月曜日。亨は例のごとく、時間ギリギリに女子寮の前に到着した。
「もう少し早く起きればいいだけではありませんか」
「小野さんはそういうの得意そうだけどね。俺は布団が恋人なの」
『トオルったら何言ってるの? トオルは恋人なんていたことないじゃん』
頭の中に響く余計な突っ込みは無視する。
ほたるには亨の頭の中の声は聞こえないので、余計な突っ込みとは関係なく凛とした声で「そうですね、任務で早起きしなければならないことも多いので」とすました風に言う。
亨は友人たちとの雑談を思い出した。
「任務って、日本支部での仕事でしょ? 小野さん、なんか偉いって聞いたけど」
「偉くなんてありません、一介の捜査隊員です」
「でも、準二等って聞いたよ」
亨はほたるの制服の胸元に、銀色の星が二つ輝いているのを見つけて確認する。
ほたるは何でもないと言った様子で、「確かに、ハイスクールで準二等はわたしだけですが」と答えた。
「平然と言うけど、それってすごいんじゃないの?」
「すごくなんてありません。わたしはまだまだです。わたしより優秀な隊員は何名もいます」
ほたるはさっさと歩き出した。亨はそれを早足で追いかける。
ほたるの頬は、亨には気づかないほどだったが赤く染まっていた。
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ほたるは緩みそうになる頬を引き締めて、亨より先を歩く。
(……すごいだなんて言われるのは、やはり慣れません)
ほたるはむず痒く思った。
ほたるが準二等の階級を与えられたとき、クラスメイトの反応は様々だった。
ハイスクール生に不相当な地位だと陰口を言う者。
戦闘に関わることになることを可哀想だと言う者。
どんなコネクションを使ったのかと不躾に訊ねてくる者。
いろいろな声があったが、最終的に
『まあ、小野さんなら当然だよね』
という結論に落ち着いた。
プライマリースクール時代から同じ教室で同じ授業を受けてきた者同士、お互いの能力はそれなりに把握していたし、ほたるが飛び抜けて優秀だったことはクラスメイト全員が認めるところだった。それに対する反応は、僻む者、羨む者、取り入ろうとする者、様々だったけれども。
少なくとも、純粋に「すごい」だなんて言う生徒はいなかった。
それは、亨がいままでSLW能力者とは無関係の、普通の人間の生活をしていたから、あるいは、まだ自分の能力が何なのかわからないから。僻んだり羨んだりすることなく、単純に彼女自身の能力を認められていることについて「すごい」と言えたのだろう。
実際には、ほたるより優秀な隊員など数えきれないほどいるので、その言葉に大した価値はないのかもしれないが、ほたるは純粋に嬉しかった。
そんなことを考えていたからか、普段は勘の鋭い彼女も気づかなかった。
ほたると亨が入って行くコンビニの駐車場に停められた黒いワンボックスカーから、ふたりをじっと見つめている影があったことに。
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ほたるがいつも通りのミックスサンドと紙パックの紅茶を買って、先にコンビニを出ると、車道を挟んだ反対側に人がうずくまっているのが見えた。
時刻は朝の六時半過ぎ、まだ他に人影はない。
コンビニを出ればすぐに亨も気づくだろうと、亨には声をかけずに、うずくまっている人影に近寄った。
「あの、どうかなさいましたか?」
躊躇いがちに声をかけると、人影が顔を上げた。
長い黒髪をうなじでまとめた、特徴のない顔つきの女性だった。
女性のお腹が大きく膨らんでいる。
「妊娠していらっしゃるのですか? どこか苦しいとか?」
ほたるが目線を合わせるためにアスファルトに膝をつくと、女性は力無さげに微笑んで、「ちょっと、目眩がして……」とか細い声で答えた。
ほたるは悩んだ。店に戻って大人を呼ぶべきか、それとも救急車か、家族に連絡する方がいいのか……
とりあえずポケットからスマートフォンを取り出すと、「救急車を呼びましょうか? それともご家族に連絡しましょうか?」と女性に訊ねた。
女性は「大したことはありません、ちょっとすれば主人が来ます」と首を振ったが、すぐに「う……」と口元を押さえた。吐き気がするのだろうか、とほたるはできるだけ優しく女性の背中を擦る。
ほたるには死角になるところで、女性がほたるに向けて小型銃を構えていた。
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時刻は三分ほど遡る。
亨は新商品の銀鱈むすびと定番の焼たらこむすびのどちらにしようか悩んだ末、たまには冒険してみるかと、新商品と緑茶のペットボトルを選んで会計をすませた。
ほたるを探したが、店内にはいないことに気づき店を出ると、車道を挟んだ反対側に見慣れた白い髪の女の子を見つけた。誰かを介抱しているらしく、こちらに背を向けて、左手で背中を擦っている。何事かと駆け寄ろうとしたとき、背後から口元を押さえて引き寄せられ、両手首を後ろでまとめて掴まれた。
「む……ッ」
「黙って。命が惜しければ」
耳元で女性の声がする。言われなくても、亨は自分でも情けないことにパニックになって声を出せなかった。
手のひらの厚みや力強さから、自分を取り押さえているのは男性で、声の聞こえた方向から女性は亨の左隣にいることを察した。
「あなたについて来てもらいたいところがあるの。反抗すれば彼女の命はないわ」
女性が淡々と告げるのを、亨は眼を見開いて聞く。この場で彼女と言うのはおそらくほたるのことだろう。女性がほたるとうずくまっている女性を白い手袋をはめた手で指差す。
亨も視力は良い方なので、車道を挟んだ距離にあっても、うずくまっている女性が右手で握っている得物が見えた。
『あれ拳銃だよね⁉ なんであんな女の人が持ってるの⁉』
頭の中の声はパニックに陥っているが、亨にだって律儀に答えている余裕はない。
「スマートフォンは? 持っているでしょう、出しなさい」
両手を掴む力が緩んだので、亨は大人しく、胸ポケットから青い機体を取り出して女性に渡す。
女性はそれを躊躇いなくコンビニ前のゴミ箱に捨てた。
「芳香 、眠らせて」
女性がそう言うと、どこからか甘い香りが漂ってきた。
「トオル、寝たらダメだよ!! 連れて行かれちゃうよ!!」
頭の中で声ががんがんと響くが、亨には瞼が重くなって落ちて行くのを止められない。
「千里眼、完了しました」
「連れて行くわよ」
意識が薄れて行く中で、そんなやりとりが聞こえたのを最後に、亨は深い眠りに落ちた。
ワンボックスカーは亨たちを乗せて、何事もなかったかのように、コンビニの駐車場を出て行った。
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さて、女性はしばらくすると、「ありがとう」とほたるに礼を述べて立ち上がった。
「もういいのですか?」
「おかげでだいぶ楽になりました。主人が待っているでしょうから、もう行かなくては」
ほたるは女性の顔を覗き込む。確かに、発見した当初より顔色は良くなったように見える。
それでも不安を拭いきれず、ほたるは申し出る。
「お見送りしましょうか。また気分が悪くなったら……」
「お優しいのですね。でも大丈夫です。ありがとう」
女性がにっこりと微笑むので、ほたるは引き下がることにした。
そっと、小さな白い封筒が差し出される。
「……? これは?」
「ほんのお礼です。困ったときに開けてみて下さい」
ほたるはわけもわからないまま、とりあえず受け取った。
「それでは」
一礼し、女性は立ち去った。
女性が角を曲がるまでその後ろ姿を見送ったところで、はたと。
「……そういえば、佐倉さん、遅いですね……」
ほたるは亨を探しにコンビニに戻るが、店内には商品を陳列する店員が二名いるだけで、肝心の高校生は見つからなかった。
先に学校に向かったのかと思ったが、あの少年が、店の前にうずくまった女性とそれに寄り添うほたるを放ってひとりで登校するとは考えにくい。
ほたるはコンビニを出ると、スマートフォンをもう一度取り出し、亨が転入した日に交換して以来使ったことのなかった連絡先を探し出す。
呼び出し音が数回鳴った後、どこからかよく聞く初期設定のままの着信音が響いた。
驚いて振り向いた先には、かなりぞんざいな分別基準で、横に三つ並べられたゴミ箱。
制服が汚れるのも構わず、ゴミ箱からビニール袋を引き出した。
年増の店員がそれに気づいたらしく、驚いた様子で飛び出してきた。
それに答えることもせず、ただ無機質な着信メロディの音源を探す。
「……あった……」
耳障りな着信音を響かせる青い機体がほたるの手の中にあった。
ほたるは考えをめぐらせる。車道を挟んでいたとはいえ、店の前で暴行沙汰があったらほたるも気づくだろうし、なにより店員が飛び出してくるだろう。
何事かと訝しがる店員に、ほたるは詰め寄る。
「……ここで、男の子が誰かと話をしていませんでしたか?」
「え?」
「いつもここでおむすびを買って行く男の子です。誰か見かけた人がいないか、確認して下さい」
年増の店員が「なにを言っているんだこの小娘は」と言わんばかりの表情を浮かべているので、ほたるは苛つきながらブレザーの内ポケットを探った。
「緊急事態です、捜査の必要があります。ここで男子高校生が誰かと話をしているのを見なかったか、店員全員に確認して下さい。監視カメラの映像もお借りします」
常に携帯している『SLW捜査隊員証』を取り出すと、店員はようやく緊急性を理解したらしく、目を見開いて店内に取って返した。
それを見送ってから、ふと。
『ー困ったときに開けてみて下さい』
ほたるは、先ほど受け取った封筒を思い出し、嫌な予感がして封筒を開く。
中には、紙片が一枚入っていた。
中央に黒いインクで『Ⅳ』と印刷されているだけの、飾り気のないカード。
ほたるは震える手で自分のスマートフォンを操作し、目的の番号にコールした。
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須藤俊彰は書類が重ねられたデスクの上で突っ伏していた。
瞼が閉じそうになる、そのまま眠りについてしまいたい、そう思っていたときに、待機室に響く機械音に気づく。
(あー、ケータイ鳴ってる……)
がさごそと書類に埋もれたスマートフォンを探し出す。数十秒ほどかかったが、その間も着信音は辛抱強く鳴り続けていた。
発信者の名前を確認する。
「ホタル……?」
須藤は時刻を確認する。午前六時四五分。多くのハイスクール生は朝食を待っている時間だが、早起きが身に染みついたほたるは、すでに登校している時間だ。
嫌な予感がして着信に応答する。
「待たせてすまない、須藤だ。どうした?」
「小野準二等です。申し訳ありません、佐倉さんを見失いました。状況からして誘拐されたのではないかと」
須藤は淡々と告げるほたるの声に一瞬目眩がしたが、すぐに気を取り戻して「状況を説明してくれ」と命じる。
ほたるは、今朝起こった出来事を時間軸に沿って、端的に説明する。
須藤の表情は、段々と険しいものに変化していった。
「そうか。お前はコンビニの映像引き取ったら、直接支部に来い」
「はい。それから、隊長…… わたしは資料で見たことしかないのですが、これは……」
「ああ、ひょっとするとひょっとするかもな」
『Ⅳ』の文字がプリントされた紙片。これが示すものは。
「ビッグ4による犯行の可能性がある」