安倍泰明の場合
ある夜、青年が道路の端を歩いていました。
青年は考え込んでいました。どうすれば幸せになれるのか。
今日はアルバイトのあと、新しい原稿を持ち込んできましたが、担当に散々、つまらない、ありきたりだ、驚きがない、そんな指摘をされたのでした。
青年が小説家を志したのは、覚えていないくらい昔のことです。たくさんの苦難がありました。両親には反対されましたし、なかなか芽の出ない毎日が続いていました。ようやく掴んだ賞で担当がつきましたが、賞を受けた作品にも数えきれない数の付箋に厳しいコメントを書き込まれて返されました。
青年の伝えたかったことは、ほとんどが付箋に覆い隠されてしまっていました。
まるで自分をまるごと否定されたような気持ちでした。
青年はスマートフォンを取り出します。ここに青年の仲間たちがいるからです。
医学部三回生の医者の卵に、お兄ちゃんっ子の新社会人、キャラがころころ変わる中学生と、幸せそうな新婚のママ一年生。
彼女たちは、液晶画面の向こうからでも、青年を応援してくれているとわかります。
『担当と会ってきました、またダメ出しの嵐です』
それから少しだけ迷いましたが、結局最後に、
『(笑)』
本当は泣きたいくらいでしたが、心配をかけまいと括弧書きで付け足しました。
すぐに、医者の卵の彼女から『お疲れさま』とリプライがありました。続いて中学生の少女からも。新婚の彼女は、夕飯の支度をしている体でしょうか、返事が少し遅くなります。社会人の彼女はまだ職場にいることになっていますから、青年の方がねぎらう立場になるのでしょう。
彼女たちにはバレています。
青年がもうずっとうまくいっていないことが。
騙された振りをしてくれている、それが彼女たちの優しさでした。
そんな優しさが、けれど嬉しいのです。
彼女たちも、自分たちのことを少しだけ偽っています。
医者の卵の彼女は、休学中です。
新社会人の彼女は、もうずっと兄と会えていません。
中学生の少女は、沢山の性格と同居しています。
幸せそうな新妻は、永遠の新婚生活を続けているのです。
でも、フィクションでもいいのです。彼女たちの優しさは本物なのですから。
青年は本心から、優しい彼女たちを応援したいと思っています。彼女たちの幸せを願っています。
どうすれば、彼女たちを幸せにできるのだろう。
青年にできることといえば、物語を書くことだけです。
青年はどれほど指摘を受けても、自分の物語に自信を持っていました。
けれど、自分の物語に、彼女たちを救うまでの力はないということも理解していました。
悔しいことに、それが現実なのです。
――ふと、青年は歩みを止めました。
『フィクションでもいいんじゃない?
彼女たちと幸せになる物語を書けばいいじゃないか』
誰かが囁きました。青年の目にスマートフォンの明かりが映って、きらきらと輝きました。
けれど問題がひとつあります。
青年の命はせいぜい数十年しか残っていません。青年が死んでしまったその後はどうすればいいのでしょう。
ずっと ずぅっと 幸せが続く物語を 書きたい
幸せな物語を
終わらせないために
できること
スマートフォンはスリープしました。
青年は思考を続けました。
月すら、青年を見捨てた、暗い暗い夜でした。