第7話 非凡の蛇は紫煙の溜め息を吐く

 たかだか二十年の人生のうち十年以上を共に過ごした義妹は、たとえ何処へ行こうと聖にとって大切な家族であり仲間であり友人であり、そんな彼女に頼って貰えたなら多少の無茶くらい請け負う心積りはあったのだ。だというのに、箱舟に残ると言い出した桜は頑なで、すでに固めてしまっていた覚悟を、聖がひっくり返すことはできなかった。
「でもやっぱ馬鹿っていうか、融通利かねぇなって思うわけだよオレは」
『それ何度も聞いたよ、ヒジリくん』
 ホテルに籠っているのは聖の他に、画面の中のアンジュ。隣の部屋を借りた友恵はよい機会だからと桜を連れて外出していた。地球の裏側にいる箱舟本隊との合流は、SLWによる追跡が行われていないことを確認してからとなる。
 だから、そのついでに理仁の状況を把握することだって、つまりはここにいるアンジュをSLWのネットワークに送り込むことだって、聖にしてみれば大した苦でもなんでもないのである。だというのに、桜はそんな簡単なことすら頼んでこない。
「これ友恵さんには言えねぇけどよ、桜がどこへ行こうがオレには関係ねぇんだよ。箱舟を抜けようがオレらがダチだってことは変わらねぇだろ。頼んでくれりゃ脱法行為の一つや二つや三つや四つ、大した問題じゃねぇんだよ、やってやらぁ」
『んー、脱法行為を一〇や二〇や三〇や四〇単位で繰り返してるヒジリ君が言うと説得力があるねぇ』
「好きなところに行けばいいんだよ。理仁と一緒がいいならついて行きゃよかったんだ。それでもオレは電話一本で動くっつーのに。約束とか恩義とか、足りねぇ頭で小難しいことを考えるからややこしくなる」
『ヒジリくん、イライラしてるのはわかるけど煙草の吸殻を空き缶に捨てないで! っていうかここ禁煙ルームだよ!』
 知るかよ、と吐き捨てるとともに煙草の火を捻り消した。最後の一箱を開封して、一区切り着いたら買い出しに行こうとホテル直近のコンビニを脳内で検索する。
『ヒジリくんは、魔王さまとサクラちゃんのことが大好きなんだね』
 ――屈託のない笑顔で改めてそう言われると恥ずかしいが、要するにそうだ。
 みんな、自分勝手に幸せになればいいと思う。それで迷惑を被ったと思う奴がいるならそいつも勝手にどこかへ行けばいい、所詮その程度の仲だったのだろう。少なくとも聖は桜や十兵衛や理仁が幸せならそれでいいし、そのための手伝いができるなら大歓迎だ。逆に、ここまで自分たちの首を絞める選択しかできない彼らを、今は腹立たしいとすら思う。……それこそ身勝手に違いないから、決して口には出さないが。
『あれ? でもヒジリくん…… 桜ちゃんのことは怒ってるのに、魔王さまのことは怒らないの?』
「……あ?」
 何のことだと視線で問えば、アンジュは『んー、つまりね?』と言葉を選び始める。
『サクラちゃんが「魔王さまのことを知りたい」って頼んできたら助ける、って言うけど、魔王さまが「サクラちゃんと話したい」って頼んでくるかもしれないことは、考えてないの?』
「……あー……」
(……これは考えていなかった顔だ)
 インカメラのレンズ越しにアンジュは確信した。
 聖はバツが悪そうに、前髪をくしゃくしゃ掻きまわす。
「……ああ、考えてもなかった。というより考えられなかった、だな。
 理仁の奴、他人の事なら納得するまで纏わりつくくせに、テメェの事となるとかなり諦めがいいだろ。思い出してみろ。お前が傷つくのは絶対許さなかったくせに、テメェが撃たれるのも斬られるのもお構いなしだったじゃねぇか」
 アンジュも思い返す。半年前、アンジュが理仁たちと出会ったあの戦いを。
 理仁は自身が動けなくなるような傷こそ避けていたが、それはアンジュを守るためであって、自分の命を守るという意識はすっぽり抜けていたように思う。その証拠に、彼は平気でアニルに自身の肉を斬らせていたではないか。
『確かに、自分の状況には無頓着だよね、魔王さま』
「もちろん、死なねぇ身体に慣れきってんのもあるだろうが。それ以上に奴は、自分がどうありたいかを考える回路を捨ててやがる。もとからそうなのか六十年の空白がそうさせたのかは知らねぇが、少なくとも俺の知ってる十年はそうだ」
 ああ、思い出したらイライラしてきた。煙草の先がみるみる灰と化すが、端末を駆ける指は止まらない。
 桜が堪えているのに、理仁ときたらどうして動かずにいられるのか。
「もともとお人好しだけど、桜は別格だったじゃねぇか。桜が大事だったくせに今さらなんだよ、ホタルは悪い奴じゃねぇけどよ、桜を泣かせてまで助けに行く仲でもねぇだろ」
 アンジュに話しかけているわけではない、というか聞いて欲しくない、なぜならこれは聖の怒りと困惑でぐちゃぐちゃになった思考を吐き捨てているだけだから。桜の前では仕舞い込んでいたそれが、本人がいないこの場で制御できなくなりつつあった。
『ヒジリくん、』
「昔、桜が食事要らねぇって、どれも美味くねぇって唐突に意味不明なワガママ言い出したことがあってな。箱を開いてみれば単純な話、食卓に理仁がいねぇから寂しかったんだ。だから理仁は食う必要はねぇけど食事の席に着くことにした。気付くのに時間はかかったが、桜には自分が必要なんだと自分で思い至った。頭が足りねぇわけじゃねぇんだよ」
 桜にはかなり根源的な部分で理仁が必要であり、それは聖や友恵でさえ代用不可能なことは自明であるのに、まったく不愉快極まりないことに当の理仁はそれを失念していると見える。誘拐しておいてそれは無責任ではないかと、少々ズレた怒り方を始めたことにこの天才は気づかずにいた。
 そんな精神状態でも煙草は燻り続けるし、指はキーボードの上で踊っている。
『ヒジリくんってば』
「っつーのになんで桜を置いて行くかな 本ッ当に意味わかんねぇわ最悪だわ、過去最低に自分が無力だわマジ屈辱、もう一度誘拐しに来いよあンのクソ魔王」
『ヒジリくん聞いてよ煙草の火が危な……』
「熱(あづ)ッ……」
 いつもの感覚で指を添えたのは、いつもより短くなっていた煙草のちょうど真っ赤な部分で。ギリギリで形状を保っていた煙草の灰は、胡坐をかいた聖の太腿にぼとりと落下した。摂氏八百度がスラックスを焦がし皮膚に到達しそうになるのを慌てて叩き消す。
「……っぶねー……」
『だからわたし、危ないって言ってたのに』
「……言ってたか?」
『言ってたよ! 心臓止まるかと思った!』
 まったく聞いていなかった、というかアンジュがいることも忘れて本音が駄々洩れだったと気づく。こんな体たらくでは駄 目だ。やはり買い出しに行こう。
「悪ぃ、気分転換に外出るわ。お前も来るか?」
 スマートフォンに移動すればアンジュも外出(と称するのが適切かはわからないが。彼女にとっては電子端末間の移動でしかない)できるので声を掛けてみる。そのアンジュは、モニター上でこちらに背を向け、画面の奥の方を覗き込んでいた。
「アンジュ?」
『ねえ、ヒジリくん。ビンゴかも』
「あ?」
 鎮火のためあらぬキーを打ちつけたまま投げ出していた端末は、SLW内部へ続く穴ができたことを控えめに知らせていた。

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『何も持ってない人がいるの』
 武器を投げ捨てた少女は、桜色の唇を震わせた。 茂信を守る形で前に構えた友恵は、彼に素早く目を遣った。話を聴くつもりらしい、真実を見据えようとする彼の真摯な瞳を見留め、友恵も爪を仕舞う。
『何も持ってないから、何かを見つけようと必死なの。あいつはあたしを誘拐してくれた。だから今度は、あたしが助けなきゃいけない。でもあたし一人じゃ無理なの』
 今にも泣き出しそうなのを瀬戸際で堪えている、血のように紅い眼。 この魔物を抱えた少女に相応しい彩色だと、友恵は場違いにも感心したのを覚えている。
『お願いします。あたしはあなた達のためになんでもするから、あいつを守ってあげてください。あいつが一人で立てるようになるまで。あたしは、あたしのことは好きにしてくれていいから――っ!』

 だから友恵は、『魔獣使い』の少女を『魔獣』に仕立て上げた。己の持てるすべての技術と経験を、惜しみなく授けた。すべてはノアの箱舟のため。箱舟に乗り込んだ子どもたちのため。それにはもちろん、烏丸桜という少女も含まれていた。
 友恵は桜を我が子として愛していた。自分が愛されなかった分の愛情すべてを注いで育てた、その自負がある。
 一方、友恵にとって理仁は、よき友人ではあっても、聖や桜と比べるともう一歩の距離がある。これは敢えて線を引いた分の距離だ。『自分が守らなければならない』範囲を画する一線。理仁という男は、今やその線の外にある。
 ノアの箱舟にいる間は、理仁も『守らなければならない』中の一人だった。理仁ほどの異能者であれば友恵が手を貸さなければならないことは稀であったが、それでも彼の我儘に付き合ったことは、両の指では数え切れない。そのすべては、しかし突き詰めていけば桜との約束があったからだ。娘に『守って欲しい』と請われたから、守っていたし助けていた。理仁が箱舟の庇護から抜けると言うなら、もう守る理由はない。それだけの話。
 冷酷と思われようが、それが箱舟に乗った獣としての友恵の生き方だ。予め線引きをしておかなければ咄嗟の判断に迷いが生まれる。迷ったせいで色々なものを失った。もう失うつもりはないから迷うことをやめた。切り捨てる痛みより、これから失う恐怖が勝った。桜と出会い、その恐怖はより大きくなった。たとえ恨まれようと理仁を切り捨てる覚悟はとうにできている。
 だから、娘にこんな暗い瞳をさせる理仁を、今すぐ引き摺り出して責め立ててやりたいくらいには、許せなかった。
「昨晩は外に出たようね。どこか行きたいところがあったなら言ってくれればいいのに」
 ぴたり、隣を歩いていた桜の足が止まる。隠し事のできない性分が好ましかった。桜は俯き「……ごめんなさい」と蚊の鳴くような声で謝罪した。
「責めている訳ではないの。でも、貴女もSLWに顔を知られているから。……心配だからって五月蝿いわよね。許してね」
「ううん、もう行かない」
 最後にもう一度「ごめんなさい」を付け足して、桜は歩き出す。どこへ行ったかは検討がついていたから、友恵は追及しなかった。
 気分転換にと連れ出したけれど、あまり効果はなかったかもしれない。理仁の喪失は、桜にとってあまりにも深手だった。いっそ彼に付いて行くと言えば、彼女はこれほどまでに苦しまずとも済んだかもしれない。

 ――それでも。身勝手だとは思うけれど。
 桜を失わずに済んだことに、友恵は心底、安堵していた。

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 まずは表情筋へ繋がる神経を遮断した。
 咄嗟の措置にしてはうまくいったと思う。十兵衛は頼りない音の波を聞き漏らすまいと、注意深く耳を傾けながら、自身を極めて正当に評価した。
 音は、一度意識から外したら最後、二度と戻ってこないようなか細いものでありながら、その内容が大層楽しそうで、十兵衛は誰かに聞かれるのではないかと非常扉の前で肝を冷やした。
『あー、十兵衛。聞こえてるな? 聞こえてる前提で話すからそうだな、イエスならパンダのモノマネ、ノーなら七面鳥のモノマネをしてくれ』
『ヒジリくん! ジュウベエくんが不審者になっちゃうよ!』
『ジョークだよジョーク! 久しぶりの再会で感極まって泣きそうな十兵衛へのフォローアップ!』
『テンション高いよねヒジリくん! まあわたしもテンアゲなんだけど!』
 高い。テンションが高い。あまりのハイテンションに薄っすら膜を張った涙も引っ込んだ。
 クールダウンさせようにも、こちらの声が向こうに届くのかはわからないし、非常扉に向けてレンズを光らせているカメラが気になって指一つ動かせない。
『そんな十兵衛君に朗報だ。警備室に届く映像を一分前まで微動だにしなかったお前の姿のエンドレスリピートに変更してやった。喋っていいぞ』
「先に言ってくださいっ! アンジュさんまで何やってるんですかっ!」
 我慢していた怒声が無人の廊下にこだました。

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