第9話 人でなしたちの恋心

 春の初めにハイスクールへ転入して、早半年。
 季節は秋。一ヶ月後には文化祭が開催される、そんな時期。
 SLWハイスクールにも文化祭というものはある、らしい。村上によれば、エレメンタリーからハイスクールまでの計十二学年総出で開催される。もちろん安全のため警備が配置されるし、他校生は入構を制限されるし、来るとしても条件をクリアした生徒の保護者のみだという。
 しかし、基本的に授業参観や保護者面談のないSLW関連校が、年に一度だけ開かれる機会とあって、見学を希望する保護者は多い。入構者を管理可能な数に抑えつつ、できるだけ多く受け入れるため、催事の期間は土日を挟む一週間と長く設定されている。そしてその間、生徒たちは交代で展示や出店、コンペティションなどに参加する。あまりお遊びの色の強くない、真面目な出し物ばかりで、「正直な話、面白くない」とは山本の言である。
 とはいえ、ただ見ているだけではそれこそ面白くない。高校生にもなれば、教員に眉を潜められない程度を見極めて、ギリギリ許容範囲の「面白いこと」をしようとするもので、今日の放課後はその「面白いこと」をクラスで決めようという話になっていた。
 それは彼女も承知していたはずなのだが。

「佐倉くん、やっぱり戻っていいよ。会議、参加したいでしょ?」
 隣を歩く美鈴が躊躇いがちにそう提案するのに対し、亨は笑って首を振った。
「正直、雰囲気わかんないし。今年は大人しく様子見するつもりだから」
「そう。 ……ごめんね。ほたる、ここのところ勝手な行動ばっかりで。そろそろ本当に怒ってやらないと」
「エデンはもう怒ってるけど」
 怒髪天を突かんばかりのエデンは、ほたるが消えたことに気づくや否や「もういい!」と言い残しクラス会議にも構うことなく寮の自室へ戻ってしまった。あれはしばらく出てこないだろう。
「エデンの方は放っておいていいの?」
「怒ってるけど、またほたると喧嘩になるのは嫌だし、どう伝えればいいのか考えてるんだと思う。だから、出てくるまでひとりにさせておいた方がいいんじゃない、かな」
 口元に指を当てて、小首を傾げながら美鈴は答えた。「エデンはまだ爆発しない程度には冷静だからいいんだけど。ほたるの四条さんに向ける熱の方が気になる。あんなほたるは見たことない。エレメンタリーの頃、彼と内緒で会っていた時だって、あんなにあからさまじゃなかった」
 それから、美鈴はなにかを言いかけてはやめるのを数回繰り返したのちに、決心がついたように問うた。
「私には経験がないし、わからないんだけど…… ほたるが抱いているのは、恋心、なのかな?」
 恋心。
 なんとなく言いたいことは察していたものの、友人の口から飛び出したその単語は、亨を妙に浮ついた心地にさせた。
「うーん、好きか嫌いかで言ったら間違いなく好きなんだろうけど……」
 なにせ、連日の取り調べに対しても黙秘を貫き、最後には「忘れる」決意をしてまで守りたかった相手である。ほたるが四条理仁に並々ならぬ思いを抱いているのは間違いない。
『まあ違和感はあるけどね。そんなに好きなら普通は忘れたくないと思うんだけど』
(まあそこは…… 小野さんだし?)
『いや、トオルだってわかってるでしょ? ホタルも普通に普通の女の子だよ。ちょっと強くて、ちょっとしっかりしてて、確かにちょっと変わってるけど、それも含めて基本的に普通の子じゃん』
(……うん、まあ)
『ミスズの前だからってボクにまで取り繕う必要ないでしょ。ホタルのあれはコイゴコロじゃない』
 それはもうばっさりと。マモルは美鈴の問いかけに否定で返した。
 亨もほたると四条理仁の事件について聞かされたときから、薄々感じていた。ほたるがどれだけ純粋に彼を慕っていたとしても、自分を見捨てて逃亡した男を、それでもなお、守ろうと思えるのか。
 自分を置いて走り去る背中など、むしろ、忘れてしまいたいと思ったのではないか。
「……小野さんにしかわかんないことだろうけど、この状況じゃ、素直に応援できないな」
 脳内会議で挙げられたさまざまな理由は伏せて、亨はそれだけ答えた。美鈴の方も、「そうだよね」と頷く。
「本当はね。私はほたるを置いていった四条さんに、二度とほたるを振り回して欲しくない。ほたるがなんて言っても、四条さんがほたるの思いを踏みにじるのなら、私、彼を一生、絶対に許さないと思う」
「……」
 亨には、美鈴に答える言葉を、結局見つけられなかった。「その通りだ」だなんて軽々しく言えるほど、亨は美鈴と同じ熱量の怒りを抱いているわけではない。言うなれば一般論として、もっと道徳的な部分で「好ましくない」と感じている程度だった。エデンだけではない、美鈴もまた戸惑い、それ以上に怒っていたのだ。
 強い思いを打ち明けた形のよい唇は、今は引き結ばれている。それきり二人は黙り込んだまま、友人が訪れているであろう、日本支部のエントランスまで歩き続けた。

  *****

 IDカードをかざしゲートを潜る。そのまま正面エレベーターでまっすぐ十二階へ。
 どの部屋に理仁とほたるがいるかまでは亨も美鈴も知らなかったが、恐らく近くに待機しているはずの少年ならば知っているだろう。
 探し人の少年は案外あっさり見つかった。
 というか、高速で移動するなにかの羽音に『超聴力』が反応したおかげで、とりあえず美鈴だけは「それ」との衝突から庇うことができた。
「わあっ!?」
「うぉっ!?」
「きゃっ?」
 三人分の若い声が廊下の真ん中で激突した。
 思わず美鈴に抱きつく形で(もちろん変な意図はないし下心なんて抱く余裕もない)、つまり「それ」に背を向ける形で受け止めることになったのだが、たぶん、間違いだった。首筋が痛い。あと美鈴が廊下に頭を打ちつけないよう抱え込んだ手もじんじんと痺れに似た痛みがある。
(マモル、どっか怪我してる……?)
『首と背中を打ちつけちゃったね。手は折れてないから安心して。すぐに治すよ』
 マモルが言うのだから治るのだろうが、痛いものは痛い。彼に外科医師のような診断は求められないので自分がどんな状態なのかあやふやなのも少々不安だ。結晶が無理してでも治すのだろうから恐怖というほどのものはないが。
「ごめんなさい! お怪我……はありますよね! 本当にごめんなさい!」
 亨たちに駆け寄る変声期前の幼い声は今にも泣きそうだったので、思わず「あ、俺こういうの強いから」と笑ったところで。
「佐倉くん,大丈夫……?」
 思っていたより至近距離に美鈴の心配そうな顔があって、彼女を下敷きにしていたことに気づき、飛び上がる勢いで身を起こす。
「ごめん!!」
「いいよ、ありがとう」
 美鈴の方はあっさりしたもので、ひとりで立ち上がってスカートの埃を払うなどしている。亨の方はといえば美鈴に触れていた手が熱い。主に痛みとは別の原因で。
「怪我してない?」
「俺は平気、こういうのすぐ治るから。えっと、高辻……くん? 大丈夫?」
 気まずくなって少年――十兵衛へ視線を向ける。彼の方は「オレもわりと丈夫なんで」と、こちらはまったくダメージがないようだったので安堵した。
「えっと、俺たちのこと覚えてる? 四条さんを迎えに行ったとき会ったよね?」
「はい、覚えてます。ご挨拶がまだでしたよね、高辻十兵衛といいます。十兵衛、でいいですよ」
 堂々とした自己紹介は、少年を年齢より少しだけ大人に見せていた。
「ども。佐倉亨です」
「鏑木美鈴です。ほたるを探しに来たんですが、四条さんのお部屋を教えてくれませんか?」
「鏑木……」
 いくらなんでも直球過ぎる。この施設内で唯一、理仁側に立つ少年が、許可の下りていない面会が連日行われているなどという事実を認めるわけがない。
 そのはずだったが。
「……!」
 ほたるの名前を出した、ほんの一瞬だけ十兵衛の瞳に恐れのような、しかし安堵にも似たものが過ぎったのを、亨は見た。
「小野さん、来てるの? 四条さんのところに?」
「……はい、見えてます。でも、本当は魔王様は誰とも会ってはいけないから、黙っているように言われてて……」
『あれ?』
「……」
 ほたるが面会の許可を得ていないことも、理仁が隔離措置を取られているのも、当然ながら亨たちも知っている。密会が露見して、責を問われるのは彼女だけではないだろう。しかし、十兵衛は密会の事実を認めたのである。
『うーん、リヒトさんって人望ないのかな? それとも、この子がハチャメチャに素直なだけ?』
(この子もたぶん、今のままでいいとは思えないんだよ)
 膝を折って、目線を十兵衛と揃える。落ち着いた深緑の大きな瞳で、十兵衛は亨を見定めようとしていた。その視線を真正面から受け止める。
「俺たち、小野さんの友達なんだ。今の状況はたぶん、小野さんにとって良くない。四条さんにとってもそうだと思う。小野さんの居場所に案内してくれれば、とりあえず今日のところは連れて帰るから」
 十兵衛は逡巡したあと、小さく「こっちです」と歩き始める。亨がその隣について、美鈴は半歩後ろを進んだ。
「魔王様は、前はあんなに他人と話したがる人じゃありませんでした。どっちかというと、一人でどっかにふらっと出て行っちゃう人で。まあ、アネキが呼べば帰ってくるので、あんまり困らないんですけど」
「お姉さん?」
「実の姉さんじゃありません。ノアの箱舟で一緒だった女の子です。魔王様と一番長い付き合いで。ほら、港に行ったとき、ヘリから垂直降下したあの子です」
 そんな女の子は一人しかいなかったので思い出さざるを得ない。
 桜、と呼ばれた美しく中性的な子。
 亨自身はあまり話さなかったが、それでもあの美貌は記憶に鮮烈に焼き付いている。
 十兵衛は、またもなにかを言いかけて口籠もってから、
「……アネキは、魔王様のことが好きだったんだと思うんです。たぶん、魔王様も、自覚がないだけで。だから、規則とか決まりとかは正直、オレにとってはどうでもいいんですけど、あの子がここに来るのを見てると、なんというか…… 魔王様を、許せなくなって」
「十兵衛くんも、桜さんが好きだったの?」
 背後から美鈴の思わぬ射撃が飛んできて、亨は思わず彼女を振り返った。
「鏑木……!」
「え、私、変なこと言ったかな……?」
 こてり、小首を傾げる様は愛らしく、まったく他意はなかったことが伺える。逆に他意なく質問できる方が亨にとっては恐ろしいのだが。
「変なことは言ってないですよ。オレはアネキが好きです。片思いですけど」
 十兵衛も十兵衛で、それはもう清々しいほどあっさりと認めてしまうので、亨は、今度は彼と向き合うことになった。
 十兵衛はわずかに頬を赤らめて、少しだけ寂しげな微笑みを浮かべた。
「はい。魔王様がいる以上、オレの片思いが報われることはないんですけど、それでもオレはアネキが好きです。だから、アネキを裏切るようなことをこれ以上魔王様にして欲しくないです。でも、寂しがっている魔王様に、なんてお伝えすればいいのか、わからなくて……」
「そんなの勝手よ。ほたるの気持ち、なんにもわかってない」
 それまで黙っていた美鈴が、語り口こそ普段と変わらないが、憤りを抑えきれないとばかりに十兵衛の言葉を遮る。
「そんなの、ほたるがまるで慰み物扱いだわ。そんなに寂しいのなら、桜さんを連れてくればよかったのよ。四条さんはほたるをなんだと思っているの? ほたるは桜さんの代わりじゃない」
『ミスズ、キレたね……』
(むしろよく耐えてたと思う)
 他に想う 相手がいるにも関わらず女の子を連れ込む精神は、隔離されている現状を斟酌しても、確かに不快感をもたらすものだった。付き添いでしかない十兵衛に当たっていいことでもないが、美鈴の怒りももっともだと、亨は思う。
 十兵衛自身、自分の言い分の不合理に気づいていたのだろう。項垂れ、「その通りです」と美鈴の批判を受け入れる。
「ほたるさんにも、思ってくれる友達がいるんだってこと、考えが至りませんでした。ごめんなさい」
「いや、十兵衛君が謝ることじゃないよ、立場とかあるんだし。俺も小野さんを迎えに来るのが遅かったみたいだ、ごめんね」
 別に誰かを責めたかったわけではなく、ただほたるを取り戻したかっただけの亨としては、十兵衛が責任を感じて落ち込む必要はないと思う。
『そうそう、仕方ないって言っちゃアレだけどホタルは他人だもん。都合良いように考えちゃうのはニンゲンのサガだよね』
(お前の宿主も人間なんだが)
 自戒を促しているのか何なのかよくわからないが、たぶん人間っぽくないことを言いたかっただけなので深くは突っ込まない。
「ほたるさんが来てくださるようになってから」亨とマモルの脳内会議などつゆ知らず、十兵衛はゆっくりと、自らに確認するかのように話し始めた「魔王様の…… 依存、っていうのかな。ほたるさんへの執着が強くなった気がするんです。もともとそんなに人が好きな性格じゃない、むしろ、人を避けるような方でした。それでも寂しいのかもしれないって、初めは同情もしてたんです。でも、いつの間にか、なんか違う気がしてきて……」
「違うっていうのは?」
 亨が促すと、十兵衛は首をひねりながら、「なんて言うのかな…… まるで、人が変わったみたい、とでも言うのかな。人間臭くなった、というか……?」と、少年自身なにを伝えたいのか掴み切れないらしく、最後の方はもごもごと自信なさげに答えた。
「あ…… あの角を曲がった通路の、真ん中の部屋です」
 十兵衛が顔を上げて前方を指差す。
 エレベータから少し離れたこのブロックは、他の支部から客人があった際に控え室として使われたらしい、不都合はあるが一応生活に必要なものは揃えられた部屋が並んでいる。十兵衛が指差した廊下の角には監視カメラがレンズを光らせており、部屋を挟んで反対側の角にも同じようなカメラを見とめることができた。客室という性質上、部屋を出入りする様子をあからさまに撮影することはないが、誰がどの客室へ向かったかは監視できるようになっている。
「え、この前を通り過ぎるって無理じゃない?」
「そこは、まあ、天下の魔王陛下なので。数秒だけカメラに干渉して出入りを誤魔化すくらいのことはできるみたいなんです」
「……どうやって?」
「魔王様の能力のひとつに、ネットの世界に介入する、というものがあるんですけど」
 頭の中で相棒に囁く。
(どういう理屈?)
『すっごく興味深いよね。学習できるかは別にして』
 学習なんてできる気がしないし、そんな規格外を普通の客室に放置しておいてよいのだろうか。
『よくはないでしょ。スドウさん、心労で倒れそうだったじゃん』
(須藤隊長の思うようにやればいいのに。隊長と本部はほぼ同じ方針なんだから……)
 ならばなにが問題かといえば、日本支部の長たる神崎の意向である。
 神崎がSLW内部でも指折りの「異能者嫌い」であることは、数ヶ月前、ほたると美鈴がこっそり教えてくれた。
『捜査隊は異能者がメインだからそれほどでもないけど、研究室の出身者だと嫌いな人が多いみたい。異能犯罪への義憤から研究職に就いた人がほとんどだから。長谷川さんみたいに好意的な人は、むしろ稀なの』とは、美鈴の言葉。
 神崎はまさに、異能犯罪を撲滅するため、本部研究室から極東の島国における捜査権を握るべく派遣された男であった。
『とはいえ、それにも例外があって』ほたるが補足した。『義憤から研究室に入室するのは、主に若い世代です。研究室の初期のメンバーは、異能そのものに純粋な科学的興味を持っていた人たちなので、SLW創設者であるサリヴァン博士を含め、異能者に好意的なんです。長谷川さんはサリヴァン博士のお弟子さんなので、その影響と考えれば好意的であっても不思議ではありません。逆に、なぜ兄弟子の神崎支部長はあれほど嫌悪感を示すのか……』
 ほたるも美鈴も、最後は顔を見合わせて首を傾げていた。ちなみにエデンもその場にいたのだが寝た振りをしていた。彼女は神崎と知り合いらしいから、なにか心当たりがあるのかもしれない。
 とはいえ、入隊式で亨に向けられた、あの汚らわしいものを見るかのような目を思い出せば、神崎にも事情があるのだろうが、亨が汲み取る義理はないように思えた。そういうわけで、この話はその後発展することもなく、高校生の日常の話題として消費されたのだが。
 しかし、直属の部下であり、理仁を預かることになった須藤はそうもいかない。支部で「収容施設に監禁しろ」と命じられた数時間後に、本部から「客人としてある程度の自由を認めるべきだ」と通達があったのだ。須藤本人の意見が本部のそれに近いことも災いした。神崎は面子を潰されたと、不快感を隠しもせず須藤にぶつけた。まだ若いといってよい隊長は、神崎の機嫌を伺いつつ本部の意向を汲みながら特殊任務にあたらねばならず、亨が見ても明らかに神経をすり減らし、ストレスで眠れない日が続いている。それでもへらりと笑って「大丈夫」と言い張るものだから、一隊員には口出しもできない。
 普段であれば「他人の体調に口出しするのは相手の管理能力を見下す無礼に当たる」などと持論を展開する美雪ですら、隼人と「どうすれば隊長に眠ってもらえるか」を議論し始めたのだから、事態は深刻である。さらにその議論が「事故に見せかけて薬を盛る」だとか「部屋を軽い酸欠にして失神させる」だとかに帰着し、問題は解決どころか混迷へと直進している。
 ……脱線したが、要するに神崎の「参考人として徹底した管理下に」という指示と、本部からの「客人としてある程度な自由を認めよ」という要請との折衷案として、須藤から理仁に与えられたのがこのフロアの控え室だった。
「佐倉くん、ちょっとだけ相談」
 進もうとした制服の裾を掴み、亨を止めたのはもちろん美鈴。
「私たちがカメラに映ったら、ほたるを迎えに来たことがバレないかと思って……」
「あ」
 考えていなかった。
 美鈴もカメラを見て初めて考えが及んだらしい。形のよい眉を困ったように寄せて、「どうしよう」と呟いた。
「それは大丈夫です」
 今度はもちろん、反対側にいた十兵衛。
「お二人とも、オレの後ろに回ってください」
 顔を見合わせ、意図もわからないまま亨と美鈴は指示に従う。十兵衛は申し訳なさそうに首を竦めて、
「結構力業なので、ビックリしないでくださいね?」
 静かな廊下に響くノック音。
 ほたるを送り出す合図だ。
「行きますよ」
 その言葉とともに、亨たちの視界は漆黒で包まれた。

「ほたる、もういい。下がれ」
 なにか気に障ることを言ってしまっただろうかと恐怖にも似た緊張が走る。しかし、理仁はすでに、ほたるになど興味がない様子でなにもない虚空を眺めていた。
「……失礼します、陛下」
 後ろ手にノックを四回。廊下にいるはずの十兵衛を呼ぶ合図。
 ――いつまで続けるんだろう。
 いつまで続ければ、わたしを見てくれるんだろう。
 ひとつだけ希望があるとすれば、ここにはわたししか来ないこと。ここで彼の心に寄り添うことが叶うのは、わたし一人だけ。
 その頼りない自信だけで彼のもとに通った。
 それなのに。
「……美鈴、トオルさん……」
「ほたる!」
「鏑木、声抑えて……!」
 見たことがないくらい眉を釣り上げてこちらを睨む親友と、その隣で狼狽る新しい友達。
「なんで、ここに……」
「誰だ」
 音もなく背後に立った理仁から、ほたるは慌てて距離を取る。
 美鈴は、いつもよりとても硬質な、氷みたいに冷たい声で言い放った。
「ほたる、もういい加減にして。支部長の耳に入ったら隊長だって迷惑どころの話じゃないし、お姉ちゃんにも責任が及ぶの。なにより、エデン、もう泣きそうよ。心配してるの、なんでわからないの? なんでその人を取るの? その人、ほたるを見捨てて九年も逃げたんじゃない!」
 違う、逃げてなんかない!
 そう言いたかったのに、うまく声が出ない。理仁がなにか言い返してくれればいいのに、彼は面白くもなさそうに成り行きを眺めている。
「……話はあとで、落ち着いてからにしよう? 鏑木」
 亨が肩を叩くと、美鈴の大きな目から涙が零れ落ちた。それを見とめた亨は助けを求めるような視線をこちらに向ける。
 わからない。なんで泣くの?
 わたしはもう少しで幸せになれるのに!
 どうしてここに来たの!?
「十兵衛、彼らは?」
 理仁の低い声は騎士の少年へ向けられた。
「ほたるさんのお迎えです。そこでお会いしたので、お連れしました」
 悪びれなく答える十兵衛が憎らしい。
「魔王様、どう考えても危険です。これ以上ほたるさんと会うのはやめてください。ほたるさんはアネキの代わりにはなれません。代わりにするだなんて許されません」
 騎士が紡いだ『アネキ』の言葉に、理仁の纏う空気が揺らいだ。
 もうやめて。
「ねぇ、ちょっと待って…… 人の足音がする」
 亨が焦って十兵衛に伝える。彼はいつも通り、その黒い羽でわたしたちを包もうとした。わたしは誰にも見られてはいけないから。
 ここに来ることは、

『誰にも知られないように』

 その約束を、この二人は横から破った。
「なんでこんなことしたの……!?」
 怒りが指先まで奔って、美鈴の制服を掴んだ。
「なんで、わたし、やっと見つけたのに……!」
「ちょっと小野さん、やめろ!」
 美鈴からわたしを引き離す、亨だって同罪だ。どうしてやっと巡り合えた、運命のこの人を奪おうとするのだろう。
 美鈴は、十兵衛の羽の中へわたしを抱え込んだ亨ごと押し出した。
「美鈴さん!?」
「一緒には帰れない、ほたるのこと叩いちゃいそうだから。先に行ってて」
 黒い羽が閉じられる。躊躇うような浮遊感は一瞬で、直後に強い加速度が身体の表面を襲う。愛する魔王の気配は急速に遠のいていった。

「……美鈴?」
 目的の部屋の前に佇んでいた、妹の名を呼ぶ。なぜ彼女がここにいるのか、問い詰めることはできなかった。
 妹は、泣いていた。
 唇を噛み締めて、堪えようとしても溢れてくる涙は、ぽたりぽたりと廊下を濡らす。
「美鈴ちゃん、どうした……?」
 隣を歩いていた隼人が駆け寄る。
 美鈴はドアをきっと睨みつけて、言い放った。
「この、ひとでなし!」
 呆気にとられた美雪たちを残して、美鈴は走り去った。

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