僧侶たちの手当てを済ませると、廣光は六十年ぶりに外へ出た。もうここへ帰ってくることはできないだろう、逃げるように出て行った廣光を、誰も止めはしなかった。
かと言って、行く当てもない廣光は、少なくとも話は通じる黒髪の少女に付いていくことにした。少女・ベアトリクスは、例の”贖罪”の話の前に、質問から切り出した。
「時空を渡る異能者の存在を、ご存知ですか?」
廣光は首を横に振った。聞いたことも考えたこともなかった。
ベアトリクスはその反応を予期していたので、「そうでしょうね」と簡潔に説明する。
「彼は最初の異能者であり、宝石の所有者。不老不死の肉体を得た、黄金の翼に獅子の体躯、蛇の尾と人の知能を有する、元は自由気ままに空を踊っていた鳥でした。
ところが、彼は外敵に襲われ喰い殺されそうになったとき、本能的に、『誰の手も届かぬ時空へと飛びたい』と願いました。彼の中にあった宝石の原子はその声に応え、彼の翼を黄金に変えたのです。
それが、最初の宝石を持つ、”時空渡り”の異能者。わたくしは『レオ』と呼んでいます」
レオ。廣光はぼんやりとその名前を反芻した。
しかし、それと贖罪との間にどんな関係があるのか、まだ廣光は分からずにいた。
「”時空渡り”は世界線と時間軸を超えるという特殊性ゆえ、彼が顕れるのはただ一つの世界線のほんの一時のみ。同じ世界線・時間軸に二つの個体が居合わせれば、タイムパラドクスにより存在確率が揺らぎ、最終的には崩壊してしまうからです。彼は自分の可能性をたった一つに絞り込みました。その代わり、彼はあらゆる世界線に姿を見せ得ます。そして今、彼はわたくしたちのクライアントのもとに身を寄せているのです。これは天文学的な奇跡です」
「……クライアント?」
「はい。彼らは自分たちを”歴史修正議会”と名乗っています。その名の通り、間違った歴史を修正し、よりよい世界を目指そうという団体です。単に”議会”と呼びましょう」
このとき、ベアトリクスが苦虫を噛み潰したような表情を浮かべているのを、廣光は見ていた。ベアトリクスは少し間を置いて、「ねぇ、ヒロミツ」と問いかけた。
「貴方は、自分の過去の行いを正しいと言い切れますか?」
廣光が思い返した過去は、遠い異国の戦場でのこと。あれを正しいだなんて、言えるはずがない。
「オレの過去は、間違いだらけだった。敵兵を殺し尽くしたことも、戦場で妙な力を得てしまったことも、そのために生きながらえてしまったことも、すべて」
ベアトリクスは沈痛な面持ちでそれを聞いていた。「そうでしょうとも。貴方の苦悩はきっと壮絶なものです。ですが、もし、」
「もし、”時空渡り”の異能者の力で過去へ飛び、諸悪の根源を討つことができたなら?」
廣光はようやく、ベアトリクスの言わんとしているところを理解した。
つまり、『過ちを犯す前の廣光を殺せばいい』と。
歴史修正議会とやらは、廣光個人を歴史上の癌であると認定し、廣光自らその芽を摘み取れと、廣光が抱える罪の意識に訴えようとしていたのである。
「……貴女も、過去に何か、あったのか」
廣光は、問いへの答えはあいまいにしたまま、ベアトリクスに訊ね返した。
「わたくし、は…… わたくしは魔女です。この世のあらゆる痛みをその身に受け、この世を憎み、この世の敵となることを選んだ、悪魔の娘。わたくしが先の大戦に与えた影響は大きい。ドイツ中枢に入り込み、戦況を予言する魔術師として暗躍しました。あらゆる地域で戦争が起こること、戦場が拡大することを望みました。わたくしが居なければ、戦争はもっと早くに終結していたはず。そもそも、ドイツは台頭しなかったはずなのです」
ベアトリクスは小さなこぶしを白くなるほど握りしめて、吐き出すように言った。
廣光は眼を見開いていた。まさか、目の前の、風が吹いたら攫われてしまいそうな少女が、廣光も関わった大戦の元凶であるとは、にわかには信じがたかった。
「先ほどの青年、ユーリも過去の罪に囚われています。彼の場合は、貴方とは真逆ですが。罪を自覚し、そして修羅として生きることを選んだ。罪を罪とも思わぬほど狂うことを選んだ。それでも矢張り、やり直せるならばやり直したい、過去の自分を許せないという思いは捨てきれなかったのです」
僧侶たちを羽虫のように切り伏せた、そんな男に罪悪感などあるはずがないと、廣光はベアトリクスの言葉を受け入れかねた。
ベアトリクスは廣光のそんな思考を読み取ったのか、付け加えた。
「世の中には、一つ間違えればすべて間違いだと思ってしまう人がいます。ユーリもそういう思考です。罪は罪、失われた人命は取り戻せない。それは間違いないけれど、彼は一つの罪を犯したときにすべてを、人生を投げ出してしまった」
そう説明されると、廣光もなるほどという気がしてきた。廣光が罪を重ねないよう引き籠ったのに対し、ユーリは罪を重ね続け、それを「当たり前」にしようとしたのだ。わかりあえないだろうという直感は間違いではなかった。殺人鬼の思考など理解したいとも思わない。
「わたくしは、過去のわたくしを抹殺することを、議会から提案されました。ユーリも同じです。貴方にも同様の依頼がなされるでしょう。 ……説明は以上です。貴方も、一緒に来ますか?」
もし、この罪の意識から逃れられるのなら。
「無論、断る理由はない」
この罪にまみれた人生の最後に一人。
過去の自分を、殺しに行こう。