第12話 すべては愛するあなたのために

 

「……行っちゃったね」
『まあ長居は無用だもんね』
 十兵衛は亨たちを非常口まで送り届けた後、置いてきてしまった理仁を気にしてか、挨拶もそこそこに飛び去った。
 それを見送った亨と、俯いたままのほたるが残る非常階段。沈黙の妖精ですらあまりの気まずさに引っ込んだ。
「……軽蔑しますか」
「は?」
 さて、この階段を降りるのは一苦労だろうなぁと、眼下に広がる街並みを苦し紛れに眺めていた亨は、風にかき消されそうな声をたまたま拾って振り向いた。ほたるは顔を上げずに続ける。
「陛下に気に入られようとみんなを振り回す、わたしを軽蔑しますか」
「いや、軽蔑というか……」
 亨個人はそこまで強い言葉を使うつもりはなくて、ただ、今まで見たことのないほたるが心配で、彼女に振り回される美鈴とエデンが気になるだけだった。
「みんな心配してるだけで、軽蔑とかそういうんじゃないよ」
「軽蔑して放っておいてくれた方がましです」
「……は?」
 訝しむ亨と、ほたるの視線が、やっと交差する。
 ほたるは、すみれ色の目を尖らせていた。
「心配するだけで守ってくれないなら、自分勝手なのはそちらじゃないですか。わたし、ずっと待ってたのに。いつだってわたしは守る側で、いつだってわたしばかり戦って、みんなが守ってくれたことなんて一度もなかった……!」
「ちょっと小野さん、いくらなんでも怒るよ」
 彼女にとって「守る」というのは、自分たちの密会を隠し続ける、その助力をすることなのだろうか。だとしたら自分勝手なのはそちらだと言い返したくもなる。
 それに。あの日、あの誰も味方がいない山の中で、血を使い過ぎて倒れる寸前まで戦った美鈴を、震える脚を𠮟咤して走り続けたエデンの姿を忘れたのか。あのとき、皆がほたるを助けようとした。確かに窮地を救ったのは理仁だったが、だからといって二人の親友たちが戦った事実を無意味だったと切り捨てる、そんなほたるを許したくなかった。

「陛下はわたしを守ってくれた!」

 亨が声を荒げるより、ほたるの悲痛な叫びが響く方が早かった。
「お母さんも、エデンも、みんな『助けて』と言うばかりだったの! 陛下だけなの、わたしを守ってくれるのは! 『悪魔の子』なんか守ってくれるのは『魔王陛下』だけなの……っ!」
 ほたるは口をはくはくと、叱られて言葉に詰まった子どもみたいに開いては閉じて、結局続く言葉を編み出せなかったのか泣き出した。
 他方の亨も、怒りは腹の底に相変わらず燻っていたが、なにを返せばいいのかわからなかった。悪魔の子。それは恐らくほたる自身を指しているのだろうが、何故そんな表現が飛び出すのか、亨には皆目見当もつかない。
(悪魔の子……? 守る……?)
『サクラさんも、守ってくれる、とか話してた気がする。たぶん』
(あ、九年前の事件で……?)
 そうだ。あの日、あの場所にいた桜と話すことができれば。
 亨にはわからない事情も、彼女なら知っているかもしれない。
 知らなくては前に進めない、ならば彼女に会ってみようと、亨は今さらながら思いついた。
「ごめん、小野さん。俺、行くとこがあるから!」
 ほたるを残して階段を駆け下りた。

「……やっぱり、亨くんも」
 唇を引き結び、また涙が溢れそうになるのを堪えながら。
 すみれ色の瞳は隠しきれない憎しみに染まり、友人の背中を映していた。

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 そうか、会いに行けばいいのか。
 研究室から戻り、水道水で喉を潤したあと、理仁は思いついた。
 会いたいのなら、会いに行けばいい。
 簡単なことだ。なぜ考えが至らなかったのか、わからないほどに自然なことだ。
 魔王陛下に、結晶型異能者にSn細胞抑制剤は効かなかった。自分が指を振るえば、魔法はいとも容易く紡がれる。
 しかし、少し考えてみれば、自分の周りは敵だらけだった。これではすぐには会いに行けない。
 自分の騎士も、感づき始めている。魔王の変質に危機感を抱いたからこそ、本来なら敵であるはずの異能者たちに助けを求めた。これでは騎士として不適格だ。厳正に処分せねばなるまい。
 あの、友人を取り戻しにきた少年たちも危険だ。特に連れの、黒髪の少女。あれはいけない。
『ほたるを、何だと思ってるんですか』
 そう問われ、あまり考えもせずに答えた。
『別に、なんとも』
 その瞬間、彼女の目に迸った怒りの激しさを、理仁は恐れこそしなかったが、危険だと思った。

「いいえ、真に恐ろしいのは、少年の方です」

 思考を遮る声は、部屋で待っていたほたるのもの。少女のすみれ色は、部屋の暗さとは別の理由で翳っていた。
「美鈴ひとりなら、ここまで来ることもなかったはずなんです。彼が変えてしまったんです。わたしの美鈴だったのに」
「ほう?」理仁は微笑う。「お前のモノか。ならばオレに捧げるか?」
「勿論、貴方のお役に立てるなら、彼女にとっても光栄です」
「いいだろう」
 魔法はすでに編んでいる。あとは『施行』するのみ。
 範囲はこの国の全土。
 対象はこの国の名もなき人民。
「明日、佐倉亨はこの世界から消える」
 その宣明を、ほたるだけがうっそりとした表情で聞いていた。

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 気分が悪い。
 なんだろう、これは。
「お姉ちゃん」
「どうしたの、桜。眠れない?」
 ベッドの上、シーツを手繰り寄せて丸くなる娘に、友恵はそっと寄り添う。
「……なにかあった?」
「なにもない。でもね、なんか…… 『害悪』が、近づいてくるの」
 友恵はそっと睫毛を伏せた。
 この娘の宿命、あらゆる害悪を感知する異能は、あの屋敷において彼女が自身を守る唯一の方策だった。それが、彼女を一層苦しめることになるというのは、なんとも皮肉な話だと思う。
「それは、誰から向けられる悪意?」
「わかんない…… 今まで受けたことのない悪意、気持ち悪い、お姉ちゃん……」
 その細い肩をしっかりと抱き寄せ、友恵は囁く。
「大丈夫。この部屋にいれば、私が守ってあげられる。安心してお休みなさい。明日は出立なのだから」
「……うん」
 ぎゅう、と友恵の着物の裾を握り、目を閉じる娘。
 眠ろうとする彼女に友恵がしてやれるのは、ほんの小さな子守唄を、歌い続けることだけ。
 箱舟の歌姫、友恵はその夜、愛する娘の安らぎのためだけに歌い続けた。

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