第10話 紫陽

 二日ぶりに登校した風音に、友人は待っていましたとばかりに駆け寄った。

「風音、また体調崩したんだって? 大丈夫?」

「うん、今回のは軽かったみたい」

 風音はにっこりと微笑んで答える。

 №1の指示に従って任務にあたるときは、学校を休まなければならないこともある。その場合は、風音は体調不良を理由にすることが多かった。今回も、夏風邪を理由にして欠席していたのである。

 友人も深くは追及せず、「そう、よかった」と微笑む。

「ねえ、体調良くなったんなら、今度の週末に植物園行かない? 部活のみんなで!」

 友人は、駅前で配られているようなフライヤーを風音の鼻先に突きつけて言った。風音は驚いてそれを手に取る。『今が見頃! あじさい満開』と書かれている。そういえばそんな季節か、と風音は思い出した。

「ねえ、今なら日曜日に植物園の真ん中にある茶室が開放されて、お抹茶とお菓子が食べられるんだって! あじさい見ながらお茶なんてオシャレじゃない?」

「あなた、抹茶なんて飲めるの? お子様舌じゃなかった?」

「失礼ね! あたしは大人の女になるのよ!」

 友人は頬を膨らませて風音を子どもっぽく睨みつける。全然怖くない。

 風音は笑ってフライヤーを返して、№1の指示を思い出す。週末までに佐倉亨を移送する予定である。それが終わってからなら遊びに行くくらいの時間の余裕もあるだろう。

「いいわね、ご一緒するわ」

「うん! あ、お弁当も持って行って食べよ! あたし、腕によりをかけて作るから!」

 友人は腕を叩いて見せる。風音は「楽しみにしてるわ」と答えた。この友人は毎日自分で弁当を作ってくるほど料理上手なのである。風音も味見をさせてもらうことがあるが、特に甘めに味付けされた卵焼きは絶品だ。

「じゃあ決まりね! みんなにも知らせてくる!」

 友人は他の部員に声をかけようと、教室を飛び出して行く。

 風音はそれを見送ってから、はたと、休んでいた間のノートを見せてもらわなければならないことに思い至る。

「ちょっと待って、その前にノート貸して!」

 風音も苦笑しながら、教室を飛び出して行った。

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 須藤は日本支部に戻ると、待機室には立ち寄らずその足で支部長室へと向かった。すでに電話で面会予約は取ってある。

 日本支部の建物の最上階にある支部長室の前で、胃がきりきりと痛くなるのを感じながら、ドアを四回ノックする。

「入れ」短い言葉で許可が下りる。須藤はそっとドアを引いた。

 中央のデスクには、両肘を立てて組んだ手を口元に当て、須藤を鋭く睨みつける壮年の男。SLW日本支部長、神崎修その人である。オールバックにするのに使っているらしい高価(たか)そうな整髪料の香りが、部屋に仄かに漂っている。

「神崎支部長、軽井沢にある加納由紀治の別荘に佐倉亨がいるという情報が入りました。立入捜査をしたいのですが」

「情報源は?」

 須藤は(やっぱり隠せないよなぁ……)と苦々しく思いながら答える。

「……四条理仁です」

「……」神崎の目がわずかに見開かれる。「……懐かしい名だな……」

「……そうですね」二人の男は、ある共通の『事件』を思い出していた。

 須藤は沈黙を押し破って、捲し立てるように言う。

「四条理仁はおそらく、小野ほたるを庇う目的で情報を提供したのでしょう。ならば情報の信頼性に問題はないかと思われます。むしろ利用するべきです。加えて、情報によると『碧の瞳』と『白銀の脳細胞』もかかわってくるそうです。早急にご判断を」

「『緋の心臓』の情報だから信じろと? 奴はSLWが追う重要参考人だ。SLWの人間が簡単に信用してどうする。……小野ほたるにこのことは?」

「情報提供を受けたのが彼女です。しかし、四条理仁のことは思い出していない様子でした」

「本当だろうな?」

 須藤は頷く。

 神崎の眼が鋭く光る。真偽を見極めようとする、捜査官の眼。

 嘘は言っていないが、須藤は改めて堂々と対峙した。

 神崎はしばらくして、目を伏せながら「いいだろう」と視線を外した。須藤は静かに胸を撫で下ろす。

 しかし緊張が解けたのも束の間、神崎はまたも、須藤に鋭い視線を向けた。

「小野ほたるの件に関しては、だ。加納由紀治の別荘の立入捜査は別の話だろう。証拠なしに令状は下りない。まさか『緋の心臓より情報提供があった』とでも説明するつもりだったか?」

「……」

 須藤も、立入捜査の件に関しては難しいだろうと思っていた。むしろ、無理だと見越しての請願だった。

「それでは、私に軽井沢に行かせてください」

「お前が?」神崎にもその提案は意外だったらしく、顔を上げた。そして、呆れたとばかりに溜め息を吐く。

「承知しているだろうが、隊長格の隊員が出動できるのは、レートS以上の緊急事態のみだ。今回の誘拐事件は今のところレートB。お前がここを空ければ、他の隊員は必要以上に事態を重く見るだろうし、混乱を生じる。簡単には認められない」

「しかし、緋の心臓・碧の瞳・白銀の脳細胞が既にかかわっていると考えられます。その原因は佐藤亨の心臓にある結晶です。さらにはビッグ4の幹部の能力も判明するかもしれません。事件のレートを引き上げるべきです」

「被害者は佐倉亨一人、情報提供者も完全には信用できない、結晶化という情報も確定はしていない。どんなに重く見積もっても、レートはAだ」

「……」

「本音を言ったらどうだ。何故そこまで佐倉亨に拘る? 第二の緋の心臓を生み出したくないのだろう? 『あの事件』に関わった者として」

 須藤は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。

 神崎の方はというと、それを下らないものだとでも言いたげに見つめていた。

「その通りです。私情だとわかってはいますが……」

「ああ、私情だな」

 神崎が須藤の言葉を一刀両断する。須藤は首が垂れそうになるのをなんとか持ち上げて告げる。

「佐倉亨の母親からの情報で、一つの可能性が生まれました」

「ほう?」

 神崎はさも興味がないかのように相槌を打つ。

 須藤は、これで神崎が動かなければどうしようもないと思っていたカードを切ろうとしていた。

「私は、ビッグ4は佐倉亨と十一年前に遭遇していたと考えています。佐倉亨が四歳の時に遭遇した事故で手術を担当した医師が、ビッグ4の関係者だと。その時、佐倉亨に何か、法律で認められていない施術をしたようです。他方、同じ事故で同じ病院に運び込まれた佐倉護…… 佐倉亨の兄ですが、記録を見る限り、彼の方には何も特別な措置はとられていない。この状況、神崎支部長であれば、どこかで聞き覚えがありませんか?」

「……何が言いたい。(くど)いぞ」

 神崎が眉間に皺を寄せる。おそらく彼も気づいたのだろうと、須藤は考えた。

 須藤は、支部へ戻る間に掻き集めた情報を並べ立てる。

「アルベルティーナ・クラインミヒェル。ルイーゼ・サリヴァン博士の研究に参加したSLWの研究員でしたが、十三年前に研究倫理違反を繰り返したことにより追放され、以後の消息は不明。追放が決定的になった事件は、『アドルフ・ブルーノ兄弟遺棄致死事件』。難病を患った幼い兄弟を引き取り、兄のアドルフ少年に当時実験段階だった秘薬(・・)と称する薬物を投与し、弟のブルーノ少年には必要な措置すらとらず研究室内に遺棄し、結果、両名を死亡させた事件です。神崎支部長もご存知のはずでしょう。……佐倉護・亨兄弟の事件と似ているとは思いませんか?」

「もちろん、お前よりよほど詳しく知っている。当時の私はサリヴァン博士に師事していたからな。サリヴァン博士も嘆いていたことを覚えている」

 神崎は一瞬、当時を懐かしむように目を細める。しかし、すぐに表情を引き締めると目の前の須藤を睨みつける。

「お前は、クラインミヒェルがビッグ4の一員として佐倉亨と関わっていたと、そう考えているんだな?」

「その通りです。そして、第八捜査隊の資料によれば、ビッグ4には有能な研究者が参加しているとも言われています。私は、時期から考えても、消息を絶ったクラインミヒェル博士がその研究者ではないかと考えています」

「SLW研究室から犯罪者が出たということだぞ?」

 神崎は怒気を含んだ声で同じ趣旨の台詞を繰り返した。

 神崎は、SLW設立の功労者であるルイーゼ・サリヴァンの一番弟子とも言われていた。SLWの理念に畏敬の念を抱え、サリヴァン直々の命で日本支部長を引き受けたことも、須藤は知っていた。

 したがって、須藤は神崎の怒りにも動じなかった。その程度のことは想定内だった。

「そうであれば、我々の目で確認する必要があるでしょう」

「……」

 今度は神崎が押し黙った。須藤も黙って返答を待つ。

 須藤の感覚では、たっぷり五分は経過した気がした。実際はもっと短かったかもしれない。神崎は静かに答えを出した。

「いいだろう。本当にクラインミヒェルが関わっているのか、お前の目で確かめて来い。クラインミヒェルに関する資料はすべて閲覧を許可する」

「ありがとうございます」

 須藤は頭を下げた。

 神崎は続ける。

「それから、研究室から長谷川を連れて行け。あいつはクラインミヒェルのお気に入りだった。何かの役に立つだろう」

「承知しました」

 待機室に戻る前に研究室に寄る必要が出てきた。須藤はこれからの計画を頭の中で組み立てる。

「わかっているだろうが、目標は佐倉亨の救出とともに、ビッグ4のメンバーを確認することだ。忘れるな」

 須藤はもちろん顔には出さなかったが、心中で呆れていた。

(今さら取り繕っても遅いだろ……)

 佐倉亨の救出は、神崎の中ではあくまで建前。本音は、ビッグ4のメンバーを確認すること(すなわち、クラインミヒェルが関連しているかの是非)が第一次的な目標であって、人命救助など『ついで』に過ぎないことは明らかだった。しかし、須藤はそれでも構わない。初めからこの男にまっとうな人間性など期待していなかった。

「わかりました。それでは、私はこれから隊員を連れて軽井沢に向かいます」

 神崎は既に別件へと興味を移したらしい。デスクに積まれていた資料に目を通す彼から、特に返事はなかったが、須藤は一礼して部屋を後にした。

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 アルベルティーナ・クラインミヒェル。ドイツ出身。現在四十六歳。

 ルイーゼ・サリヴァンによる異能者研究に参加した研究員であった。

 SLW設立にも携わり、設立時の研究室メンバーの一員として名を連ねた。

 ルイーゼ・サリヴァンは彼女を「科学の神に見初められた天才」と評し、サリヴァンの弟子である神崎修は「科学の悪魔に唆された無法者」と罵倒した。

 彼女の研究姿勢は熱心だったが、しばしば倫理委員会で問題視された。

 

 委員会の許可の範囲を超えて行った人体での治験は数知れず。

 委員会からの是正勧告は尽く無視。

 その結果、研究許可が下りなくなると、個人的な筋で被験者を募り無許可の研究を繰り返した。

 

 そして極めつけは、十三年前に起こした『アドルフ・ブルーノ兄弟遺棄致死事件』。難病を患い医者にも見放された幼い兄弟を助けてほしいと願う両親から、恐喝紛いの方法で兄弟を研究室に引き取り、研究材料にした上で死に至らしめたという事件は、科学界に衝撃を与えるものであった。

 当時のSLWは設立後間もなく、未だ世界に完全に受け入れられたとは言えない時期に、このような不祥事を表沙汰にすることはできないと、上層部は判断した。

 クラインミヒェルの犯罪に近い行為は隠蔽されたが、彼女は科学界から永久に追放された。

 彼女がそこまでして研究してきたのは、すなわち、彼女がそこまでするほど魅了されたのは、異能の根源、Sn細胞の『結晶化』という現象だった。

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 亨は住宅地の坂道を下っていた。この地域には、亨が電話を借りることができそうな、ホテルも公共施設も見当たらない。

『なあ、俺たち、変な方向に走ってるんじゃねえの?』

『ボクもそう思う。やっぱりさっきの角は右に曲がるべきだったんだよ。こっちは静か過ぎるもん』

『お前が左だって言ったんだろ! それに今さら引き返せるかよ……』

 無責任な相棒に心の中で叫んだとき、頭部左側に何か固いものがぶつかる衝撃があった。亨の身体はまるでコントでもしているかのように右に吹っ飛び、倒れ込む。

『なに⁉ 大丈夫⁉ トオル!!』

 くらくらする頭を押さえながら「だいじょうぶ……」と思わず声に出して答えていた。

 頭にぶつかったそれが何なのか把握して、首を傾げる。

「カボチャ……?」

「やってられるかクソっ垂れがぁ!」

「……⁉」

 聞き覚えのある声にビクリとして、カボチャが飛んできた方向に目をやる。

 白いTシャツにがばがばのジーパン、頭にタオルを卷いた大柄な男が、家庭菜園の真ん中で頭を抱えて叫んでいる。

 亨はカボチャを拾い上げると、静かにその家の門を開け、庭につかつかと足を踏み入れた。

 亨はこの男を知っていた。

「……何やってんの」

 酷く冷めた声に自分でも驚く。

 対して男の方は急に大人しくなり。

「ああ、これは何と失礼なことを、通りすがりの少年。お許しください」

「なあ」

「弁解の余地もありません。一か月前から、ここでカボチャを栽培していたのですが、今になって、急にこのカボチャに腹が立ちましてね……」

「おい」

「ああ、ご心配なく、これは私の習慣ではありません。いいですか、少年。ある男がある目的のために働いてきて、散々苦労を重ねたあげく、ようやく余暇と手慰みらしきものを手に入れた。しかし、いざそうなってみると、かつての多忙な日々、あれほど喜んで捨てた昔の仕事が懐かしくてたまらない。そういうことが想像できますか?」

「ちょっと」

「習慣の鎖というやつですな。私たちは目的を達成するために働きます。そして目的が達成されると、日々の苦労がなくなって寂しく感じるのです。しかもですな、少年、私の仕事というのは面白い、世界で一番興味深い仕事だったので……」

 グシャッ……

 手に持っていたカボチャで、亨はその男の頭を思いっきり叩き付けた。

 本来の用法とはかけ離れて、二度も人間の頭部を殴打するのに用いられたカボチャが、無惨に砕け散る。

 男はまるでコントでもしているかのようにその場に倒れ込んだ。

 ようやく(物理的に)黙らせることに成功した男に対して、亨は冷たい目を向け、訊ねた。

「一つ聞く。ここで何やってんだ、親父」

亨よ(My son)…… 久しぶりの再会でこれはないんじゃないか……」

 佐倉正(さくらただし)ー亨の父親であるその人は、カボチャの破片を頭に被りながら、息子と数ヶ月ぶりの再会を果たした。

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