第1話 さりげなく

 まずは、偵察。
(さりげなく……)
 亨はカフェオレのカップを受け取ると、通りに面したカウンター席に移動し、ひとつ深く息を吸い込んだ。
 支部のビルは、大きなウインドウの向こうに視認できる距離。
 あの上層階に理仁がいるはずで、ここからであれば千里眼も届く。
(さりげなく、さりげなく、さりげなく……)
 視界に広がる、暗い部屋。
 真っ先に感じたのは、身体中を塩酸が駆け巡っているかのような痛み。
『なにこれ?』マモルの意識が恐怖で震える。
(わかんない)亨の方はわりと冷静に、意識の深層へ踏み込んでいく。
『美鈴ひとりなら、ここまで来ることもなかったはずなんです。彼が変えてしまったんです。わたしの美鈴だったのに』
 ほたるの声。その静かな声にすら、がんがんと、脳が揺さぶられる。
 意識をぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような、熱さを伴う痛みの中で。
『十兵衛が反逆を試みたのは』
『美鈴が意を強くしたきっかけは』
『理仁からほたるを引き離そうとするのは』
『己の周りは、自分の意に添わぬ邪魔者ばかり』
『すべてが綻び始めた、その発端となったのは?』
『発端になった亨を消せば、すべて元に戻る?』(本当に?)
『ほたるはここを離れなくて済む?』(ほたるは仲間のもとへ帰るべきだ)
『美鈴は己の非礼を詫びる?』(彼女に非礼などない、礼を失したのはオレの方で)
『十兵衛は従順になる?』(十兵衛、早く逃げて、桜に知らせて、何かがおかしい……)
 理仁の意識がおかしい。
 自分自身と、苦しんでいる理仁と、他の何者かの意識の間で、亨が揺れ動く。
 まるで「自分のものではない意識に、必死で抗っている」ような。
 まるで「自分を飲み込もうとする意識から、仲間を守ろうとしている」ような。
(――なに、これ……?)
「君」
 脚の高い椅子から転げ落ちそうになりながら振り返る。
 聞き慣れた声は、冷たい水のせせらぎみらいに、耳に心地いい。
「その制服、ハイスクールね? 今日、学校は?」
 シックなワンピースを着た恩田美雪は、目の前の高校生がまさか自分の班のメンバーだとは思ってもいないようで、高校を抜け出した生徒を咎めるような目で見つめている。
 ああ、やっぱり覚えてないんだなと、亨は小さく落胆した。美雪であればもしかしたらと、どこかで願っていたのかもしれない。
 それはそれとして、どうやり過ごすべきか。
「まあまあ、高校生だってサボりたい日もあるだろ」
 今度はトレーナー姿の隼人が、美雪の後ろから距離を縮めてくる。
 いつも通りなのに、他人に向けるような笑顔が、見ていて苦しい。
「ま、でも、それで単位落としたらカッコ悪いからな。ほどほどにして学校戻れよ?」
「は…… はい、すみません」
 亨はもう二人とは目を合わせず、カップもそのままに客をかき分け店を飛び出した。

   ***

 隼人は少年が残したカップを返却台へ返し、美雪が待つカウンター席に戻る。
 美雪はスケジュール帳を開き、首をかしげていた。
「どうした?」
「ええ。今日、私はハイスクールに行くことになっていたのだけど」
 バーチカルのスケジュール帳には、十五時の目盛りに合わせて『異能実技』と書き込まれている。
「でも私、受け持ちの生徒なんていないわ」
「なんだそれ?」
 彼女らしからぬ冗談かと、隼人は笑い飛ばそうとしたが、美雪は険しい表情を崩さない。美雪が記憶をたどろうとしているのを、そっと見守ることにした。こういう時は茶々を入れてはいけないと、隼人は長い付き合いの中で心得ていた。
「……ダメ。思い出せない。なんでこんなこと書いたの、私」
 しばらく待って、しかし記憶のどこにもいないという受け持ちの生徒に、隼人は小さな嫉妬を覚える。
「……ってことは、十五時からヒマ? 俺も時間休取る予定なんだけど遊び行かねぇ?」
 かなり勇気を振り絞ったお誘いだったのだが、美雪はそんな提案をすげなく却下する。
「私には暇なんて無いわよ。時間があるなら資料室に行く」
「美鶴くんのこと?」
「ええ」
 ああ、彼女は今もあの叔母の家での惨劇にとらわれているのだなと、隼人は寂しく思う。自分には埋められない巨大な穴の淵に立ち尽くしている、そんな心地だった。
「……暇なら手伝いなさいよ」
 美雪の言葉に、はっと我に返る。ちょっとした期待を込めて、「え、ついて行っていいの?」と訊ねてみたら、冷たい視線を返された。
「私じゃなくて、隊長を。小野準二等を止めなくちゃ、支部長も次は見過ごさないわ」
「やっぱ『そっち』か…… いや、でもホント」隼人もため息を吐く。「ホタル、どうしちまったんだろうな? 美鈴ちゃんを泣かせてまで四条に会おうだなんて」
「そうよ、それよ!」美雪が僅かに、本当に気心の知れた間柄でなくては気づかないくらい僅かに、声を荒げた。
「四条理仁も小野準二等も、次はただじゃ置かないわ」
「うん。今日は俺が見張っとくから、美雪は資料室に籠っててくれ」
 理仁とほたるの身の危険を察知し、隼人は席を立つ。
「行こうぜ。出勤には少し早いけど、隊長が気になるしな」
「そうね」
 美雪は頷くと、手帳を「ぱたん」と閉じた。

   ***

 美雪と隼人が出勤する前に、確認しておきたいことがあった。
 亨は支部のエントランスを素知らぬ顔で通り抜ける。
 電子リーダに掲げたのは、ジュニア隊員就任の際に与えられたIDカード。
「ピッ」
 ばくばくと心臓が音を立てる。
 一秒もしない間に、機械音が「通行可」の判断を示した。
(機械の記録は残ってるんだ……)
『電子記録は残っているけど、みんなの記憶からは消えちゃったの? そっちの方が難易度高くない?』
(よくわからないけど、ちょっと救いはあるかな)
 これならおそらく、貯金口座や携帯電話も無事だ。
 このまま理仁のもとへ駆けあがるか、それとも――
「立ち止まって、どうした?」
 聞き慣れた声に思わず声を上げた。
「……っ! 須藤隊長……!」
「ああ、ええっと…… ごめん、どこのジュニアだっけ?」
 亨がどんな失敗をしても苦笑して後始末に手を尽くしてくれた上官が、今は「ほかの隊のジュニア隊員」に対するように笑っている。
「えっと、……十一部隊です。すみません、忘れ物思い出して」
 適当に言い訳をでっちあげて、逃げるように脇を通り抜ける。マモルには『理仁を問い詰める』と宣言したものの、よくよく考えてみれば自分には対抗手段がない。
『だから言ったじゃん、まずはホタルだって』
(いや、まずはノアの箱舟のみなさんだ)
『え?』
 亨はエントランスを走り抜けて、駅へと走った。

   ***

「ごめん、君」
 須藤はエントランスまで引き返し、受付カウンターの事務員に声をかける。
「今、一番ゲートを通過しようとしたジュニア隊員の通行証を調べてほしいんだけど。あの子、どこの部隊かわかるかな」
「あ、はい…… しばらくお待ちください」
 事務員は手早くマウスを動かし、問い合わせに応じる。
「えっと、IDが01から始まっていますね。あれ? 第一部隊、佐倉亨隊員……ですけど……」
 目の前の第一部隊隊長とパソコン画面とを見比べて、事務員が混乱するのを須藤は「ああ、すまん」という一言で救った。「そう、顔と名前が一致しなくてさ。思い出したよ、手間取らせてすまない」
 そう言い残してカウンターから離れる。
 警戒すべきだろうか。上層階にいる重要参考人の存在を勘案すれば、情報は共有しておいた方がいいかもしれない。
 佐倉亨。
 ひだまりのような目をした、不思議な異能力を持つ少年。
 ……君は知らなかったらしいけれど。
「十一部隊は、ジュニアを抱えてないんだ」

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