第9話 ウィルス

 

 高遠風音は、空港から一歩足を踏み出し、くぐもった空気に顔をしかめた。
 それを見ていた義父・李紅元は小さく苦笑する。
「空気に慣れませんか?」
「……、はい」
 つい昨日まで、別件でスイスに滞在していたのである。大気汚染が著しいと言われているインドの空気に、すぐに順応できるはずもなかった。
「ディーゼル車が多いですからね。仕方がありません。しかし、情報通信技術の進歩に関しては目覚しいものがあります。今回も良い商品を提供してくれると良いのですが」
 李はそっと囁いた。その目は優しげに細められているが、奥底になにが潜んでいるのか誰にもわからない。否、本当は一人だけ――風音にだけは、彼の本心を知る能力がある。しかし、彼女がそれを使おうなどとは思いもしないのであるから、やはり彼の本心は誰にもわからないのである。
「それにしても、こんな急な展覧会に李さんご本人が出席なさるだなんて。それほどアニル氏に期待していらっしゃるということですか?」
 迎えの自動車に乗り込み、風音は昨日届いたばかりのメールを確認しながら首をかしげる。
 ごたごたと美辞麗句が並べ立てられているが、内容をまとめると実にシンプルだった。要約すれば『新開発のサイバー兵器の品評会へご招待します』だ。
 李はクスクスと笑い声を漏らす。
「面白いではありませんか、この私を不躾に呼びつけるだなんて。自信過剰な男だと思いますよ、アニルは。久しぶりにあの顔を見るのも悪くないと思っただけです」
「……なるほど」
 風音は(よくわからないお方だ)と思いながらそれを聞いていた。
 それに、と李は続ける。
「あの顔が思わぬ事態に歪められるのを見るのは、もっと面白いと思いませんか?」
「李さんは、なにか起こるとお思いなんですか?」
 風音は眉根を寄せる。「そんなところに№1を向かわせるだなんて……」
「№2が聞いたら怒るでしょうねぇ。だから彼には先に日本に帰ってもらったのです。貴女は私の行くところであればどこへでもついてきてくれるでしょう? 風音」
 李はいたずらっぽく笑う。
 風音は溜息が漏れそうになるのをこらえながら頷く。
 当然のことだ。風音は彼について行くしかないのだから。
 もう、独りにはなりたくないのだから。
 そんな風音の心中を理解した上でどこへでも連れまわす李に、腹が立つことは決してない。しかし。
「品評会が終わったら、どこか観光でもしてから戻りますか? タージ・マハル。風音は見たことがないでしょう?」
 本当に兵器の売買に来たのかと疑わしくなるくらいにこやかに笑う李のことは、出会って十年経った今でも理解しがたい。
「ムガル帝国皇帝シャー・ジャハーンの愛妃であるムムターズ・マハルが、『後世に残る墓を』と所望したが故に建設された白い霊廟。シャー・ジャハーンによれば、そこは罪を負う者が悔恨し、罪行から自由になり、許され清められる典雅な高殿であり、神の光とともにあるそうです。我々が礼拝するのはお門違いでしょうかねぇ?」
 そして、李は時々、風音を困らせるような問いかけをして笑っている。
「……私は、自分の罪を悔いることはないですし、自由になっていいとも思いません」
 風音は少し考えてから答える。
 李はまたクスクスと笑う。楽しそうだな、と風音は思った。
「『緋の心臓』に『武器商人』。今宵は咎人が集結するでしょう。なにも起こらないはずがない」
「ならば、警備は万全にしなければなりませんね」
「ええ。よろしくお願いします。せっかく風音と観光する約束を取り付けたのに、あの不躾なアニルのくだらない騒動に巻き込まれてしまったのでは台無しですからね」
「……」
 風音は、どこまでも飄々とした物言いに若干呆れていた。
(ていうか、いつの間に約束取り付けられてたの……?)
 楽しげな李と若干疲れた風音を乗せた自動車は、排気ガスで曇る市中へと向かっていった。

 

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 ミーナは一つ息を吐いてから、コンコン、とドアをノックする。
 どうぞ、という返答を待ってノブをひねると、ドアは音も立てず開いた。
 中央のローテーブルを挟んで左側の革張りのソファには白い面に白いスーツを着込んだアニルが、反対側に厚地のつなぎを着込んだ無骨な男が二人、腰掛けている。
「ミーナさん。こちら、警備を担当していただくタウフィック先生、ハサン先生です」
 そのあと、アニルが二人に対して、ミーナを軽く紹介する。
 ミーナはまず二人組の男に短く挨拶をして、アニルに促されるまま彼の隣に腰掛ける。
「ミーナさん、先日までこの研究所に勤めていたカラスマサクラという娘が、我々のビジネスを阻止しようとしていると、そう言っていたのですね?」
「はい」
 ミーナはすました顔で首肯する。本当は、彼女が阻止しようとしているのはミーナの復讐だ。しかし、まさか真実を彼らに打ち明けるわけにはいかない。ここは調子よく味方を増やしておくのがベターだと、ミーナは不眠でどこかぼうっとしているのに妙に冴えた頭でそう考えた。
「そういうわけです、先生。先生方には、われわれの品評会が無事に遂行できるよう、警備をしていただきたいのです」
「お話はわかりました」
 つなぎを着た男の一人――タウフィックが頷く。それからミーナの方を見て、「一つ、確認したいのですが」と話しかけた。
「何でしょう?」
「カラスマサクラと、その少女は名乗ったのですね? 年齢や容貌の特徴をお聞かせいただけませんか?」
 ミーナは訝しく思いながら答える。
「年齢は十八だと言っていました。黒のショートヘアに、紅い瞳で、手足がすらっとしています。身長は私より少し高かったので、一七〇センチメートルくらいでしょうか」
「カラスマは、自分を『ノアの箱舟』の一員だと名乗ってはいませんでしたか?」
「……はい、名乗っていました。それがどうかしたのですか?」
 ミーナも一応、情報を探してみた。「ノアの箱舟」、「烏丸桜」。しかし旧約聖書の箱舟の物語や歴史研究の報告書、あるいは伝説をモチーフにした個人サイトの記述以外、特に情報は引っかからなかった。そこで、新興の組織か、情報の海にもデータのない弱小組織なのだろうと結論付けたのである。
「そんな小娘がどうかしたのですか?」
 アニルが口を挟み、首を傾げる。
 ハサンが小さな端末を操ってその画面をアニルとミーナに見せる。
 画像が粗いが、画面の中心に小さな少女が佇んでいる。
 まだ幼いが見間違えようがない、精悍な顔立ちに意志の強そうな紅い瞳の少女は、三年前の烏丸桜だった。
 その少女が、細くて小さな身体に見合わない大きな鎌のような物を振りかざし、
『ぐゎ……ッ!』
 そこでカメラが壊されたらしく、映像が途切れた。
「これは、私が三年前にノアの箱舟と遭遇した時、部下の一人が隠し取っていた画像です。カラスマは私を含めた五十人の仲間を相手に一人で戦い、我々は……惨敗しました」
 タウフィックが悔しそうに口元を歪める。
 アニルとミーナも思わず顔を見合わせる。
「どういうことです、先生」
「これは信頼に関わることですので、恥を承知で正直に申し上げます。この小娘一人を相手に我々は深手を負い、彼女の仲間たちの侵攻を許してしまいました。彼女は自らを『魔獣』と名乗り、たった一人で我々の軍勢を殲滅したのです」
 まじゅう、とミーナは呟く。
 確かに彼女も名乗った、自らを魔獣だと。
「ノアの箱舟というのは何なのです?」
 アニルが食いつくように問いかける。
 タウフィックは一度考えてから、間をおいて答える。
「言ってしまえば義賊、でしょうか。彼らが現れるのは、決まって異能者が虐げられているところで、そこから異能者を救出し、社会に適応できるように教育したり、そのまま匿ったりしています。しかし、彼らは世界中で暗躍しているにもかかわらず、情報は一切出回りません。情報の海に一言でも情報が流れれば、すぐに跡形もなく消去されるのです。どうやら強力な情報処理技術者が控えているようです」
 アニルが訝しげに口を挟む。
「我が研究所には異能者なんていませんよ。今回の品評会も、異能者とは何の関わりもありません」
「そこがわからないのです。ノアの箱舟が目的を変更したのか…… あるいは、お二方の与り知らぬところで、異能者が関わっているのか……」
 ミーナはぼんやりと考える。
 異能者。霊子にSn細胞が拡散しているタイプの。偽りの……
「……アンジュ」
 ミーナがぽつりとその名前を零す。
 アニルが取り繕うより、タウフィックが問いかける方が早かった。
「それは誰です?」
「……研究所で作っていた、人工知能です。彼女には自分のことを、異能者だと思わせていました」
 今度はタウフィックとハサンが顔を見合わせた。
「その、アンジュ自身は自分を異能者だと思っているわけですね? それはひょっとすると、ノアの箱舟の目的となっているのかもしれません」
「それはありませんよ」
 アニルが面白くもなさそうにそう言った。どこか、ミーナを牽制しているかのような雰囲気を醸し出していた。
「確かにアンジュは我々の研究所で作り出した人工知能です。ですが、中枢に致命的な欠陥があります。今はまだ意識がありますが、それも今日明日には消えて無くなるでしょう。救い出したところで何の意味もない。そもそも、品評会には関わりがありません」
 ミーナは黙った。アニルの言う通り、アンジュにはもう利用価値はない。
(そう思っていていただかなくちゃ困るのよ、アニル先生……)
 心の中でそっとほくそ笑む。
 現実では、タウフィックが顔を歪めている。
「左様ですか。しかし、気になるので頭の片隅に留め置いておきます」
「それよりタウフィック先生、今回はこの……カラスマに勝てるのでしょうね?」
 アニルが試すような言い回しでそう訊ねる。
 タウフィックは「無論です」と言い切った。
「前回はカラスマを小娘一人と甘く見ていましたが、彼女に関しては一対一などという戦法はナンセンスだとわかりました。今回は前回よりも大人数で、しかも精鋭揃いで、全力を尽くします」
「心強い。お願いしますよ」
 アニルとタウフィックが立ち上がって右手を固く握り合うのを、ミーナは横目で黙って見ていた。

 

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 ミーナが自室に戻ると、メールボックスに着信があった。
 確認すれば、もう何年も連絡を取っていない祖母からだった。
 嫌な予感がしてメールを開く。
『ノアの箱舟、タカツジジュウベエ、現ル。目的ヲ知ラレタ。スマナイ。』
 ミーナはふるふると握った拳を震わせる。
 彼らはミーナだけでなく、祖母の前にまで現れたのか。
 しかし、メールを送ってきているということは祖母は無事ということだと遅れて気がついて、小さく安堵する。彼らに人質を取るという考えはないらしい。
 カラスマサクラ、タカツジジュウベエ。
(――何者でも、邪魔するなら容赦はしない。全員地獄に叩き落としてやる……)
 ミーナは無言でメールを消去した。

 二〇一四年三月三〇日、午後一時のことだった。

 

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「なーんでお婆ちゃんから説得してもらわなかったのよ? お婆ちゃんの言うことならミーナだって聞くかもでしょー?」
「だーかーら、お婆ちゃんもミーナさんに完全に同調しちゃってたんだよ。こっちは撃たれながら逃げ帰ってきたんだから、少しは同情してよ」
 一足遅れて戻ってきた桜と十兵衛がともにテントの入口をくぐって入ってくる。
 テント内には理仁と聖が向かい合っていた。
 理仁が二人に気づいて顔を上げる。
「戻ったか。どうだった?」
「ミーナさんの目的はお父さんの復讐で間違いありません」
「止めようとしたけど無駄だったっぽい。止めるって宣言だけして帰ってきた」
「……十兵衛はともかく、桜、お前の脳筋っぷりどうにかなんないのか……」
 聖がこめかみを押さえながら呻く。「はァ?」と喧嘩腰の桜を押しとどめる十兵衛の衣服の焼け焦げた穴に、理仁が気づく。
「十兵衛、撃たれたのか?」
 十兵衛の方はというと、ケロリとした表情で頷いた。
「え? ええ、はい。すみません、復讐をやめるようミーナさんに説得してもらおうとしたら、逆上させてしまいました。でももう塞がったので大丈夫です」
「――危険な目に遭わせてしまい、すまなかった」
 苦しげに伏せられた睫毛に、十兵衛はかえってうろたえる。
「そんな、オレは全然! っていうか魔王様が一番わかってるでしょ? オレは箱舟の中では魔王様の次に頑丈だって!」
「しかし、」
「はいはいそこまで。十兵衛、お前は後でメンテな。じゃ、作戦会議、始めっぞ」
 聖が割って入って、十兵衛はホッとしたような顔をする一方、理仁は難しい表情を緩めなかった。
「お前らが出払ってる間に、ミーナのパソコンに侵入したところ、面白いものを見つけた」
 聖はガチャガチャとケーブルを繋ぎ、テントの真っ白な一面をスクリーン代わりにして文字の羅列を照射する。
 桜が首を傾げて問う。
「なにこれ?」
「脳筋にはわからないだろうから一から説明しよう。これはウィルスだ」
「誰が脳筋よ。ってウィルス?」
 桜がまじまじとスクリーンを見つめる。
 聖はうむ、と大きく頷く。
「コイツはセキュリティホールから侵入してバックドアを作り、一定期間が経過するまで増殖して、目的のファイルの蒐集を行うタイプのウィルスだな。こんなモンを隠し持ってるミーナとやら、なにか企んでいる気配満々だ」
「ごめん聖、最初から意味わかんない」
「……要するに、ウィルスってのは増殖しながらコンピュータの制御を奪ったりファイルを盗んだりする悪い奴だ」
「わかった。そのウィルスを倒せばいいの?」
「ちっともわかってないだろ脳筋」
 大真面目な顔で頷く桜に聖は頭が痛くなった。
「あー、つまりだな、そんな悪いウィルス君を作ったミーナは大層な悪者だってことだ」
「違うぞ聖、ミーナはアンジュの真の親友であって……」
「わかってるから言葉の綾だから。理仁、お前ちょっと黙ってろ」
 横から斜め上の指摘を入れる理仁のおかげで、聖の頭痛は悪化した。
「お前らはミーナの復讐を止めたいんだな? だったらまずはこのウィルスをなんとかしなけりゃならない。なぜなら、ミーナはこのウィルスを使ってある人物が葬り去った過去を掘り返して、その人物を破滅に追い込みたい、それこそがミーナの復讐だからだ」
「……ある人物?」
 脳筋呼ばわりされて頬を膨らませる桜と、言われた通り黙ったままの理仁を横目に、十兵衛がおずおずと問いかける。
 聖は満足そうに頷いた。
「そう。アニル・アルシャド研究所所長…… すなわち、復讐の対象はアニルだ」

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