魔法使いによる四重奏

 

 所詮小娘が進める距離など知れていて、ユーリは先んじてその姉妹の背中を見つけたとき、後ろを歩くベアトリクスに言い放った。 
「見つけた。先に行く。……遠慮はしねぇぞ」 
 そんな短い言葉の羅列でもベアトリクスには十分伝わったらしい。 
「お願いします。どうかすべての元凶を、その剣で斬り伏せてください」 
 あまりにはっきりとしたベアトリクスの言葉に、廣光はなにか言うどころかぱくぱくと口を動かすことしかできなかった。その間にユーリは、タンッ、と軽い靴音を立てて飛び出す。 
 このままユーリは、あの幼き日のベアトリクス── 否、マリーアを、斬り伏せるつもりなのだろう。廣光にはそれを止めようという気は起らなかった。 
 ……だって。 
「んなっ⁉」 
 飛び出していったユーリの前に、野犬だろうか、目をぎらつかせ口の端から涎を垂らす獣が突然現れる。 
 これが、レオの言うところの歴史変容というものだろうか。歴史はマリーアを生かし、戦争の魔女たらしめることを選択した。それを変える術は、きっとない。 
 野犬の気配に気づいた姉妹は、悲鳴を上げて走り出す。 
 ユーリは邪魔者を斬って姉妹を追おうとするが、野犬の気配が一つでないことを遅れて察知し、暗闇に剣を向けた。 
 廣光にもわかる、これはこの森を棲み処とする野犬の群れ。頭数は二〇余りといったところか。咄嗟にベアトリクスを抱き上げ、姉妹を追うことだけを考える。右は今にも飛び掛かって来ようとする野犬、目の前にはユーリと、その向こうにも野犬が一頭。野犬を避けるとすれば、取るべきルートは。 
「……頭を借りるぞ、クズネツォフ!」 
「あァ⁉」 
 文句を言われる前に行動に移した。すなわち──ユーリの首後ろを飛石代わりに、野犬の標的から外れつつ前方へ飛び、そのまま駆け出す。 
 野犬の始末はユーリに任せることにした。共闘なんて思いつきもしないし、ちょっと喰われたところで死にもしないのだからまったく心配する要素がない。「ぅぐっ‼」という苦し気な声とともに関節のどこかがずれるような物騒な音が足の下で響いた気がするがそれも無視する。目下第一の目標は姉妹に追いつくこと。 
「先に行く! さっさと片付けろ!」 
「テメェ……‼ 上等だブっ殺す‼」 
 ユーリの怒声を皮切りに野犬たちが猛攻を開始した。ユーリの短剣が肉を斬る音と、野犬の断末魔が背後で響く。……あまり気持ちのいいものではなくて、廣光は逃げるように駆けた。 

 野犬に襲われた地点から離れてすぐ、急斜面の真ん中にどうにか作った細い道を走る、幼い姉妹の小さな背中が見えた。 
「待て!」 
 廣光が叫ぶと、姉妹の姉の方が振り返り、大きな目をパッと見開いた、気がした。 
 その瞬間、廣光は自分の浅はかな行為に遅れて気づく。 

 

 マリーアは、ベアトリクスと──未来の自分と、目を合わせてしまった。 

 

 本来あり得ない事態を解消するため、歴史はあり得ない自然現象を巻き起こした。 
 すなわち、姉妹のすぐそばにあった朽木に一筋、不自然に生じた雷鳴を轟かせた。 
 木は倒れ、繋いでいた姉妹の手を無慈悲に引きはがし、姉の身体が斜面を転がり落ちてゆく。妹の方も同じく投げ出されそうになったところを、廣光が伸ばした腕に引き戻された。 
 廣光の腕の中には、ベアトリクスと、アンネと呼ばれていたはずの、彼女の妹。 
 マリーアが落下していった方向に目を遣るが、暗く生い茂った木々の中に、生きた人間がいる気配はない。 
「ベアトリクス、状況を把握できるか? つまり、その…… マリーアは……」 
「……それが、わからないのです。彼女のことを認識しようとすると、強い電流が走ったように、視界が真っ白になってしまい……」 
 ああ、これもレオの言っていた歴史による妨害なのだろうか。そう納得するほかになかったから、廣光は「そうか」とだけ返した。 
 続いて、胸の中で震えているもう一人の少女に目を遣る。先ほどの落雷は少女に危害を加えることはなかったが、倒れてきた朽木の枝は少女の細い腕に深い切り傷を残していた。体勢を安定させたうえでベアトリクスを開放すると、空いた右手の親指の付け根を噛み千切った。そこから溢れる血液を、左腕の中の少女の傷口に撫でつける。 
 魔王の血は不老不死を齎す心臓から注がれたもの。この血が傷を癒すことは経験的に知っていた。実際、アンネの腕の傷は血を流すことをやめ、すでに塞がろうとしている。 
 しかし、傷口が完全に塞がるまでは晒しておくものでもあるまいと、今度はシャツの裾を千切って包帯代わりに巻いてやる。「他に痛いところは?」と尋ねると、小さな頭はふるふると問題がないことを示した。傷を包帯で隠したことで、その点については動揺から抜け出したらしい。だが、少女の胸はまた別の不安に染まった。 
「ねぇ、お姉ちゃんは……?」 
 ベアトリクスの肩が震えたのを、廣光は視界の端で見ていた。 
 そして理解した。「今回も失敗だった」と。 
 目の前にベアトリクスが顕在していることがその証拠である。マリーアはベアトリクスの記憶とは少々ずれた歴史を辿ったが、結局は全知全能の異能者として生き永らえた。だから、ベアトリクスは変わらずここにいる。 
 歴史の強固さを見せつけられた心地だった。それと同時に、ベアトリクスがここにいることに──同胞を失わずに済んだことに──そっと安堵する。 
「……無事だ」 
 廣光は少し遅れて、アンネに伝えた。 
「無事だ。それだけは確かだ。再会できるかはわからないが、生きている。だから貴女は、先に父君のご実家へ向かえ」 
 立ち上がって坂を上り、小道に横たわる倒木の向こう側に下ろしてやる。 
「貴女の行く先に幸多からんことを」 
 アンネはベアトリクスと廣光の顔を交互に見比べ、何か言いたげだったのを押し込み、小さく「ありがとう」と呟いて駆け出した。ベアトリクスの正体に気づいたのだろうか。ベアトリクスはアンネの知るマリーアよりも幾つか年上の姿だから、似ているとは思ってもまさか同一人物だとは思わないだろう。それともこれは希望的観測だろうか。

  

「はい、タイムリミットだ。お仕事お疲れ様、そして、残念だったね」 

 

 上空から響く呑気な声に、ベアトリクスとともに顔を上げた。 
 レオはひょいと着地して、ベアトリクスを認めると微笑んだ、ように見えた。「ああ、ベアトリクス。君も無事でよかった。つまりは作戦失敗ということだけど、それは君もわかっていただろ。歴史を変えようだなんて度台無理なんだ。歴史介入には当然、それを阻止しようとする反発力が働くからさ」 
 ベアトリクスは諦めたような微笑みを浮かべた。 
「ありがとう、レオ。わたくしたちの幻想を壊してくれて。そうですね、わたくしも、わたくしの罪も、消えるはずがない、消し去るにはあまりに重い。”ここにこうして存在するわたくしたち自身が、歴史を変えまいとする反発力そのもの”。だから、わたくしたちは過去の自分に、出会うことすら叶わなかった」 
 廣光はふと、ベアトリクスが最初から気づいていたのではないかと思った。遅くとも、最初の作戦、ユーリの暗殺が未遂に終わったあの時から。全知全能の彼女が、まったく気づかないという方が妙な話だと、今さらながらそう思った。 
 じゃり、と足を引き摺る音が、メンバーの一人がようやく追いついたことを知らせる。 
「つまりは、アレか。テメェらは初めから無理だとわかったうえで、オレを揶揄ってたってのか」 
 普段より一段低い、深い怒りの底から湧き出すような、──そして同時に悲壮さをも滲ませた──、ユーリの声。 
 彼に答える声はない。結局のところ、皆、初めから諦めていたのだ。それでも、砂の一掴みほどの期待を捨てきれなかったベアトリクスと、期待すら抱かずただ惰性で付き合っていた廣光の間では、その誠実さに天と地ほどの差があるけれど。 
「ゴメンよ、ユーリ。君が”ボリス”を救いたかったことは知ってた。でもね、それは無理なんだ。無理だと知って欲しかったんだ。君はすでに、この世界の、この歴史の一部として、欠けることの許されない存在だから」 
「ンなことは聞いちゃいねぇんだよ。こっちは自分も消える覚悟で、藁にも縋る思いで、テメェに託したのに、テメェは本当に、テメェだけは絶対に、死ぬまで許さねぇ……‼」 
 斬りかかろうとするユーリとレオの間に、抜刀した廣光が割って入る。金属同士が交わる硬質な音で、夜闇の冷たい空気が震えた。 
 ユーリの眼球が燐光を放っているのを、廣光は間近で見た。それは涙のようだとふと思った。 
「テメェも同じだヒロミツ! 良い子ちゃん気取って人助けして、それでも結局テメェは人殺しだろうが‼」 
「ああ。今回のことでよくわかった」 
 正確には、今回の件で確信に変わった。自分は、自分が殺した人間たちが生きたかった分だけ、その命を背負ってしまったのだと。以前なら戯言だとすぐに忘れさってしまっただろうが、今はそれこそが自分の生きる意味だと、理解できた。 
「オレは所詮人殺しだ。その罪を消そうとするのは逃げでしかない。そして今、オレ達は逃げられないことがはっきりした。ならばオレ達に残るのは終わりの見えない贖罪の道だけだ。そうだろう、レオ」 
 ユーリから目を離すわけにもいかず、レオがどんな表情だったのか廣光にはわからなかった。ただ、満足げに鼻を鳴らしたのは聞き取れた。 
「元の時代に帰してくれ、レオ。オレにはやらねばならぬことがある」 
 レオの羽がぶわりと広がり、空間を震わせた。夜闇に輝く羽が音を立ててはためいたかと思うと、その小道にはもう、人影はなかった。 

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