寮生活で使うことなどほぼなくなった定期券機能付きICカードに、数百円足せば実家に戻れるくらいの額が残っていたのは、やはり日頃の行いが抜群に良かったからに違いない。そうとでも思わないとやってられない。
しかしながら電車を乗り継ぐこと二時間と少し。故郷が近づくにつれ、だんだんと心細くなってきた。
（……マモル、俺ってもしかして、地元でも忘れ去られてる？）
電車で向かいの席に一人で座っている女の子は、中学時代のクラスメイト。三年間同じクラスだったからそれなりに話はしたし、亨としてはわりと仲のよい相手だったように思う。
ドア横の手すりに背を預けてスマートフォンを見ている背の低い学ランは、小学校でサッカークラブのメンバーだった。彼は中学から私立に行ったが、実家は近かったので長期休暇になると友達を集めてよく遊んだ仲だ。
昼過ぎに乗車しているところを見ると、今日は授業はないのだろうか。定期テストか、模擬試験か、それとも保護者面談とか。そういえばこのまま忘れ去られたら単位とか進級とかどうなるんだろう、対応してもらえるんだろうか。学校に帰れるかどうかも不確定なのにそんなことを考えている自分がちょっと可笑しい。
『うーん。サトミちゃんもタクマくんも、トオルのこと見もしないね。ママさんの様子を確認したかったけど、これはあまり期待できなさそう……』
自身の電子上の記録を確認できた亨が、次に確認したかったのは「魔法の距離的効果範囲」。魔王による亨の存在消去がどこまでの範囲に適用されるのか、そして、母と妹の無事を確かめたかった。
『……確かめるより先に、気が滅入るね……』
目的駅で降りていく旧友たちの後ろ姿を見送って、亨とマモルは静かにため息を漏らした。
＊＊＊
最寄駅から徒歩で二十分。小・中学校までは子どもの足で十五分掛からないほど、近所には小規模展開している地域密着型スーパーと大手のドラッグストアがあるため買い物に困ることはなく、大きな道路から離れているため安心だと当時の子育て世代に人気だったらしい、古くて小さな住宅街が亨の故郷だ。
地元のものでない制服姿の亨に、向けられる視線はあまり暖かいものではない。視線から逃れるように小走りで実家へと向かう。
駐車場に母の軽自動車がないことを確認して、そっと外扉を開けようと手を伸ばす。
「お兄ちゃん、うちに用事？」
「……！ さゆ……！」
慌てて口元を覆う。
ぱたぱたと軽い足音とともに駆けて寄ってきたのは、ぴかぴかのランドセルと黄色い通学帽、キャラクターもののヘアゴムでまとめたふたつ結びが愛らしい、亨の妹。佐倉さゆりであった。
さて、どう誤魔化そう。
亨の思考はまず、怪しまれずにこの場を去る方策を探した。知人の家を探している訪問者を装う？ 子どもに道を尋ねるなど間違いなく不審者である、却下。「脱炭素社会の実現に向けたみなさんの取り組みを取材してて……」小学生相手に取材なんて怪しすぎる、却下。「遊んでいたら庭にボールが飛んでいって……」日曜夕方御長寿アニメ一家の長男か、却下。
「ていうかお兄ちゃん、学校は？ 休み？ 帰ってきたの？」
きらきら、きらきらと目を輝かせるかわいい妹に嘘をつくなど亨の良心が軋みを上げて砕けそうだ。
「休みっていうか…… ちょっと帰って……」
（……帰って？）
マモルが首を傾げ、亨も気づく。
彼女は、帰ってきた、と言った。
「さゆ、変なこと聞くけどごめん。俺のこと覚えてる？」
「……お兄ちゃん、さゆのこと馬鹿にしてる」
溢れんばかりの笑顔から一転、むっすり不貞腐れてしまった妹を、亨は思わず抱きしめた。
「さゆ！ 大好きだー！」
「お兄ちゃん！ 恥ずかしい！ きもい！」
今さら多少の罵倒では傷つかない亨だったが、ご近所の目もあるのですぐにさゆりを開放した。
『トオル、審美眼でサユを観て』
（審美眼で？）
マモルに指示されるがまま、須藤の異能を借りてさゆりを観る。
さゆりの全身を、見たことのない色が覆っていた。
（えーっと、これは……？）
『サユも異能者だってこと。たぶん、この異能のおかげでリヒトさんの魔法を免れたんだ』
亨も「学習」によってさゆりの異能力を分析する。するすると紐解く、その根源にあったのは、本人にとって不利益な変化を拒絶する異能。
「無効化、か」
使えるかも。そう呟く亨を、さゆりは不思議そうに見上げている。
『……今回はサユが特殊だっただけ。ママさんもみんなと同じだと思う』
マモルは悔しそうに言うが、亨にしてみればさゆり一人でも自分を覚えていてくれただけで十分心強かった。
「さゆ、母さんは？」
「ママは先生と話してる。さゆは先に帰って、いまからまなちゃんのおうちで遊ぶの」
どうやら今日は保護者面談らしい。さゆりだけ先に帰してもらったのは亨にとって好都合だった。
「じゃあ、まなちゃんの家に行く前に、兄ちゃんと少し話をしような」
＊＊＊
母が戻って来る前に、手早く着替えとモバイルバッテリー、こっそり貯めていたお年玉と、それにタオルを数枚、スクールバッグに詰め込んだ。しばらく学校に行けないのならと、教科書にノート、思い切って脱ぎ捨てた制服もこのまま置いていくことにする。そういえば亨の存在を忘れた母は息子の部屋を見てどう思うのだろう？ 関心はあるが観察していく余裕はない。
「さゆー、兄ちゃんそろそろ行くから話聞いてくれる？」
「うん」
ランドセルを置いて、遊び道具とハンカチを詰めたリュックを背負い、麦茶を入れた小さな水筒を首にかける。幼稚園時代から変わらない、遊びに行くときのさゆりだ。
「帽子あるだろ、かぶって行けよ？ それで本題だけど、いま、兄ちゃんは…… かくれんぼをしています」
かくれんぼ。
さゆりのおうむ返しに、亨は「うんうん」と満足げに頷く。「とーっても強い相手とのかくれんぼなんだ。だから、兄ちゃんが家に帰ってきたことも、母さんには内緒」
さゆりは神妙な面持ちで頷く。これで、さゆりが「実在しない兄に会ったと話す妙な子ども」に認定される恐れは回避できる……と、思いたい。
「とっても強い相手って、だれなの？」
「魔王さんっていう人。兄ちゃんは魔王さんから隠れなきゃいけないんだけど、頼りになる仲間が捕まってるから、助けにも行かなきゃいけない。だから」亨は少しの時間、考えてから、「……だから、『ＳＬＷの須藤さん』が来るまでは、兄ちゃんのことは話しちゃダメ。須藤さんになら、話していい」
「エスエルダブリューの、スドーさん？」
「そう」若干心許ないので、手元のノートを千切って書いてやる。「ＳＬＷ の すどうとしあきさん」。
「須藤さんは兄ちゃんの上司だった人。たぶん近いうちに家に来ると思う。さゆを見たら、きっと助けてくれるから」
須藤なら、さゆりの異能を審美眼で見つけて、いま起きている異常を察知してくれる。あまり支部の外に出る人ではないから、それだけが懸念材料だが。
不安げな視線を向ける妹に、にぱっと笑ってみせる。「大丈夫、ただのかくれんぼだから」
「ほんと？」
「本当。……ちょっと長くて本格的なだけ」
下手な嘘が心苦しいけれど、結局最後まで誤魔化すことしかできない。
『トオル、そろそろ時間だよ』
「よし、まなちゃん家に行こっか」
キャップを深めに被り、妹の手を引いて部屋を出る。
玄関の手前で「あ、ちょっと待って」居間に戻って仏壇の前でキャップを取る。
「護、……」
写真の少年になにか言おうとして、けれどなにを言っても違うような気がして。
「見守ってて」
これも厳密には違う気がするけれど、他に適当な言葉を思いつかなかったから、笑って誤魔化して玄関まで走った。