魔法使いによる四重奏

 

 ユーリ・クズネツォフは、ここしばらく不機嫌だった。主に、新しい同輩に関して。 
 仮にどんな出会い方をしたとしても、決して分かり合えないであろう奴というのは、腹立たしいことに恐らく、誰にでもいる。しかし、分かり合おうという気どころか、視線が合ったと感じたら衝動的に斬りつけたくなる相手というのは、そうそういないのではないか。ユーリにとってのそういう相手は、最近になって議会に出入りするようになった東洋の元兵士。日本軍にどうやっても死なない妙な兵士がいることは、戦中でも噂で耳にしていた。なんとなく同類のような気もしていた。そこに別の、期待かなにかが混じっていたのかもしれない。だから、初めて奴の目を見たとき、──奴の、映るものすべてを睥睨するような目を見たとき、かつてないほどに腹が立った。そしてなにより、廣光は本来持っているはずのものを持たなかった。 
 能美廣光の中には、結晶の意識がない。 
 Sn細胞の結晶には自我が宿る。理屈は分からないが、その事実はベアトリクスも、最初の一人も認めるところである。しかし、ユーリがその碧い目で見たのは、能美廣光の気配だけ。緋色の結晶が宿るはずの心臓からはなんの信号もない。 
 能美廣光は、どんな手段を用いたかはわからないが、結晶の意識を無きものとしていた。結晶の意思を排斥しながら、結晶の力を借りて戦場を駆け抜け、かと思えば数十年の間、死に体のような有様で人目に触れることなく生き永らえていた。 
 忌々しい。こちらの意思など無関係に利用できるだけ利用して、邪魔になったら「死神」と蔑み辺境の地へと追いやった、当時の軍の中枢を思い出す。当然、持てるすべての手段を用いて引き摺り下ろしてやった。それだけでは足りなかった、ユーリの味わった屈辱を、無念を、虚無感を、失望を、すべて与えてやるつもりでいた。だというのに、どいつもこいつもユーリの満足する前に実に呆気なく自死を選んだ。不完全燃焼の憎しみが、今も胸に燻ぶっている。 
 廣光のことだけではない。第一の異能者・レオを利用した歴史修正議会とやらの作戦は、悉く失敗していた。最初は、百年前のユーリを暗殺する予定だった。しかし、ユーリたちは百年前の一兵卒を見つけることもできず、時間切れで帰還した。次は、少年時代の廣光を抹殺するよう命じられた。しかしこれも、どう動いても廣光にたどり着かなかった。廣光本人の記憶に沿って待ち伏せようとしても、必ず、何らかの邪魔が入って達成できない。 
 クライアントである議会にどういうことかと問い詰められても、ユーリにも答えは視えなかった。ひょっとするとレオならばわかるのかもしれないが、獣の姿の彼は固く口を閉ざしている。根本的に自由な鳥である彼を一か所に留めておくだけでも相当な労力が必要なはずで、クライアントの不満の矛先は自然、ユーリたち実働メンバーに向けられた。今もその件でクライアントから呼び出しを食らって、ようやく解放されたばかりである。 
 施設の廊下を自室に向かうユーリの機嫌は、そういうわけで、過去最低の底辺を這いずっていた。廊下の反対側からやって来ようとした議員たちが、慌てた様子で不自然にもと来た方向へ引き返していく程度には、わかりやすく苛立っていた。 
「ご不満のようですね、友よ」 
 視線を上げると、”二番目”が微笑んでユーリの視界の真ん中に入った。頭の高いところで一つにまとめた黒髪に、今時流行らないであろう古い衣装を身にまとった、ベアトリクス・ノーチェス。ユーリの苛立ちを気にもかけず微笑んでいるさまは、さすが四世紀もの期間を生き永らえた魔女狩りの生き残りである。ベアトリクスにしてみれば、ユーリなど癇癪持ちの子どもなのかもしれない。 
「ご不満なのは作戦に失敗したからでしょうか。それとも、人間関係?」 
「なんだ、議会からカウンセラー役まで仰せつかったのか、戦争の魔女」 
 忌々しい、そう吐き捨てるが、ベアトリクスは臆した風でもなく答える。 
「友人が不満を抱えているのです、放っておくわけにはまいりません。特に貴方は、優しさのあまり不満を裡に溜め込む傾向がありますから」 
 何が優しさだ、そう言い返せないこともなかったが、今ユーリが抱えている不満を理解できる相手は世界中を探してもこの少女だけだったから、半ば八つ当たりだとわかっていても、訊ねずにはいられなかった。 
「テメエはいいのか。議会の言いなりで、”主人格を失うことになっても”」 
 ベアトリクスは一瞬、躊躇うような間を置いたが、「はい」とはっきり答えた。 
「ベアトリクス・ノーチェスは戦争の魔女。彼女が居なければ戦争は起こらなかったかもしれない。何の罪もない市民たちは死ななかったかもしれない。貴方たちも、戦争を経験せずに済んだかもしれない」 
「ほぉ、オレを引き合いに出すか」 
「そうですね。狡いかもしれません。ですが、戦争がなければ貴方も、ヒロミツも、今日まで苦しむことはなかったはず。ですから、せめて次の指令は…… ベアトリクス・ノーチェス抹殺だけは、達成せねばなりません」 
 固い決意のもとにそう言い切ったベアトリクスは、しかし次には迷っているような表情を見せた。 
「ですが、それはユーリ、貴方の誕生を否定することにもなる。わたくしは、それが、それだけが悲しい」 
 吐き出すようにそう続けるとベアトリクスは俯き、唇を引き結んだ。 
 ベアトリクスが真実、ユーリのことで悲しんでいることは、その心拍や脳波を視ればユーリにもわかる。だが、それはユーリにしてみれば矛盾をはらんでいることが明白だった。 
「命の価値は平等だってのは、テメエが言っていた気がするんだが? ベアトリクス・ノーチェスは死んでもいいがユーリ・クズネツォフは死ぬには惜しいと?」 
「ええ、ええ、だからわたくしは狡いのです。未来の子どもたちを守りたいと思いながら、魔女狩りの手から逃げようとする少女を先んじて殺そうとしている。これは大きな矛盾です。 
 ……ですが。ベアトリクスは…… いえ、”マリーア・ノーチェス”は死ななければならない。彼女はこの世のあらゆる憎悪をその身に受け、その身の裡で悪を育み、やがては災厄の魔女として再臨した。彼女の本質は復讐者です。マリーア・ノーチェスは恐怖を知らぬ少女のまま、死んでおくべきだったのです」 
 ユーリは当初、ベアトリクスが自分の側の人間だと、彼女の出自から根拠もなくそう理解していた。その理解があまりに短慮だったと、この時ようやく知った。 
 しかしながら、結論は変わらない。自分たちは人間のために消えなければならない。人間を救うために生まれたのに、である。 
(人間なんて、どいつも自分勝手だ)

  

『ねぇ、ユーリ…… 僕はもう駄目だ、脳が焼けそうだ、目を抉り出してしまいたい、もう何も見たくない……』 

 

「……安心しろよ、テメエが忌むテメエを、殺してやるから」 
 次の作戦で、幼き日の彼女を殺す。ベアトリクスに宣言し、ユーリは再び歩き始める。 
 すれ違いざま、ぼそりと付け加えた。 
「オレだって、生まれたくて生まれてきたわけじゃねぇんだ」 
 普段のベアトリクスであれば、何か小言が返ってきそうなものである。けれどこの時ばかりは、ベアトリクスは何も言わなかった。言えないだろうと、ユーリ自身確信していた。 
 自己否定を正当化する、呪いの言葉。 
 ベアトリクス・ノーチェスを殺し、そうしてユーリ・クズネツォフを殺す。 
 それで、あの気弱な青年が平穏に暮らせるのなら。 
 偽りの人格、ユーリ・クズネツォフはこの時、既に決めていたのだった。 

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