ー今日も、声が聞こえる。
『トオル、そこ、右辺が間違ってる。(a+b)(a-b)=a²-b²だよ』
幼い声に従って、俺はノートに書いた文字を消し、書き直す。
教室に響いているのは数学の教師の掠れた低い声だけで、生徒は真面目に黒板を見ながらシャープペンシルを走らせたり、教科書に隠した漫画を読んだり、カクン、カクンと船を漕いだりしている。誰も亨の書き間違いを訂正する声には気づかない。
『トオル、今日は佐藤先生、風邪気味なのかな。声が掠れてるよ』
『飲み過ぎじゃねえの。昨日の晩、新任教師の歓迎会やったらしいから』
頭の中で適当に答えると、ふうん、あれが酒焼けか、と幼い声は興味深そうに返事をした。俺は教師の体調になど大して興味はなかったので、この話はおしまいだ。意識を数学の授業に戻す。
黒板には白いチョークで長方形が、赤いチョークで角が欠けた正方形が、佐藤教師の少し斜めに傾いた線で描かれている。(a+b)が長方形の長辺で、(a-b)が短辺、(a²-b²)は赤い線の図形らしい。
俺はそれをノートに機械的に描き留める。俺のノートもお世辞にもきれいな図とはいえないが、定規を使って描き直すほど丁寧な性格ではないし、そもそもノートを見直すことなどほとんどないので気にしない。
黒板の上の壁掛け時計に目をやると、授業は残り二十分弱。次の授業は何だっけ、月曜の五時間目は……体育か。
『ちがうよ、今日は体育館で講演会!』
幼い声は頭の中で楽しそうに囁く。
俺は、そういえば、と高校生活が始まった先週の月曜日に、担任から配布された年間行事表を思い出した。
四月の初めてのイベントである、どこかのお偉いさんの講演会は今日だったか。
『なにかの捜査局の偉い人が来るんでしょ? 楽しみだね!』
体育館に全校生徒が押し込められた中で、固くて冷たい床に体育座りして話を聞くことは、亨にとっては苦痛でしかなかったが、頭の中の声の主は新しい話を聞けると嬉しそうにはしゃいでいる。
授業は残り十五分。