第4話 ナンパ男

 佐倉亨の朝は早い。生活リズムが極端に整っている白髪の少女に合わせること五ヶ月。季節が移ろい布団から抜け出すのが苦でなくなったのもあるかもしれない、今日もいつもと同じ、五時少し過ぎに目が覚めた。ベッドから天井を見上げつつ、ずいぶん長く彼女と同じ時間を過ごしていたことにふと気づいた。

 昨晩、念のためベッド脇に備えておいたスマートフォンのアラームが鳴り響く前に切っておく。朝の掃除も始まっていない寮の洗面所は男子寮らしく散らかっているが、あまり気にすることなく顔を洗い歯を磨く。鏡に映る自分の頰はどちらかといえばふっくらしていて、まだヒゲが生えてくる兆しもないことに少しだけがっかりした。気分を切り替えて部屋に戻り、昨晩もぐっすり眠らせてくれたベッドを十点中八、九点くらいの丁寧さで整え、板についた制服に着替えると、午前六時二十分に部屋を後にする。

 女子寮の門扉の前には、すでに二つの影があった。見慣れた白髪の少女と、最近知り合った黒髪の帰国子女。

「おはようございます、佐倉さん」

「おはようございます……」

 凛としたほたるに対して、隣の美鈴はすらりとした長身を縮こませて会釈をした。

(姉妹揃って美人だけど、中身は似ないんだなぁ)

 常に堂々と振舞う彼女の姉を思い浮かべつつ、亨も軽く手を上げて応える。

「おはようございまーす。小野さん、鏑木さん」

 名前を呼んだら美鈴と一瞬目が合った、気がした。すぐになにもない方向に顔を背けられてしまったが。

 美雪には『仲良くしてあげて』と言われたが、なかなか困難を極めそうである。その原因は、まだ姿を現さない遅刻魔にあるような気が薄々していた。

「そろそろ約束の時間ですが、エデンはまた髪の手入れに時間をかけているのでしょうか」

 ほたるが口を開く。亨も腕時計に目をやると、時刻は午前六時二十八分を回ったところだった。約束した待ち合わせ時刻まであと二分。

「あ……、私、呼んでくるから…… ほたるは佐倉さんと先に行ってて」

「いいのよ、美鈴。先に三人で先に行きましょう。甘やかすのはよくないわ」

 ほたるが厳しいことは知っていたが、まさか友人に対してはさらに厳しくなるとは。六時半ちょうどになんとか到着していた春先の自分は随分甘やかされていたのだと、亨は今になって知った。

「小野さん、まだ二分あるんだから待っとこうよ。帰国したばかりで時差ぼけとかあるのかもしれないし」

「……まあ、そうですね。美鈴、悪いけれどやっぱり様子を見に行ってもらえるかしら? わたしと佐倉さんはここで待っているから」

 美鈴はこくり頷いて、女子寮の門を押し開けて友人を呼びに行った。

 ほたるが彼女たちに対してはわりと気さくにものを頼むことにも、亨は驚いていた。教室では率先して、出席確認だとか掃除係だとか、敬遠されがちな役割を引き受けるのだが。ただのいい子ちゃんでないことに、少しだけ安心したのはここだけの秘密である。

「どうですか、佐倉さん。彼女たちとはあまり気が合いませんか?」

 考え事をしていたら、凛とした声で問いかけられる。すみれ色の瞳がどこか心配そうに(と言っても、四月の自分が見たら気づかないくらいのわずかな変化である)こちらを見つめていた。

 さて、なんと答えようかと少し考え。

「いや、鏑木さんは気弱っぽいけどいい子だよね。なんかきっかけがあったら話せると思うんだけど。……でも、マクレガーさんにはちょっと近づきがたいかも」

 素直に答えた。ほたるは個人的な意見で怒り出すような少女ではないと知っていたので。

「やはりエデンが突っぱねているのは問題ですね。昔から人見知りなんです。そのわりに気が強いのであんな態度を取ってしまって」

 亨の思っていた通り、ほたるは気分を害した風でもなく淡々と応じる。

 昔、というワードが気になって、亨は逆に問い返してみる。

「エレメンタリーからの付き合いなんだっけ?」

「美鈴とわたしは一年生から、エデンは三年生からです。美鈴とは出席番号が近いのでなんとなく話し始めました。エデンは転入生でしたが、お世話係を任された縁で、よく一緒に行動するようになりました」

 気弱な女の子が席の近いクラスメートと話すようになるのも、人見知りの転入生が親切なお世話係に懐くのも、自然な流れだろうと亨は妙に納得した。ほたるは来る者拒まぬ性分らしいから、余計に懐かれたのだろう。その流れで女子特有のグループ形成がなされたのかもしれない。

 そこまで考えて、一つの疑問に突き当たる。

「小野さんは二人と一緒に留学しようとか、思わなかったの?」

 三人組のうち二人が国外に行ってしまうのだから、残される一人はさぞ寂しかったのではないか、と。

 しかし、ほたるはあっさり首を横に振った。

「留学にはあまり魅力を感じませんでした。金銭的にも余裕はありませんでしたし、奨学金の枠も二名分しかありませんでしたから」

 実にほたるらしい答えだ。マイペース過ぎる彼女は周りに流されることなく物事を判断できる。ほたるのこういうところは、亨も好ましく思っていた。

「それに、四月から佐倉さんとお話できるようになりましたし、特に寂しかったわけでもありません」

「え、ホント?」

 付け加えるように紡がれた言葉に、思わずほたるの顔をまじまじと見つめてしまった。その表情は相変わらず変化に乏しいが、どこか笑っているようにも見える。

「転入生のお世話係というのはエレメンタリーからの伝統ですが、正直なところ、あまり気分が乗りませんでした。転入生は積極的に周りとお話するのがいいと思っていましたから。心細いでしょうが、誰か一人に頼ることを知ってしまうと、その一人にべったりになってしまう可能性があります」

 今日のほたるは珍しいくらいにあけすけに話す。気分が乗らなかっただとか、亨は初めて聞いたが、別に嫌な気分にもならなかった。

「ですから、お世話係は転入生に付きっきりになるけれど、同時に他のクラスメートとの架け橋にもならなければなりません。わたしはどちらかというと友人が少ないですし、人と人との間を取り持つには役不足だと自覚しています」

「そこまで考えるって、小野さんは真面目だよね」

「ですが、佐倉さんがお昼休みに、山本さんや村上さんと食堂に行ってしまうようになって、わたしは少し寂しく思いました」

 今日のほたるには驚かされてばかりである。目を丸くする亨を前に、ほたるはやはり淡々と続けた。

「そうして気づきました。お世話係のわたしの方が佐倉さんにべったりになっていたんだ、と。長い間、閉鎖的な学校で生活していたので、気さくに接してくれる佐倉さんは珍しかったんです。そもそも、美鈴やエデン以外のクラスメートと、個人的なお話をすること自体ありませんでしたから」

 SLW関連校が閉鎖的な学校であることは亨も察していた。しかし、何年間も三人のグループの中で人間関係を完結していたほたるたちは、そんな閉鎖的な学校においてもかなり特殊な存在だったのではないかと思う。現に、エレメンタリー時代から変わらないクラスメートたちからしても、ほたるは謎の多い存在だったのだから。白髪と珍しい色の瞳の件しかり、ジュニア隊員としての活躍しかり。

「新しく友人ができたと、わたしの方が嬉しく思っていたんだと思います。ですから、美鈴とエデンのいない学校生活は想像もつきませんでしたが、決して寂しいだけの一学期ではありませんでした。ありがとうございます」

「俺も小野さんがいてくれて、かなり心強かったよ」

 本心からそう言ったが、心のどこかに罪悪感のようなものがチクチク刺さっていた。

 まだ「友人」と呼ぶには少しだけ遠いようで、「知り合い」と呼ぶのはなんだかよそよそしい、微妙な関係。

 それが、亨の中でのほたるとの関係だった。まさかほたるの方から友人だと言ってもらえるとは思わなくて、友人だと思ってくれていたとは知らなくて。罪悪感の正体はつまり、認識の隔たりで、心を許してくれていた相手に勝手に距離を感じていたことは申し訳ないけれど、針で刺されたような痛みと同時に、嬉しさも湧き上がってくる。

「じゃあさ、今度の休みでどっか遊びに行かない? 鏑木さんとマクレガーさんと、山本たちも誘ってさ。俺も鏑木さんたちと話してみたいし。みんなも、小野さんのこと、もっと知りたいって思ってるよ」

 舞い上がっていたのかもしれない、亨はあまり深く考えることなく、結構大胆な提案をした。

 ほたるの方はというと、こちらもどこか浮ついていたのかもしれない、ほんの少しだけ上気した頰で(例によって表情は薄いが亨の目にはそう映った)、こくりと頷いた。

「では、わたしは美鈴とエデンを誘ってみます」

「決まり! じゃあ週末の特別講義は休講?」

「それは別のお話です。移動時間を有効に使いましょう」

「さすがは小野さん、超ストイック」

 先に亨が吹き出して、ほたるもつられて、くすくすと口元に手を当てて笑い出す。

 ここで、六時半集合のはずが約三分遅刻し、美鈴に引っ張られながらようやくエデンが顔を出す。

 エデンは悪びれることなく、むしろ笑いが引っ込まなかった亨を睨みつけて、なにも言わずほたるの手を取り先をずんずんと歩いていく。亨は美鈴と置いてけぼりにされた形になるが、今日はなんだか気分がいいのでちっとも不愉快に思わなかった。

「鏑木さん、俺らも行こっか」

「あ……、はい……」

 美鈴の背丈は亨と同じくらいのはずだが、小動物みたいに身を縮こませているせいで目線は少しだけ低い気がする。二人並んでほたるとエデンの後ろを歩みながら、せっかくの機会なので話しかけてみる。

「今度の休み、空いてる?」

「え……、えと……」

「小野さんとさっき話したんだけどさ、どっか遊びに行けないかな、って。できれば鏑木さんたちも一緒に。どう?」

 美鈴は目を白黒させて、ほたるの背中と亨の顔を交互に見る。

 可能性ゼロかと思ったが、美鈴は少し間を置いてかちりと亨と目を合わせた。

「あの、ぜひご一緒させてください。ご迷惑でなければ……」

「迷惑なわけないよ、こっちが誘ってるんだし。オッケーしてもらえてよかった」

 話が一区切りついたところで、前方を行くエデンの鋭い声が響く。

「美鈴! 遅い!」

「あ、うん……」

 今度はエデンと亨の顔をおろおろと見比べていた美鈴に、亨は「置いてかれちゃうらしいよ?」と冗談っぽく笑って、先を行くよう促す。美鈴はひとつ会釈してから小走りで友人たちを追いかける。美鈴の定位置は、ほたるを挟んでエデンの反対側、一番右。エデンが左側で、真ん中はほたると決まっているらしい。

 亨としても、ほたるに感づかれることなく周囲に注意を払うことができる最後尾は、須藤からの ”密命” を果たすのにちょうどよかった。ほたるといつもの世間話ができないのは、やはりどこか寂しかったけれど。

『ホタルとミスズは攻略できたけど、エデンを陥落させるのは厳しいかもね』

(人をナンパ男みたいにゆーな)

『まあよかったじゃん。ホタルに友達認定されてさ。嬉しいんでしょ?』

(そりゃあな。でもちょっとさ、変じゃない?)

『だよね。小三から高校まで三人組で完結してる関係、だってさ』

 頭の中で相棒と頷き合う。

 割り込む隙間がないほどぴったりと寄り添う前方の三人の背中が、亨を含めた他のすべての介入を拒んでいるように見えた。

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