金髪碧眼の仏頂面が、自分より頭二つほど背丈の高い隊服たちに構うことなくずんずんと廊下の真ん中を歩いていれば、それはそれなりに目立つわけで。
『一番隊の金糸雀がなにやら御機嫌斜めらしい』という噂は、どこをどう伝わっていったのか知らないが、不機嫌面で大人たちを押しのけてきた少女の前に気圧されることもなく立ちはだかった男の耳にも届いていた。
「久しぶりだな、エデン。マクレガーは変わりなかったか」
角から突然、影のようにぬるりと現れた神崎修に、エデンは慌ててよそゆきの笑顔を取り繕う。
「お久しぶりです、神崎のおじさま! パパね? パパは元気だったわ。変わったことといえばそうね。退役してから太っちゃったって、毎朝ベティとジョギングし始めたことくらいかしら」
小鳥のように可愛らしく振る舞ってみても、神崎はにこりともせず「そうか」とだけ返して用件を切り出す。
「何やら部隊で納得いかないことがあるようだと、小耳に挟んだのでな。マクレガーの娘だ、私に話せることなら聞こう」
頭の上から降ってくる視線はまるで雹だ。冷たくて、痛くて、逃げ出したい。
おじさま、なんて親しい間柄かのように呼んでいるが、実のところエデン本人は神崎が苦手だった。
エデンの父は元アメリカ支部のエージェントで、日本支部と共同で当たった任務中に出会って以来、神崎とは個人的に付き合いがあるらしい。しかしエデンは、父も娘同様、神崎が苦手だと知っている。エデンがSLWのエレメンタリーに入学するまでは、毎年のクリスマスに随分高価そうなおもちゃが送られてきたものだった。父がそれをどう扱うべきだろうと母に相談していたのを、エデンも幼いながらに目にしていた。エデンだって、壊したら怒られそうな三階建てのドールハウスなんて遊び道具にできるわけがない。大人の目にも精巧にできたおもちゃたちは飾られるわけでもなく、今も実家の屋根裏で眠っている。高校生になった今ならエデンも確信を持って言える、父は神崎のプレゼントを歓迎していなかったのだと。
もう父は退役したのだし、エデンにとっても大した恩があるわけではない。父はエデンの日本行きに際して神崎に一応の連絡を入れたらしいが、連絡した方もされた方も社交辞令くらいにしか思っていないはずだ。だから、にこにこと「おじさま」なんてありもしない親しみを込めて呼ぶ必要は、本来ないはずだとエデンも思うのだ。
それなのに今でも「おじさま」と呼んでいるのは、礼儀を重んじる母の言いつけだった。曰く、『人との出会いは一期一会。パパから続くご縁を大切になさい』らしい。エデンの頭の中のルールブックには、母の数多の教えが書き込まれている。
自分で皿に取り分けたおやつはきれいに食べ切らなければならない
他の生物の命である食べ物の好き嫌いをしてはならない
自分がされて嫌なことを他人にしてはならない
クリスマスカードは手を抜いてはならない
人との縁を大切にしなければならない
いつも笑顔でいなければならない
お礼の手紙を忘れてはならない
エトセトラエトセトラ
これらをすべて遵守している母は素直に立派だと思うけれど、ときどき窮屈に感じることは否定できない。エデンの中ではすでにいくつか破綻していた。嫌いな人はアメリカ国旗の縞の数よりずっと多いし、嫌いな食べ物なんてアメリカ国旗の星の数の倍より多い。
それに、目の前に氷山みたいにそびえ立つ神崎に接している今だってそう。無理な笑顔で明日は筋肉痛になるんじゃないかと心配になる。
さて、思考が遠回りしてしまったが、神崎にはなんと答えようか。まさか隊長の須藤を貶すわけにはいかない。色々と話が通じないことはあっても決して意地悪でやっているわけではなく単純にエデンの乙女心がわからないだけであって、本人は一本芯の通った真面目な人なのだ。
そうだとも、須藤隊長が悪いのではなく、須藤隊長に直談判するに至った諸悪の根源はあの転校生だ。
「部隊では須藤隊長が気を使ってくださってるから大丈夫! 帰ってきたらクラスに、ちょっと、苦手な子がいたってだけで……」
「転校生か」
「あら、おじさまもご存知なの?」
一介のジュニア隊員に過ぎないのに、まるで有名人だ。こっちが流行に乗り遅れたみたいじゃないかと不快度数が跳ね上がる。
「『アレ』の入隊式は時期外れだったからな。顔は知っている」
「ああ、そういうこと!」
両手の指を胸の前で軽く合わせて納得のポーズをしてみるが全然納得なんてしていない、時期外れの新人のためにわざわざ入隊式を行っただなんて。しかも、特別に入隊式を行うなんて支部長である神崎本人が決定したに間違いないではないか。「顔は知っている」だけではないはずだ。
「あの子、こう言ってはなんだけどちょっと馴れ馴れしいところがあって、あたしには合わないのかなー、って。今度一緒にハイキングに行こうだなんて言われたのよ、だからどうやって断ろうかなって、考えてたら難しい顔しちゃってたのかも。こんなブサイクな顔、ママが見たら悲しませちゃうわね」
ギリギリで嘘は言っていない。自己解決してしまえば神崎も解放してくれるだろうと踏んで笑顔で締めくくったが、神崎は意外にも興味を示した。
「ハイキングか? お前の年頃は遊びといえば街に出るものと思っていたが」
「だって、ほたると美鈴…… 小野準二等と鏑木三等ね、マジメなふたりも一緒なんだもの。映画は趣味が合わなきゃつまらないし、買い物だってそうよ。ゲームセンターとカラオケは保護者同伴が校則でしょ? だから山に行くんですって」
そうか、と神崎の視線がエデンから離れて、エデンの向こうのどこかの空間に移った。この隙に逃げたいと走り出しそうな足をどうにかその場に押し付けて耐える。
「……山は毒虫や獣もいる、気をつけなさい」
冷たい視線がもう一度エデンを撫でたあと、昔の知人の娘のことなんてちっとも心配していないだろうに形ばかりの優しい忠告が放り投げられた。軽く右手を挙げて立ち去ろうとするので、エデンも胸の前で手を振って応える。
「さよなら、おじさま。心配してくれてありがとう」
広い背広が視界の端に消えたあと。
「はぁ〜……」
肩の力を抜いたら、同時に肺に溜まっていた空気がどっと流れ出ていった。こめかみの筋肉がピクピクするのは笑顔で引きつらせていたせいかな、本当に筋肉痛になったらどうしよう、明日も学校でほたるたちと会うのに。ていうかさっきの会話、さりげなくピクニックに行くこと決定されてなかった? 危機が去った安心感と同時に疲労感が身体中に広がった。
腕時計はとっくに寮の夕食の時間を回って、急がなければ門限に間に合わない時刻を指していた。
「……帰ろ……」
重い足を引きずって少女が立ち去った廊下の真ん中には、高価そうな整髪料の品のよい香りが、まだ消えることなく漂っていた。
❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃
支部長自ら一介のジュニア隊員の元へ様子を見に行くなど、本来であればありえない。神崎という人間は隊員との馴れ合いを嫌悪しているのだからなおさらである。エデンとは知人の娘という縁があるとはいえ、目立つ行動を採ってしまったと、神崎は上階へ向かうエレベーターで一人、苦々しく思った。しかし、エデンは小野ほたるに繋がる貴重な情報源である。動きがあったのならばすぐにでも接触する必要があった。方法の相当性と必要性を秤にかけて、自分を納得させた。
大昔に出会った外国の元エージェントはあまり役に立たなかったが、その娘はなかなかよい働きをしてくれる。独占欲が強く、直接に指示を下さなくとも小野ほたるとクラスメートの接触を遮断した。ほたるの記憶の秘密を長期間に渡り同じ空間で過ごす生徒たちに気づかせなかった、神崎にとっては功労者である。
加えて、彼女らの世界は三人だけで成り立っていたから、彼女らの世界に起こる出来事はエデンを通して観察できた。エデンの様子に変化があったらそれは大なり小なり小野ほたるに影響されてのことだった。稀に、敵視しているらしい恩田美雪の影響によるものもあったが、美雪もそれなりの『重要人物』である。情報は得ておいて損はない。
逆に言えば、須藤らに警戒されている現在、神崎にはエデンを経由することなしには小野ほたるという少女の動きを読めなかった。今回、ほたるがSLWの ─── 否、須藤の監視を離れると先んじて察知できたのは、僥倖に恵まれたと言ってよい。ただし。
「……失敗は許されんな……」
エデンとの接触がいつ、どこから須藤らに伝わるかわからない。これから起こる『陳腐な事件』に神崎の息が掛かっていると糾弾させるだけの証拠はもちろん残さない、だとしても、須藤がエデンというパイプに気づけば二度とこのような好機はないだろう。
等間隔で数字を刻んでいたモニターが目的の階で点滅し、到着を告げる。開いたドアの外で待機させていた秘書官が敬礼し、無言で進む神崎の後ろに付く。部屋に戻りしな、捜査官と寮母の非公式回線に繋ぐよう指示する。有能な秘書官は、神崎が支部長室のチェアに腰掛ける頃には用意を済ませているはずだ。
どの駒を使おうか。当然、最小のコストで最大の利益を、
─── 無意識に足が止まる。秘書官は無表情で神崎に倣った。
不意に脳裏をよぎったのは、陽だまりの光をたたえた忌々しい瞳。
ちっぽけで、まだ何も知らないくせに一人前に度胸だけはあるらしい、少々毛色の変わった駄犬が。
ひとりきりの入隊式で神崎に向けた、あの ───
そう、佐倉亨もいる。この三ヶ月でどれほど成長したのか確認するのも悪くない。佐倉亨本人のポテンシャルに加えて、その実技指導者である恩田美雪の手腕も把握しておきたい。
何事もなかったかのように再び歩き始める。秘書官の足音が付いてくる。
足が止まったのは思考に集中したからか、それとも、ここに在るはずのないあの視線に気圧されたのか。
見定めなければならない。今のうちに。