第13話 かくして喪失は齎された

 ほたると別れたあと、寮の部屋に戻った亨は夕食もそこそこに部屋にこもり、千里眼を開いた。
 対象はもちろん桜。その意識を追いかけようとするが、距離が離れているためか、なにかに阻まれているのか、意識を辿ることができない。
「……ていうか、そもそも俺のは千里も見通せないんだよ、せいぜい三〇〇里だよ……」
『じゃあ気分転換にクイズ! 三〇〇里って何キロでしょう?』
 マモルなりの気遣いだろうが、正直頭を使いたくない。亨は少々面倒に思いながら目を閉じて答える。
「えっと、古文で習ったけど…… 一里が五〇〇メートルくらいだから、一万五千メートル…… あれ、ゼロが少ない……? 十五キロくらい?」
『いや、もっと遠くまで視えるでしょ?』
「ていうか風音さんって、ホントすごいんだな…… こんな異能使ってたら絶対疲れるじゃん……」
 最後に山奥で自分に銃を向けた、少し年上の女の子を思い出す。
 元気でいるだろうか。また悪いことをして、怪我などしていなければいいのだが。
 彼女とはまたどこかで出会う気がしていた。国際的な巨大犯罪組織の幹部という千里眼・高遠風音の立場からすれば、見習いとはいえ警察組織の人間である亨に会うなど考えられないはずで、向こうに会う気がないのなら行方不明の彼女に出会うことなどほぼ有り得ないわけだが、それでも亨には、自分と風音の進む道がどこかで重なり合って、再びめぐり合う確信めいたものを捨てきれない。
 虹彩の中にいくつもきらめく、結晶の欠片がちりばめられた瞳を忘れられないのだ。
 
 試行を繰り返すこと数回、だんだん目が霞むようになって、最終的にベッドに倒れ込んで眠ってしまった。

 千里眼は一般的な感知系能力の数倍、体力を使う。
 他人と意識を共有することで精神的な疲れも重なっていた。
 などと、言い訳を並べ挙げても聞いてくれる相手はいない。
 ひとり目覚めたときには、ホームルームの一〇分前。
 スマートフォンの液晶画面を慌てることも忘れて、他人事みたいに眺めること数秒。
「……遅刻かな?」
『諦めないの! ほら、支度して行くよ!』
 制服のブレザーを引っ掴み、鞄の中身の確認もそこそこに寮を飛び出す。
 ちょうど、寮父が玄関の掃除を始めるころだった。
「おはようございます!」一応の礼儀として挨拶だけ言い置いて返事も待たず走る。
 寮生全員を送り出したと思っていた寮父は、少年の背中を訝しげに見送った。

「遅れてすみませんでした!」
 ドアを開け放つのと同時に叫ぶ。四十数名の視線が亨に注がれた。
「……あ、先生まだか」
『セーフ!』
 時刻は完全にアウトだが、それを咎める者はいない。
 その代わり、

「……えっと、教室違いません?」

 村上がおずおずと発言した。
「……は?」
 なにを言っているのか、なぜ敬語なのか、聞きたいことはいくつもあったが、口には出せなかった。
 全員が。村上も、山本も、クラスの皆が怪訝な目をして亨を見ていた。
 示し合わせたジョークでないのは、空気でわかる。そんなものにエデンや美鈴が乗るわけもないし、その二人すら警戒心を隠そうともせず、ほたるになにかを囁いていた。
 その、ほたるはといえば。
 ひとり、亨から目を逸らしていた。
 
『全部、亨くんが悪いの』
 
「小野さん」
 いつだって、助けてくれた。
 教室で、中庭で、図書室で。
 深い森の中で、深夜のビルの合間で。
 いつだって亨を助けてくれた彼女は、今まで見たこともないほど暗いすみれ色を、己の罪に怯えるように揺らしながら、言い切った。
「……ここは、あなたの教室ではありません」

『亨くんのせいなの、亨くんさえいなければ』
『十兵衛さんは変な気を起こさなかった』
『美鈴だってあんな無礼を働かなかった』
『わたしもずっと陛下のお傍にいられる』
『すべて、みんなが幸せな通りになるの』
『あなたさえいなければ』
『だから』

「出て行ってください」
 
 誰も味方はいない。
 亨が昨日までともに授業を受けていたことを覚えている人間は、一人しかいない。
 その一人は、亨を切り捨てる道を選んだ。
「そっか」
 佐倉亨は、この一晩のうちに、この教室にいるすべての友人たちの記憶から消えたのだ。
 そんなことはあり得ないはずで、つまり、あり得ないことを起こす何者かが仕組んだこと。
 ほたるの記憶の中で微笑む、緋色の魔王。
「わかった」
 踵を返して走り出す。
 教室からざわめきが聞こえた。

 状況を打開できる見込みなんてない。
 それでも、彼を問い詰めないわけにはいかない。
『なにがわかったっていうのさ! ホタルを問い詰めなきゃ!』
「たぶんなにを言っても口を割らないと思う。それより理仁さんだ」
『待ってよ、理仁さんのせいなら支部だってきっと同じ状況だよ!』
「わかってるけど! 他にどこに行けっていうんだよ!」
『だからホタルのとこに戻ろうって言ってるでしょ!』
「根本的に理仁さんのせいなんだから手っ取り早いのは支部!」
『じゃあもういい! 行くよ、走って!』
「走ってる!」
 脳内の声に怒鳴り返すのを、すれ違った担任がやはり不審げに見て、けれどまさか自分の生徒だとは思っていない少年を、引き止めることはなかった。

 胸にあるのは愛する人に捨てられる恐怖と、愛する人を奪われる怒り、そして、ほんの少しの罪悪感。そんな小さな罪の意識は振り払った。
 激しく身を焦がす、これは恋だと、思う。
 九年前も、小野ほたるは四条理仁が好きだった。緋を纏った月色の瞳。あの優しい眼差しを自分一人のものにしたい。そのためならなんだってできると思えた。
 悪魔の子と呼ばれたほたるを、魔王陛下は九年間、守り続けていた。そして、自身の旅に終止符を打ち、ほたるのために出頭した。どれほどの覚悟が必要だったことだろう。それを乗り越えて彼は来てくれたのだ。
 九年間、記憶の底で眠っていた、身を焦がすような思いがほたるを突き動かす。彼を失ってはいけない。失うわけにはいかない。自らの身を削っても、他の何を切り捨てても、彼を繋ぎ止めておかなくてはならない。そうでなければ、小野ほたるはこの唯一の愛を永遠に失うこととなる。
 だから。
 この愛を守るためならば、わたしは喜んで、魔王陛下の悪魔になろう。

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