第9話 勉強

 

 退院した亨には、気づいたことがあった。

 あやのが不自然に、護がいなくなったことについて触れないのである。

 どこかに仕舞われてしまった護の茶碗やコップ。

 亨の目の届かないところに移動されたアルバム。

 閉めっぱなしの仏壇の扉。

 亨は、このまま護が忘れ去られて行くような気がして怖かった。

 そのうち、怪我は完全に治って、幼稚園に通えるようになった。

 護と一緒に毎日乗り込んでいた幼稚園バスに、亨一人で乗った。

 先生も護がいないことに触れなかった。

 幼稚園では、ほとんど一人で過ごした。

 いつも護とばかり遊んでいたから、亨の友達は数少なかったし、大人たちが亨に気を遣っているのを察したのか、その数少ない友達も滅多なことでは亨に声をかけて来なかった。

 それでも構わなかった。

 ただ、護がいなくなってしまったことだけが寂しかった。

 護という名前を聞かなくなってしばらくした頃、自分に声をかけてくる子が現れた。

 その子は普通の子とは違って、姿が見えなかった。

 しかし、そんなことは亨にとって些末なことだった。

 ちょっかいをかけてくるその子とおしゃべりをして過ごした。

 あるとき、亨は気になっていたことを訊ねた。

「ねえ、君の名前はなんていうの?」

 

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『トオル!』

「わっ⁉」

 急に脳内に響いた声に、亨は飛び起きた。

 頭の中で不満を隠しもせずに答える。

『何だよ、ずっと無視してたくせに急に話しかけてきて。もう用事は終わったのかよ』

『無視してた? ごめんね。集中してたから気づかなかった』

『何だよそれ。この緊急事態に何に集中してたって?』

『勉強!』

 頭の中の声は元気よく答える。亨は怒る気が失せた。

 この状況で何を勉強していたのか。下手をすれば二度と学校には戻れないだろうし、そうなれば勉強する必要もなくなるのだろうし、そもそも今やらなければならないことでもないだろうし。

『違うよ、トオルが思っているような、数学とか国語とかの勉強じゃない! トオルがここから逃げるために、ずっと考えてたんだ!』

 頭の中の声は、慌てて亨の誤解に訂正を加える。

 亨の頭の中にクエスチョンマークがいくつも浮かんだ。

『どういうこと? 逃げるってどうやって? ていうかお前、この状況で何かできるわけ?』

『うん。ずっと何もできないと思ってたんだけど、どうやらボクにも力があったみたい。だから、この力はトオルのために使うよ』

 亨は半信半疑でその声を聞いていた。今まで学校の授業の復習を手伝うくらいのことしかできなかったこの声が、亨がここから逃げるために手助けするというのか。にわかには信じ難かった。

『まあ、とりあえず聞こう。どうやって?』

『トオル、ボクが作ったこの力を使って逃げるんだ。そのための作戦はこれから考えよう』

『力を作った? 作戦を立てる?』

 亨が聞き返すと、幼い声は『うん!』と元気よく応えた。

 声は秘密を打ち明けるように声を潜め(亨にしか聞こえないのだから声を潜める必要はないだろうと思うが、おそらく雰囲気作りだろう)、どこか楽しそうに言った。

『あいつらをびっくりさせてやろうよ。トオル、ボクたちの能力はね……』

 

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 チャイムを鳴らすと、顔を隠した白衣の男が、亨が監禁されている部屋に現れた。

「ちょっと、能力のことで思い当たることがあるんです。№3に二人だけで会わせてください」

 亨が努めて真剣な表情を作ってそう告げれば、何か期待したらしい男は「わかりました」と頷き、一旦部屋を出て行った。

 すぐに、満面の笑みを浮かべた№3が現れる。

「亨クン、能力のことで話があるそうだね? 伺おうか?」

「その前に、一つお聞きしたいことがあります。あの子から聞きました、俺が四歳のときに遭った事故で手術を担当した医師、あなたの部下だったそうですね?」

「……ああ、 千里眼(クレアヴォイアンス)が言ったのか。その通りだ、彼奴(あいつ)は私が育てた」

「ひょっとして、護を担当したのも?」

「そう、私が育てた別の医師だ。二人とも日本で異能者を探すために私が送り込んだ」

 それがどうしたと、№3は首を傾げる。

 亨の考えていた仮説が現実味を帯びてくる。

「あの子から話を聞いて、ずっと不思議だったんです。どうして俺だけ助かったのか。一卵性の双子って、遺伝子組成が同じなんですよね? ってことは、Sn細胞も同じように働くってことなんじゃないんですか?」

「いい勘をしているね、その通りだ。一卵性双生児の場合、Sn細胞も同じような性質を示すことが証明されている」

「じゃあ、どうして結晶化に成功して俺だけ助かって、護は結晶化に失敗したんですか?」

 亨は風音から話を聞いて以降、ずっとそのことを考えていた。

 亨の方が多少身体が小さかったが、亨と護は外見も性質もよく似ていた。

 ハイスクールで習った程度の知識しかない亨だったが、Sn細胞が結晶化に成功する可能性も、ほぼ同じだったのではないかと、亨は推察していた。

 №3は頷く。

「君が考えている通り、一卵性双生児が同程度の生命の危機に瀕した場合、結晶化が成功する可能性は理論的には同程度だ」

「じゃあ、俺だけ結晶化に成功したのは……」

 亨の仮説はこうだ。

 ー護と亨は実験台にされたのではないかー

 №3は微笑んで答える。

「亨クンだけ助かったのは、おそらく私が開発した秘薬の効果ではないかと考えている」

「……ってことは、護には……」

「護クンは統制群…… つまり、比較対象だ。秘薬を投与せずに経過を見守った。残念な結果に終わったがね」

 亨の頭が沸騰しそうになるのを、頭の中の声が「落ち着いて、トオル」と冷静に制した。

 彼らは、亨に意味の分からない薬物を投与しただけではなかった。護には助かる可能性すら与えずに、見殺しにしたのだ。

 №3は自慢げに話を続ける。

「君はなかなか頭がいいらしいね。……実験段階の薬物の効果を調べるには、簡略化して言うと、同じような状態の個体を複数用意して二群に分けて、一方にその薬物を投与し、他方には何も与えないようにして、結果の違いを計測するという方法を用いるんだ。護クンは統制群、亨クンは実験群に振り分けた。まあ、確かに件数が少ないから、これだけで秘薬の効果だと言い切れる訳ではないんだがね。なにせ結晶化は未知の現象だ。しかし君たちは貴重なデータを我々に与えてくれたよ。天国の護クンも、異能者研究の更なる進歩に貢献できたことを喜んでいるだろう……」

「もういい…… 黙れ」

 亨が唸るように言うと、さらに続けようとしていた№3は話の腰を折られたことに不満そうな表情を浮かべた。

 亨の心臓が急速に冷えて行くのを感じた。

(この外道どもが……)

『聞きたかった話は聞き出せた。もういい、作戦決行だ』

『オッケー、トオル』

 亨は腰掛けていたベッドから飛び出し、急に動き出した亨を捉えきれないでいる№3を床に押し倒す。幸いなことに亨と上背は同じくらいだったので、無防備な№3を相手にするのは難しくなかった。

「何を……⁉」

「ちょっと寝てろ、クソババア」

 亨は№3の口元に手を当てて、意識を集中させる。

 部屋に甘い香りが漂い始め、№3のきつい目元からとろんと力が抜け、やがて瞼が閉じられた。

 亨は№3から白衣と眼鏡と靴を剥ぎ取り、その身体をシーツに包んでベッドの上に放っておく。

『さて、ここからが勝負だな』

『気をつけて、トオル』

 亨は目を閉じて、意識を集中させる。

 気に食わないが、№3の容姿を嫌々頭に思い浮かべた。

 

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「№3、お話は終わったのですか?」

 部屋を出ると、顔を隠した男が二人、入口の両横に立っていた。右側に立っていた男が声をかける。

 №3は「ああ」と頷いて、軽く伸びをする。

「大した話は聞けなかったよ。それより、少し外の空気を吸いたいのだが」

「……珍しいですね。ご案内いたしましょうか?」

「ああ、頼む。まだこの施設には不慣れでな」

 №3が頷くと、二人の男は一瞬顔を見合わせて、一人が№3を導くように歩き出し、もう一人が№3の後ろにつく。

 真っ白な廊下を右に、左に曲がりながら、階段を何度も昇った。

 五分ほど歩いて、正面に白い扉が、その横に小さな液晶パネルがある、小さな空間に出た。

「こちらに手を触れてください」

 先を歩いていた男が、液晶パネルを指して、№3を見定めるような目をして言った。

 №3は顔色ひとつ変えず、そのパネルに右手を伸ばす。

 一秒ほど間があって、白い扉からロックが解除される音が響く。

 二人の男は驚いたように顔を見合わせた。

 №3が振り返って微笑む。

「……どうした、案内してくれるのではなかったのか?」

「いえ、……失礼しました。ご様子がいつもと違うようでしたので、佐倉亨に何かされたのではないかと…… ご存知の通り、その認証パネルは心拍数などの異常も感知しますので、利用させていただきました。試すような真似をして申し訳ありません……」

「私がそのようなヘマをするものか。行くぞ」

 男が白い扉を開くと、扉の向こうは少し埃っぽい、コンクリート打ちっ放しの、普通の家の倉庫だった。№3はそこに足を踏み入れる。

「こちらです」

 男たちが階上への階段を昇り始める。№3がそれに続いた。

「おお……」

 階段を上った先は、邸宅の裏側と思われる小さな空き地で、日光が木々の間から№3の髪を照らしつけたが、それほど暑くは感じなかった。

「軽井沢はさすがに涼しいですね。これから避暑に訪れる人間が増えるでしょう」

「なるほど、軽井沢……」

 №3は小さく頷いて周囲を見回す。……左手に、この空き地から下って行けそうな小道があるのを見つけた。

 男たちはしばらく背筋を伸ばして深呼吸などしていたが、外の空気を所望していた上司本人が何も言わないことに気づいて「№3?」と振り返る。

 二人の男は、もう一度顔を見合わせた。

 そこには誰もいなかった。

 

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『軽井沢って…… えーっと、長野県?』

『そうだね、長野県の東。さて、逃げ出せたけどこれからが問題だよ』

 亨は度のきつい眼鏡を放り捨て、目立つ白衣も脱ぎ捨てて、裸足で走るわけにも行かないので靴だけは拝借したまま、アスファルトの道路を駆け下りていた。正直なところ亨の足に女性用の靴はきつかったが、№3がヒールのない靴を愛用していたことだけは救いだった。靴擦れはするだろうが歩けないことはない。

『思ってたよりうまくいったけど、千里眼? あの女の子に見つかるのはやばいよな。施設にはいないみたいだったけど』

『あの子の能力も勉強(・・)したから、こっちも簡単には捕まらないよ。どこかで電話を借りて、スドーさんに連絡しよう』

『あー、こんなとき公衆電話が残っていればって思うよな…… ああ、でも小銭持ってないから意味ないか』

『無い物ねだりしても仕方がないよ。軽井沢ならホテルとか公共施設は多いだろうから、事情を話せば電話を貸してくれるところくらいすぐ見つかるよ。それより、今はとにかく早く施設から離れなきゃ』

 頑張って、と頭の中の声が亨を励ます。  亨は大きく頷き、走るスピードを速めた。

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