第1話 春眠

 その日、四歳の少年が自宅近くの公園でボール遊びをしていた。

 公園の入口に転がっていったボールを、少年は追いかけて、道路に飛び出した。

 ボールしか目に入っていなかった少年に向かって、猛スピードでトラックが突っ込んできた。

 

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 ぱっと意識が浮上した。

 居眠りの後の少し熱い目をこすり、亨はそっと周囲を見回す。

 ほとんどの生徒は、壇上の講師の話を、熱心にとはいえないながらも静かに聴いている。離れたところに、ゆらゆらと揺れる生徒の黒い頭もちらほら見えた。確かに、この講演の内容は、この『普通の高校』に通うほとんどの生徒らにとっては多少の関心があっても、どこか別の世界の話のように思えて、熱心に聴く気分にはならないだろう。

 壇上にいる長身の男は、講演の冒頭に、異能犯罪者対策のために設立された、〈SLW〉という組織の日本支部第一捜査隊隊長、須藤俊彰と名乗った。

 

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 この世界には、異能者がいる。

 その事実が証明されたのは、今から十五年ほど前のこと。

 ルイーゼ・サリヴァンという科学者は、異能者を異能者たらしめる細胞・Sn細胞の存在と、その細胞によって異能が発現する原理を解明し、世界に衝撃を与えた。

 伝説や物語に登場する異能力者は実在する。

 もともと、彼らは常人には感じえないものを感じ取り、常人には真似できない不可思議な術を用いた。そのために、常人の社会から飛び出したり、排除されたり、あるいは反対に祀り上げられたり、そうでなければひっそりと息を潜めて、人間社会にとけ込んで生きてきた。社会から飛び出し、排除された異能者たちの中には、やがて独自のコミュニティを形成するようになった者たちがあった。その中には、常人にはない自分たちの能力を用いて、犯罪行為を繰り返すようになった者たちもいた。しかし、彼らの犯罪行為は常人の想像を超えた、小説の中の出来事のようなものであったため、長い間、「人間以外のものによる超常現象」として、警察組織の捜査の手が及ぶことはなかった。

 しかし、現代になって、異能者の存在が科学的に明らかになった。異能者はSn細胞の測定によって発見することができるようになり、異能者犯罪組織に国家の目が向くようになった。

 ただし、初めから警察組織が異能者犯罪組織を取り締まることができたわけではない。彼らは常人にはない異能を用いる。ある異能犯罪者の自宅に突入した五十人の警察官が全員命を落とすという悲惨な事件が発生したときには、世界中が異能者犯罪組織の撲滅を諦めかけた。

 そのような事件があってから間もなく、異能者研究の第一人者であるルイーゼ・サリヴァンは、「異能犯罪者対策局」の設立を提言した。すなわち、「異能犯罪者に立ち向かうことができるのは、同じく異能を扱う能力者である」として、異能者を異能犯罪者対策の道具にしようと、世界に向けて発信したのである。

 ルイーゼ・サリヴァンは異能犯罪者に対抗する異能者たちを Sullivan Letzte Waffe ー「サリヴァン最終兵器」として異能犯罪者対策の中核に置き、正しい道徳観を有する異能者たちを教育・訓練・指揮する組織の必要性を訴えた。そして世論はサリヴァンに傾き、「異能犯罪者対策局」として 〈SLW〉 が正式に設立された。

 これが、SLWと異能犯罪者集団との戦いの幕開けとなった。

 

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 ……ここまでが、須藤第一捜査隊隊長の講演の前半部分。

「あなたたちの身の周りに、異能犯罪者が潜んでいるかもわかりません。彼らはSn細胞の測定によって識別できますが、一目見ては常人となんら変わらないのです」

 須藤は続ける。講演は後半に差し掛かっており、異能犯罪者の恐ろしさ、残忍さと、異能者研究のさらなる発展の必要性に及ぶ。

 亨は思う。確かに、異能犯罪者は身近にいるかもしれない。しかし、異能者が発見されて以降、新たな異能犯罪者が発生しないよう、各国は独自に予防線を張っている。

 亨の暮らす日本では、Sn細胞の測定が小学校入学時検診の項目になっている。Sn細胞は三歳ないし五歳で急速に発達し、その後は減少することはあっても増えることはないという研究結果に基づいているらしい。Sn細胞が常人より多いと判断された子どもは、SLWが運営するプライマリースクールに強制的に入学することになり、ハイスクール卒業時には判別チップの埋め込み手術を受け、死ぬまでSLWの管理下に置かれるという。

 亨自身は覚えていないが、母親によれば亨も検診を受けており、現在『普通の高校』に通っていることから推察されるように、Sn細胞の測定結果は異常なし、むしろ平均以下だった。それは大部分の同級生たちも同じだろう。この高校に異能者はいない。

「確かに、小学校入学時の検診によって異能者の卵はSLWの保護に置かれますが、皆さんより年上の年代の大人の大半については、検診を受けていないという事実があります。したがって、検診があるから異能者は周りにいないなどという安心は無意味です」

 ……須藤隊長が亨の考えをあっさりと否定してくれた。

『トオルは考えが甘いねぇ。そんなんじゃいつ異能犯罪者に襲われるかわかんないよ?』

 頭の中の幼い声がからかうように笑う。

 亨はむっとして頭の中で応じる。

『異能犯罪者より、俺にとってはお前の方が目下の問題だ。いつまで俺の頭に居座るつもりだよ?』

『居座るも何も、トオルがボクと一緒にいたいんでしょ。小さいときに約束したじゃない』

 頭の中の声も機嫌を損ねたようだ。

 亨もその言葉には反論できない。確かに、子どもの頃にそんな約束をした覚えがある。

『……子どもの頃の話だろ。大体、お前がチビの頃からちょっかいかけてきたせいで、俺はいまだに近所のおばさんたちに笑われてるんだからな』

『その件についてはゴメンね。悪気はなかったんだよ?』

 この幼い声は、亨にしか聴こえない。

 その事実に気づくまで、亨は口に出してこの声に応じていた。ときに笑ったり、ときに泣いたり、ときに怒ったり。

 幼い声は友達の少ない幼稚園児だった亨にとって、かけがえのない友人の一人だった。『ずっと友達でいようね』という約束にも迷うことなく応じた。

 その後、小学校に入学し、周りに目を向けるようになって、授業中にちょっかいをかけてくる幼い声に誰も気づいていないことに初めて気づいた。先生が話をしているのにも構わずいつでも誰かと誰かが話をしている幼稚園では気づかなかったことだ。

 そして、授業中に頭の中の声とこそこそと話をしていると、先生が不審そうな、それでいてどこか心配そうな目で「誰かに話しかけられると、気が散っちゃうかもしれないけど、授業中は静かにしましょうね」などと注意されるようになった。

 それ以来、亨は頭の中の声には頭の中で応じるようになった。それでも意思疎通はできたからということもあるが、主に先生やクラスメートから不審な目で見られるのはつらかったからというのが大きい。

 結果として、亨は現在まで、特に独り言が多いなどの問題のない、普通の男子として生活できているのであるが、そうなると幼稚園の頃に一人で話していた相手は誰だったのかという話になる。

 母親はそれに関して、いわゆる「大人には見えないお友達」がいたのだという見解に立って、「トオルってば幼稚園の頃はねぇ」などと説明してまわったものだから、周囲も亨に関しては「小さい頃に大人には見えない何かと話せていた」と理解している。不本意ではあるが、誤解を解く方が面倒臭いことは明らかであるので、亨本人もそういう設定にしている。

『一緒にいる、ねぇ……。まあ実際約束したし、あんまり不自由はしてないし、むしろ試験前とか助けられてるし、一緒にいることには反対しないんだけどね』

『そう、それはよかった!』

『けどさ、別に二重人格が発生するような人生だったわけでもないのに、何でお前いるんだ?』

『それはボクにもわからない』

 話はいつもそこにたどり着く。

 亨はごくごく一般的な家庭に育ったごくごく普通の少年である。以前、この声の原因を調べるために人格障害について調べたことがあるが、亨には何らかの慢性的な苦痛を受け続けたとかといったいわゆる解離性障害に繋がるような事情はない。というか、そもそも社会生活に支障をきたしているわけでも苦痛を感じているわけでもないので障害というわけでもない気がする。

 じゃあ一体なんなんだ。と思わないこともないが、幼い声は随分楽観的な性格らしく『そのうちわかるんじゃない?』などと気にしていない様子であるし(自分の生まれた原因がわからないって相当大ごとだと亨は思うが)、授業で聞き漏らした情報もメモを取り損ねた図表も、この声の主は覚えているらしく、亨も試験前に随分助けられているので、まあいいかという気分になっている。ちなみに試験中はどれだけ話しかけても黙秘を貫いている。『試験は自分の力で解くもの!』というのが理由らしい。もっともすぎて頷くほかない。

「皆さんはおそらく、Sn細胞の測定で平均以下だったのだと思います。しかし、SLWは現在でも優秀な研究者を募っています。今日講演をお聴きいただいた皆さんの中から、研究者としてSLWに貢献してくれる人が現れるならばこれに勝る喜びはありません……」

 五時間目が終わるまであと十分。講演も時間的にそろそろおしまいだろう。一時間も同じ姿勢でいると窮屈だと、少し身体をひねったとき、壇上の須藤隊長がこちらを凝視していることに気づいた。

「……」

 須藤隊長は何ごともなかったかのように話し続け、最後に「ご清聴ありがとうございました」と締めくくった。

 生徒らが同時に、疲れたような調子で拍手を送る。亨もそれにならった。

「……?」

 亨は壇上から降りて体育館から出て行こうとする須藤隊長を目で追いかけた。

 体育館から出て行く直前、須藤隊長が校長とあいさつしながら、こちらにちらちらと目を向けてくるのが見えた。おそらく向こうもこちらが目で追っていたことに気づいているだろう。須藤隊長は間もなく体育館の扉を引いて外に出て行った。

 

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「佐倉、先生が呼んでる」

 掃除中、クラスメートに声をかけられ、教室入口で手招きをしている担任教師に気づいた。掃除を途中で抜けることを一言詫びて、彼のもとへ向かう。

「なんですか?」

「さっきの講演のな、須藤さん。お前と話がしたいって。応接室でお待ちだ」

 担任はそう説明すると、亨についてくるように言って歩き出した。亨はなんとなくそわそわしながら彼に続いた。

 応接室の周りは、この時間には掃除をしているはずの生徒がいなかった。

『人、いないね。掃除しないのかな。変なの』頭の中で幼い声が響く。

「ここって普段、掃除しないんですか」

「できるだけ人を近づけないでくれって、頼まれたらしい」

 担任が亨の質問に、本人もよくわかっていないらしい様子で答えた。

 担任は応接室の前に立つと二回ドアをノックして、「失礼します」と度を引き開け、身を横に引いた。亨一人で入れということらしい。

 亨は「失礼します」となるべく落ち着いた声で言ってから、応接室に足を踏み入れた。

 応接室には焦げ茶色の古い一人掛けソファが向かい合って二脚と、その間にローテーブルが一つ置かれ、こちらに背を向けて校長が、その対面に須藤が腰掛けていた。須藤の前には湯飲みが供され、薄く湯気が立っている。校長と話をしていたらしく、校長は「ああ、君が佐倉君か」と人の良さそうな笑みを向けた。

 ドアの側から離れない亨に、須藤は女性受けの良さそうな微笑みを浮かべて「こんにちは」とあいさつした。亨も「こんにちは」と返す。

 校長はドアの前に立つ担任に「ちょっと外してもらえるかな」と指示し、亨に「こちらへ来ておくれ」とテーブルのそばを手で示す。

「……」

 亨は無言でそこに立つと、須藤と目を合わせた。歳の頃は、三十を超えたか超えないかくらいだろうと見当をつける。薄い色素の茶髪に、鳶色の目が亨を見て輝いている。

「あの、お話って……?」

「ああ、急に呼びつけてごめんね。君、講演中に僕と目が合っただろう?」

 須藤は一言詫びてから、話を切り出した。

 亨は努めて冷静に「そうかもしれません」と返した。

「君を一目見てびっくりしたよ。まさか高校で出会うとは思わなかった」

「あの、前にお会いしたことありましたっけ?」

「いや、ないよ。でも、君によく似た人に会ったことがある」

(何を言っているんだこの人は……)亨は内心でぼやく。似た人って要するに別人だろう。

 須藤は無言で答える亨に「ああ、言い方が変だったね」と頭をかいた。「講演は聴いてた?」

「まあ、一応」一瞬居眠りしたことはもちろん言わないでおく。

「なら話が早い。僕はSLWの捜査隊員。つまり、SLWお抱えの異能者というわけなんだけど」

 亨は「はあ」としか言わなかったが、(確かに)とも考えていた。亨たちの前で講演をしていたこの男は、あまりにも雄弁に異能犯罪者の危険性を訴えるものだから、亨は何となく、この男は異能者ではないような気になっていたのだ。改めて考えてみなくても、SLWの捜査隊員の一員であるなら、彼も間違いなく異能者のはずである。

「それで、その能力を使って君を『観察』させてもらったんだけど、君、何か抱えているようだね」

 亨は「何か?」と、オウム返しに呟く。

 体調には特に問題はない。勉強もそれなりにできている。スポーツはむしろ得意な方だ。亨の学校生活に不自由はない。

「何も心当たりがないんですけど……」

 答えようとしたそのとき、頭の中で元気な声が響いた。

『トオル、それってボクのことじゃないっ?』

「えっ?」亨は思わず素っ頓狂な声を上げ、直後に(しまった!)と唇を噛む。悔やんだところで出てしまった声は回収できない。脳細胞をフル稼働し、この局面をどうやって誤魔化すか思考する。

「心当たりがあるのかな?」

 須藤が身を乗り出す。亨は目を逸らし、とりあえず話をすり替えてみることにする。

「……っ、須藤隊長の能力って、何なんですか?」

「え、俺の?」

 ああ、説明不足だったね、とまた頭をかく。

「僕の能力は『他の異能者の能力を見分ける』ことだよ。それで君を見たとき、気づいたんだ。

 ()()異能者(・・・)()、ってね」

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