだ明かりが灯っていた。
中にいるのは、たった一人。
難しそうな顔をして、粉ふきいもを見つめている。
「桜」
声をかけると、入ってきた理仁に気づき、意外そうに目を開く。
「珍しいわね、理仁が食事テントに来るなんて」
「ああ」
まっすぐに桜の目の前の席に向かって、腰掛ける。
目の前で食事の様子を見られるのはやはり気まずいらしく、桜はフォークを弄んでいる。
「……なに?」
沈黙に耐えきれなかった桜が、怪訝そうに問いかける。
理仁は、街で見つけたパン屋の袋から、それを取り出す。
「……クリームパン?」
「ああ」
「……桜、オレも、ここで食事をしていいだろうか」
訊ねるのに、妙に緊張した。拒絶されたらどうしようと、今さら不安が押し寄せるが、それを押し返して桜の目を見た。
桜は理仁をじっと見つめたあと、視線を外して頬を膨らませる。
「……遅いのよ、馬鹿」
小さく呟いた彼女の目尻は、少し赤くなっていた。
「気ぃ使うじゃないの、初めて他人を食事に誘ったら、『要らない』って拒否られて、そうかー、不死人だから食べる必要もないし、普通の人間だった頃を思い出したりするのかなー、むしろ食べるの嫌いなのかなーって、深読みしちゃって、それ以来誘うの怖くなって」
「すまなかった、そういうつもりではなかったんだが、オレの説明不足だった」
「本当、理仁は言葉が足りない。配慮がない。そんなんだからいろいろトラブル抱え込むのよ」
「以後、気をつける」
「……まあ、アタシも言葉足らずだったわよね。あんたにはハッキリ伝えなきゃ伝わらないんだった」
「ああ、だから聞かせて欲しい。オレも、ここで桜と食事をしていいか?」
改めてそう訊ねると、桜は仏頂面を引っ込めて、悪戯っ子のように笑った。
「もちろん。大歓迎よ」
戦時下、実家での食事風景。思い出すのは、塗装の剥げかけた卓袱台と、灯りを最低限に絞ったランプと、トウモロコシの粉で嵩増しした飯に、根菜を薄く切ったものが申し訳程度に入っている汁物と。
祖母と、父と、母と、弟妹たちが笑いあう、そんな食卓。
――ひとりぼっちだった少女が、ずっと欲しかったもの。
笑って粉ふきいもを口に運ぶ桜を見て、これで正解だったのだと、理仁はほっとしながら、甘い菓子パンにかじりついた。
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「……なんか、俺様、当て馬にされた気がする。友恵サン、あいつの欲しがってたモノ、わかってたんでしょ?」
「なんのことかしら?」
「アネキ、嬉しそう! よかったぁ!」
テントの外では、本件の特別功労者の三名が、拗ねていたり、訳知り顔をしていたり、純粋に嬉しそうにしたりしていた。
「まあ、貴方達も今回は頑張ってくれたわよね。冷蔵ケースに四人分の鹿ヶ谷南瓜のムースを作っておいたから、みんなでお食べなさい」
「え、オレ達の分もあるんですか! やったー!」
「ガキは気楽でいいよなぁ……」
「じゃあ聖さんはいらないんですね? オレ貰っちゃおーっと!」
「いらねぇとは言ってねぇ! まったく、桜だけでも面倒だったのに、最近お前までいい性格になってきてねぇか……?」
ドタバタとキッチンに向かう十兵衛と聖を見送って、友恵はそっとテントを振り返る。
中から聞こえる嬉しそうな少女の声を聞いて、友恵はほっと、安心したように息をついた。
理仁が桜たちとともに食事テントに顔を出すようになってひと月、桜の体重は無事50キロの壁を越え、友恵の心配事は一つ減った。
しかし、今度はその矛先が聖の喫煙量に向かったというのは、また別の話。