第28話 ヒーロー

 目を覚ますと、そこはどこかのベッドの上で、「ミーナ!」と駆け寄ってくる紅眼の少女がいて、床では銀髪の青年がこちらに背を向けて、たくさんの端末に囲まれていた。ああ、まだ終わっていないんだとなんとなく理解した。
「大丈夫? まだ寝てなくちゃ……」
「平気よ。……ていうか、あんた無事だったのね」
「え? ああ、うん。ありがと?」
 ぽかんと口を開けて、桜はミーナを見る。以前のような悪意がないことが不思議だったのだろう。なぜか礼を言った。
 続いて聖に声をかける。
「マツバラ、迷惑かけたわね。運んでくれてありがとう」
「いや、無理もねぇ。あと、あんたを運んだのは十兵衛だ。今は外に出てるが」
「……アンジュはどうなったの?」
 聞いた瞬間、部屋の空気が重くなる。
 桜は不安げに聖の背中に目をやった。
 聖は立ち上がってミーナのいるベッドに近づき、頭を深く下げた。
「すまん、まだ見つかっていない。最後の最後でアンジュの動きに気を回さなかった、俺のせいだ」
 そういえば同じような謝罪を研究室で聞いたような気がする、とぼんやり思った。ミーナは首を横に振った。
「いいえ。あの子なら黙って見ているはずがない。あたしが一番わかっていたはずだったわ。あんた一人のせいじゃない、あたしも油断していたの」
 聖を励ますためではない、本気でそう思っていた。聖は頭を上げなかった。意外に責任感の強い男なのだとミーナは思った。
「無事だとは思う。でも、自力で帰って来れるかどうかはわからない。だから、こんなこと言える立場じゃないけど、お願い。探してあげて」
「……わかった。なんかわかったら伝える。あんたはもう少し寝てろ」
 やはり表情は硬かったが、ようやく聖は顔を上げた。「頼む」と桜に伝えて、聖は端末に戻っていく。
「おなかすいたでしょ? 十兵衛がごはん買ってきてくれるって、さっき出て行ったんだけど、食べられそう?」
「今はいいわ」
「じゃあ少し寝よう。……えっと、人がいない方が眠れる?」
 遠回しに、自分はここにいない方がいいか、訊ねられた。
 あれだけ敵意をむき出しにしたのだ、むしろ近寄りたくないだろうに。
 ミーナが「ここにいて」と答えると、桜はやっぱり目を丸くした。
「……アタシのこと嫌いなんでしょ? なんで……」
 そこまで言いかけて、なにかに思い当たったらしく、声を潜めた。
「聖がなんか言った?」
 十兵衛ではなく、なにか言ったとすれば聖ということで確定しているらしい。確かにあの穏やかで控えめな少年は、身内の話をペラペラと喋りそうにはないが。
「……あんたの話、聞いた。聞かれたくなかった?」
 ミーナも合わせて声のトーンを下げる。
 桜は「聞かれちゃダメなわけじゃないけど……」と頬を膨らませた。「聖、余計なことを……」
「でも、あたしはそれで思い出せたわ」ミーナは本心からそう思う。「あんたのこと、理解はしきれなかったけど、あたしは大事だったものを思い出せた。アンジュが大事だったって。あの子が大切にしていたものを守らなきゃって、思ったの。あんたは初めからそう言いたかったんでしょう?」
「でもやっぱり、あたしの言葉は無責任だった。ミーナの事情とか考えてなかった。ミーナを責めてるだけだった……」
 項垂れる桜を見て、ミーナは十兵衛の洞察力に舌を巻いていた。彼の言った通り、桜は自分を責めていた。……桜が悪いわけがないのに。悪いのはミーナなのに。
「謝るのはあたしの方よ、サクラ。なにも知らなかったくせに、一方的にあなたを攻撃して。ごめんなさい」
 桜は頭を下げたままだった。
 やはり声は潜めていたが、ミーナは強い調子で言った。
「……聞いて? 敵意をむき出しにしてたあたしを助けてくれようとした、手を差し伸べてくれたあんたが、間違ってたはずがない」
 おずおずと、ようやく顔を上げた桜に、笑いかける。久しぶりに笑った気がした。
「ありがとう」
 心からの礼を。桜に一番に伝えたかった言葉を。ちゃんと言えた。
 桜は「あ」とか「う」とか言葉をなさない声を漏らしたあと、透けるように白い肌がどんどん赤くなっていく。面白いものを見た気分だった。
「寝るわ。そこにいて」
「あ、うん。おやすみ」
 ぎこちなく頷く桜を観察できるように、横向きにシーツにくるまる。
 桜は、子どもに寝かしつけるようにとんとんと肩をたたく。大の大人になって気恥ずかしかったが、そのリズムが心地よい。それに、仄かに漂う花のような香り。
「あんたのそれ、なんて香水……?」
 意識は眠りに落ちつつあったが、なんとなく聞いた。
「これ?    っていうの。お姉ちゃんがくれた」
 桜はミーナには聞き慣れない単語で答えた。よくわからなかったが、それでもよかった。別に欲しかったわけじゃないし、そもそも自分には洒落た香水なんて似合わないし。けれど。
「なんか、落ち着く……」
 それだけ漏らして、ミーナは眠った。

   ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃

 数日後、ミーナは田舎の祖母の自宅にいた。

 目が覚めてもアンジュは見つからなかったが、なにか進展があったら報告することを約束して、ミーナと箱舟の異能者たちはモーテルの駐車場で別れた。研究所に所属していたミーナが長期間行方不明というのはなにかの疑いをかけられる恐れがあるだろうと、聖が判断したのだ。どこから調達したのかわからないバンに乗り込んで、ミーナには帰りのタクシー代を押し付けて(要らないと断ったが遠くまで連れてきてしまったからと無理矢理握らされたのだ)、彼らは嵐のように去っていった。

 戻ってみると、事件は妙な方向で解決に向かっていた。
 アニルは武器売買とウィルス作成・使用の疑いで逮捕されていた。DILを行政諸機関に放ったのは確かにアニルだったが、正体不明のコンピュータウィルスを作成した犯人も、ミーナではなく彼ということになっていた。……ただし、当のアニルは火災で意識不明の重体であったが。
 火災は何者かによる放火ということで調査が進められていた。武器売買の取引相手のうちトラブルのあった誰かに疑いがかけられているらしい。
 そして、研究所から姿を消していたミーナといえば。
 帰ってみると、英雄扱いだった。
 アニルの放ったウィルスを停止させた、アニルによる国家転覆を防いだ、と。姿を消していたのは、アニルに危害を加えられることを避けるため、一人逃げていたから、ということになっていた。
 警察からは『今後は犯罪事実を知った場合はすぐに通報するように』と注意を受けたが、緊急事態であったことを汲んでお咎めはなしだった。それどころか感謝状を、と提案されかけたがそれはもちろん断った。自宅アパートには記者が押しかけ、どこからかアルシャドの自殺を嗅ぎつけた名の知れたライターはこれもアニルの仕組んだ罠だったのではないかと騒ぎ立てた。これを受けて警察では、アルシャドの自殺と、その原因となったとされている、警察が彼に疑いをかけていた犯罪事実についても再調査を行うことになった。
 すべて、聖がミーナの不利益にならないように処理したのだ。ミーナはそう確信していた。確かにDILを止めたのは事実だが、英雄扱いなんて望んではいなかった。そもそもテロを目的として、ウィルスを作ったのがミーナだったのだから。しかし、アルシャドの件が再調査されるというのであれば、それは願ってもない話だった。結局、ミーナは聖の筋書きに乗ることにした。
 ようやく警察から解放されたあと、ミーナはアパートを引き払った。ミーナは少し有名になりすぎていて、疲れていた。静かな場所に引きこもっていたかった。ボストンバッグ一つ手に、電車に乗った。

 大学に進学して以来、地元に戻ったことはなかった。小綺麗な服を着たミーナは貧しい村の中で浮いていたが、誰かが声をかけてきた。
「ミーナさん?」
 声をかけてきたのは、最初は誰だかわからなかったが、向こうは確信したように、「ミーナさん!」と叫んだ。
「あの、……」
「ああ、グルー・ナーク中学校で教えていた…… といっても、君はすぐ高校に行ってしまったからね、覚えていないのも無理はないか。サンディープという」
「……サンディープ先生……」
 正直なところ、よく覚えていなかった。父が死んで以来、周りをよく見ていなかったような気がする。
 サンディープと名乗ったその男は、そんなことはどうでもいいとばかりにミーナの肩を掴んだ。
「落ち着いて聞いてほしい、三月の末に、お祖母さんのご自宅に不審者が現れてね。お祖母さんは銃で自衛したというが、少しばかり取り乱していらした。知っているかい?」
 一瞬頭が真っ白になったが、すぐに気づく。三月末といえば、メールがあった頃だ。となると、現れた不審者というのは、高辻十兵衛だろう。
 というか祖母は銃で自衛したのか。十兵衛本人はなにも言っていなかったが、あの穏やかな少年を相手に過剰防衛ではないかと思う。
 あまり慌てた様子でないミーナを、男は不思議そうに見ている。ミーナは慌てて取り繕った。
「あ、ああ。聞いています。それで、仕事で遅くなりましたけど、心配で帰ってきたんです」
「そうだったのか。早く帰って安心させてあげなさい」
 引き止めて悪かったと謝罪して、男はミーナを解放した。
 ミーナは頭を一つ下げて駆け足で立ち去った。意外にも他人は自分を覚えているらしいが、あまり人に会いたくなかった。
 祖母の自宅は出て行ったときと変わっていなかった。「おばあちゃん」声をかける。しばらくして、返事があった。
「……ミーナ?」
 しわがれた声に、「うん」と返す。祖母がよろよろと、頼りない足取りで現れる。しわが増え、白髪が増えた。それでも祖母だとはっきりわかった。
 姿を見て、胸が苦しくなった。懐かしさよりも、申し訳なさが勝った。顔を見ていられなくて、うつむく。
「……ごめん」謝罪の言葉があふれ出した。「お父さんの仇、打てなかった。アニルも、警察も、壊せなかった。ごめん。一人にさせたのに、飛び出したっきり顔も見せなかったのに、なにもできなくて……」
「ミーナ!」
 祖母は叱りつけるようにそう言って、ミーナに駆け寄り、

 ミーナを抱きしめた。

 思ってもいなかった行動に、ミーナは自分よりずっと低いところにある白髪交じりの頭を見る。
「おばあちゃん……?」
「……すまんかったねぇ……」
 しわがれた声が胸に響く。
「タカツジジュウベエに言われた。『どうしてミーナのそばにいないのか』と。『ミーナにはあなたが必要だったのに』と。……そのときはわからなかった。お前を復讐に専念させる、それで正しいのだと思っていた。……でもな、気づいたんだ。お前は一度も泣いたことがなかったと、気づいたんだよ」
 祖母がミーナの顔を見上げて、ミーナの頬にかさかさの手を添えた。

「お前は、泣きたかったんだねぇ……」

 すまなかったと、祖母は何度も言った。
 ミーナは、肩が震えて、鼻の先が熱くなって、立っていられなくなって、思わず祖母に縋り付くように倒れかかって。
 十六年ぶりに、八歳の子どもみたいに泣いた。泣きじゃくった。
 その背中を、とんとんと、祖母が優しく叩く。
 アンジュだけではなかった。ミーナの近くには、ミーナを愛してくれる人がいた。どうして気づかなかったのだろう。なにも見えていなかった。
 どれほど泣いたのだろう。泣き疲れて、それでも十六年我慢した涙はまだあふれてくるけれど、「ミーナ」と呼びかけられ、顔を上げる。
「おかえり」
 しわしわの、泣きそうな顔で綺麗に微笑まれて、ミーナはぐしゃぐしゃの顔を袖で拭った。
「……ただいま、おばあちゃん」
 ミーナも綺麗に笑おうとしたけれど、やっぱり赤くなった目元と鼻では不格好だったかもしれない。けれど祖母は、愛おしげに微笑んで、やさしく頬を撫でてくれた。

 
 小さな自宅にミーナは一人でいた。祖母は仕事で出かけていた。
 ミーナは、ここでは居候のような状況だった。やはりなにかしなければと申し出たが、しばらく休めと、祖母は笑った。十六年も頑張ったのだから、と。
 それでもなにもしないのは申し訳なくて、食器を洗って掃除をしたが、小さな家はあっという間に片付いてしまった。チェアに腰掛けて、ポケットに手を突っ込む。
 取り出したのは、銀色の花の髪飾り。アンジュが隣にいた証拠は、もうこれしかなかった。クリスマスに贈るには季節外れな気もしたけれど、小ぶりでかわいらしい、愛おしさを感じさせる花は、アンジュにぴったりだと思ったから、街で見かけたとき思わず買ってしまった。
 アンジュはどこかにいる。そう信じていたが、聖からはまだ連絡がない。もういないのかもしれない。どこかで諦めかけている自分がいた。
 再起しなければ、生き直さなければと思うのに。連絡がなくても、アンジュがいたことは、アンジュがミーナに生きて欲しいと願ってくれたことは間違いないのだから。それなのに、わかっているのに動き出せない自分が情けなかった。

 

「もう身体は大丈夫そうだな、ミーナ」

 

 不意に声をかけられて、ミーナははっと顔を上げる。
 長い黒髪に、この暑い地域では浮いて見える黒いロングコート。
 いつからいたのだろう。魔王陛下の圧倒的な存在感に、今まで気づかなかったことが不思議だった。
「シジョウ、リヒト…… あんた、意識取り戻したの? 最後まで寝てたからてっきり戻らないんだと……」
「……」
 理仁は、駐車場で別れた最後まで眠っていた。桜の手でバンに荷物のように放り込まれて、『ちょっとアネキ、荷物じゃないんだからもう少し丁寧に……』『お荷物なんだからこれで合ってるでしょ』『桜、お荷物っていうのは文字通りの荷物って意味じゃねぇぞ』なんて三人が話している間も身じろぎひとつしなかったのだ。
 理仁はこほんとひとつ咳払いして、「『ネット人格』で人格を現実世界から移動させていた。『ネット人格』を解けば元に戻る」と説明した。
「報告したかったのはオレの無事ではない」と切り出されて、ミーナはこくんと唾を飲んだ。ミーナにももちろん、彼が、約束していた連絡役なのだとわかっていた。
「……アンジュは……?」
「残念だが、……オレたちには、見つけられなかった」
 ――目の前が真っ暗になった気がした。心臓の音がやけに大きく聞こえた。
 理仁は淡々と続ける。
「聖が探し回っても、ネットの海は広すぎて、手がつけられなかったらしい。目の前でいなくなったアンジュをオレはすぐに探そうとしたが、ネットの海に慣れなかったオレはむしろ彷徨っていた。そこを、……彼女が、見つけてくれた」
「……え?」
 俯きかけていた顔を上げて、彼の目を見た。金色の視線がまっすぐにミーナに向けられている。
「彼女はオレを見つけて、聖のもとまで連れて行ってくれた。彼女は状況を把握すると、貴女のもとへは帰れないこと、ノアの箱船とともに行くことを承知してくれた。その代わり、貴女に届けて欲しいと、それを預かってきた」
 理仁がミーナの後ろを指差す。ミーナが振り返ると、デスクの上に、小ぶりな青い花を散りばめた、小さな栞がぽつんと置かれていた。先ほどまでなかったはずのそれを引っ掴むように手にとって、震える手で裏面を見る。

『ずっと、友達だよ!』

 印刷されたものだけれど、あの子の文字だ。無事だったのだ。それがわかって、目頭が熱くなる。
 あの子はこの世界のどこかにいる。
 それだけで十分だった。それだけで自分は前に進める。

 ……しばらく栞に見入っていた。そして、礼を言わなければと気づいたミーナが振り返ったときには、魔王の姿はそこになかった。

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