悪夢のような裏切りの翌日。公安にマークされていた宗教団体の祈祷施設で原因不明の火災があり全棟が消失、焼け跡から団体代表および幹部数名の遺体が見つかったと報じられたのを、廣光とベアトリクスは苦い表情で聞いていた。
それから二週間経ち、どこへ向かうか、これからどうするのか、頭の痛いことに何も考えていなかったが、まずはベアトリクスを安全な場所へ連れて行こうと判断し、廣光たちは歴史修正議会の勢力が及んでいない島国へ向かう船に乗り込んでいた。
デッキの下の方ではざぶんざぶんと白い波が止まることなく生まれ、上空には嘴の大きな鳥が観光客の持つポップコーンを狙って周回しているのが見えた。
ユーリが半ば八つ当たりで議会を壊滅させてしまったおかげで、追手が迫ってくるわけでもなく、危機は去ったと二人は判断した。そうすると、今度はベアトリクスから、そろそろ別れようと提案された。
「貴方にはやらなくてはならないことがあるのでしょう。あの小道でそう仰いました」
ああ、そうだったと、忘れていたわけではないのだがなんとなく先延ばしにしていたことを突き付けられて、ならばとりあえずはベアトリクスを安全な場所まで送ってからにしようと、二人はこれで最後になる船の旅を、あれにこれにと思いを馳せながら過ごしていた。
デッキに人影はなく、ポップコーン狙いの鳥たちもどこかへ消えてしまった。
「やらねばならぬこと、とは言ったが」
脈絡なく話し始めても、ベアトリクスはわかっていたかのように「はい」と頷く。
「……この命は奪って手に入れたもの。だから、奪われた彼らの願った生き方をするのが道理ではないかと思う。そこまでは思いつくんだが、……それがなんなのか、オレの想像力では見当もつかない」
「なるほど」ベアトリクスはやはり落ち着いた様子で頷いた。「それは難しいですね。自身への願いを自覚するのにも困難を伴うのに、加えて他者の立場でそれを考えようというのは、人類の持ちうる想像力程度で足りるのか、甚だ疑問です」
「貴女でもそう思うのか」
廣光が呆然とした様子で訊ねるのが面白く、ベアトリクスは微笑んだ。
「ええ。ですが、他者への願い……『親愛なる人へ、どう生きて欲しいと願うか』ならば、答えは見つかりやすいのではありませんか。貴女は大切な人に、どんな人生を送って欲しいと願いましたか?」
大切な人。真っ先に思い出すのは、六〇年間、寺で死後の安寧を願っていた、最後まで廣光の味方であろうとしてくれた、優しい女性。
「……母には、幸せになって欲しかった」
ベアトリクスが廣光を見つめる瞳は、どこまでも優しい。
「……きっと、わたくしたちが殺めた人々も、そう願われて生まれてきたはずですよ」
ベアトリクスの示した道を、しかし廣光は受け入れていいものか迷った。
幸せになっていいのだろうか。それは贖罪とは相容れないのではないか。
「幸せになっていいと思うか?」
「勿論です。すべての人間は幸せになる権利を持っています。たとえ罪人であっても」ベアトリクスは断言した。「幸せを知ることで、人は自らの犯した罪の重さを知るのですよ。幸せになることと贖罪の道を歩むことに、矛盾はありません」
ベアトリクスは廣光の懸念をあっさりと払ってみせた。
しかしそうすると、今度は別の疑問が湧いて出てくる。
「しかし、幸せになるにはどうすればいいのか、わからない」
「わからないことばかりですね、貴方は。いえ、それはよいことです。わからないことをわからないままにしておかない、無知を知る、それは大切な姿勢です」
廣光には難しいことを、ベアトリクスは歌うように軽やかに言ってのける。
しかし彼女は、ときどき意固地になったみたいに答えを教えてくれないことがあった。
これも、彼女に出された「宿題」のひとつ。
「貴方の場合、人助けでもしてみれば、その答えが見つかるかもしれませんね」
「……教えてはくれないのか」
「ええ。何もかも答えだけ教えられたのでは脳が退屈してしまうでしょう。考えることは大切です。それが次の思考につながります。常に考えなさい。考えることをやめてはなりません」
デッキに設置されたスピーカーから、上陸が近い、船内に戻るようにと警告が響く。
ベアトリクスは一足先に戻って行った。廣光はぼうっと立ち尽くしたまま考えていたが、船員の怒声で我に返ると、すごすごと船内に引っ込んだ。