第2話 菫色

 時刻は午後十時。

 白い肌に、同じく白い、肩までの長さの髪を編み込んでうなじでまとめた、すみれ色の瞳の美しい少女が、SLWハイスクールの制服を身にまとって、ひとり、暗い夜道を歩いていた。

 暗闇でも目立つその姿に、家路を急いでいた会社員の集団も足を止めて振り返り見た。少女はそれを無視してやや早足で目的地に急ぐ。

 SLW日本支部のビルの前で、一つ深呼吸をしてから、夜間用出入り口のICカード認証端末に自分のカードをかざす。端末のライトが赤色から緑色に変わる数秒の間に、ドアを開けて中に入った。

 日中は捜査隊員が行き交う廊下も、この時間帯になれば静まり返っていた。少女は目的の部屋までの最短ルートを思い出しながら、リノリウムの床を足音を立てずに歩く。

 やがて『TOSHIAKI SUDO』のプレートが掲げられたドアの前にたどり着く。そこでもう一つ深呼吸をして、ドアを四回ノックした。

「はい?」ドアの向こうで、部屋の主が疲れたような声で訊ねる。

「小野準二等捜査隊員です」少女は凛とした声で答えた。

 入っていいぞ、と命じられ、少女ー小野ほたるはそっとドアハンドルを引いた。部屋の主である須藤俊彰第一捜査隊隊長は、欠伸をかみ殺しながら「夜分に呼び出してすまないな」と一言詫びた。

「いいえ」ほたるは表情を変えずにそう返した。「佐倉亨の件でしょうか」

「ああ、最近どうだい? 元気にやってるか?」

「問題なく学校生活に順応しているように見えます。トラブルも今のところ聞きません」

 ほたるは短く報告する。須藤はうん、うんと頷きながらそれを聞いた。

「それなら結構なんだけどな。ほら、ハイスクールから転入するって滅多にないからさ。好奇の目で見られるんじゃないかと思うんだ」

「一部にはそのような生徒もいるようですが、本人は気にしていないようです。自分にも何が何だかわからないのだから仕方がない、と言っていました」

 須藤は「そうかー」と頭をかきながら天井を仰いだ。そのまま目を瞑って考え込む。

 ほたるはそれを邪魔しないようにと黙っていたが、やがて目を瞑った須藤の首がかくんと力が抜けたように後ろに倒れたのを見ると、一つ咳払いをして上司の名を呼んだ。

「須藤隊長。随分長い間ベッドで寝ていらっしゃらないようですね」

「……っ、すまんすまん」

 須藤は恥ずかしそうに頭をかきながら目を開いてほたるに向き合う。

「何日帰っていらっしゃらないんですか?」

「まだ五、六日なんだけどなあ」

「お言葉ですが、捜査活動に影響が出ます。今夜はもう退勤された方がよろしいのでは」

 須藤は「そう言われても仕方がないよなあ」と苦笑する。しかし、ほたるがにこりともしないのを見て、表情を引き締める。

「報告の途中ですまない。佐倉亨について何か気になることはないか?」

「これといって、特には」ほたるはまるで関心がないかのように答えた。

 須藤は内心で苦笑する。

(監視対象に関心がないって、ちょっと問題だよなあ……)

「遅くにすまなかったな。結果が出るまでもうしばらく監視を続けてくれ」

「承知しました」

 ほたるは小さく頷くが、一瞬そのまま退出しようか迷ったように視線をドアと上司との間で彷徨わせたあと、「あの」と呟くように言った。

 須藤はそれを聞き取って「何かあったか?」と訊ねる。

 ほたるはしばし躊躇ったように何もない方向を見ていたが、すぐに須藤と目を合わせて、訊ねた。

「佐倉さんの検査結果は、まだ出ないのでしょうか」

 須藤は、(なんだ、関心はあるのか)と少し驚いたが、表情には出さないで首を振った。「まだ、わからない」

「時間がかかりすぎているように思います。佐倉さんが転入してきてもう一ヶ月です。検査機関に何かあったのでしょうか」

「何もないよ。というか、正確に言うと一応の検査結果はもう受け取ってる」須藤がそう漏らすと、ほたるは整った眉をぴくりと跳ね上げた。

「結果はもう受け取っている……?」

「うん……、いや、あ……」須藤は「しまった」というように顔を覆って、そっとほたるに目をやった。ほたるは不信感を隠そうともせず上司に詰め寄る。

「どういうことでしょうか。検査結果が出ているのであれば本人に伝えるべきではないでしょうか。佐倉さんも気にしています」

 須藤は、ふう、と息を吐いて、散らかったデスクの一番上にあったクリアファイルを手に取る。

「本当は極秘事項なんだけどね。まあ俺の直属の部下だし、準二等隊員になら問題はないだろうし。でも、内緒な」

 クリアファイルからカラーで印刷された薄い紙を取り出すと、須藤はほたるにそれを手渡す。

 ほたるはそれを検査結果であると察して、そっと受け取る。極秘事項というからには、佐倉亨の異能は特別な能力なのだろうかと思って。

 しかし、結果を一瞥して、ほたるは想定していた検査結果とのあまりの違いに眉根を寄せた。

「血中Sn細胞測定『異常なし』、筋肉中Sn細胞測定『異常なし』…… 何ですか、これは? すべての項目でSn細胞は平均未満ではありませんか」

「そう、だから極秘事項なんだ」

 須藤は降参した、というかのように両手を上げた。

 ほたるはその意味を察して言葉を続ける。

「須藤隊長の能力によれば、佐倉亨が異能者であることは間違いない…… しかし、検査結果はそれを否定している。そのため、極秘事項扱いとされている、ということですか?」

「その通り。俺も支部長に何度も詰め寄られたけど、俺の目から見ればどこからどう見たって異能者なんだ。けど、本人に自覚はないし、気になることと言えば彼が言っていた『頭の中に響く幼い声』だけ。しかも検査結果は尽く『異常なし』…… 俺の目が悪くなったのかって、支部長に検査入院を勧められたよ」

 須藤は思い出したのか不機嫌そうにそう言った。

 ほたるは検査結果を須藤に返す。

「須藤隊長の能力に変化はないと?」

「お前まで疑うのかよ…… 簡易検査だけは受けた。結果はSn細胞測定値に『変化なし』。俺の異能はいつも通り、問題ないよ。で、ここまで聞いたお前の見解を訊ねたいんだが」

「……」

 ほたるは言うか言うまいか迷っていたようだが、すぐに決心したように答えた。

結晶型(・・・)、でしょうか」

「さすが、ジュニアハイスクール主席卒業生。ハイスクールでも成績優秀らしいな。うちの隊の自慢だよ」

「ありがとうございます。でも、結晶型など、サリヴァン博士にも発見できなかった理論上の現象ではありませんか。こんなところで発見されるだなんて信じられません」

 ほたるは首を振って言った。須藤もそれに頷く。

「そう、支部長は信用しようとしない。それを押し切ってドイツの本部研究室にサンプルを送ったんだ。だから検査結果は二ヶ月から三ヶ月はかかる」

 ほたるは呆然と「二ヶ月から三ヶ月……」と呟く。「……その間、わたしはずっと佐倉さんを監視し続けなければならないのですか」

 須藤は頭を大きく下げて、両掌を頭の上で合わせた。

「すまん! 支部長を説得するのに時間を取られた! まさかあそこまで信じてくれないとは思わなかったんだ…… 大変だろうが、その分捜査活動は控えめにするように調整するから、頼む!」

 須藤が情けない声で詫びるので、ほたるは溜め息一つでそれを受け入れた。「……承知しました」

「すまん! ありがとな!」

 須藤は顔を上げて、にっかりと笑う。

 ほたるは頷くと、ちらりと部屋の壁掛け時計に目をやり、「それでは、わたしはもう……」と呟くように退室を申し出た。すでに高校生が出歩くには遅過ぎる時分である。

 須藤の方も心配こそしていないが、部下に夜歩きをさせた点は気にしていたので、「ああ、引き止めて悪かった」と退室を許可する。

 一礼したほたるがドアハンドルに手をかけたとき、須藤が思い出したようにほたるを引き止めた。

「……何か、他にご用件が?」

 須藤は、ほたるが(珍しい)と思うほど真剣な眼差しで、訊ねた。

「……『結晶型』と聞いて、お前は何か感じないか?」

 ほたるは質問の真意を測りかねた。しばらく考えたが、何も思い当たらない。

「何も感じません。信じられないという思いです」

「そうか。なら、いい」

 須藤がそう言ったので、ほたるはもう一度頭を下げて、今度こそ部屋から出て行った。

 

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「本当に覚えてないんだな…… さすがは長谷川さんの施術、といったところか……」

 部屋から出て行った部下を見送って、須藤は誰にも聞かれることはない独り言を呟いた。

 検査結果が出れば、支部長は佐倉亨を、小野ほたるをどうするだろうか。

 あまり良好とは言えない間柄の上司を思い浮かべ、須藤はそっと溜め息を吐いた。

 

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 佐倉亨の朝は忙しい。

 まず、出発の三十分前までベッドの中でごろごろしながら意識を浮上させる。やがて時間が迫っていることを確認すると、寮の洗面所に駆け込み顔を洗って歯磨きをする。それから部屋に戻り、十分前まで横になっていたベッドをそこそこきれいに整えて、制服に着替える。午前六時三十分に部屋を出て、女子寮に走る。

 女子寮の門扉の前にたどり着くのとほぼ同時に、門扉が開き、白髪の美しい少女が現れる。

「おはようございます。今日もギリギリだったようですね」

「……オノサン、オハヨウゴザイマス……」

 亨が半眼で睨むのを、ほたるは気にしたようでもなく歩き出す。亨もそれに続く。

 SLWハイスクールに転入した次の日から、彼女と登校し、学校でともに過ごすことが亨の日常になっている。

 

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「君も異能者だってね」

 須藤がそう言うのを、亨はぽかんと聞いていた。

 しかしすぐに我に返ると、「そんなはずはないですよ」と首を横に振った。「だって僕、検診で『異常なし』だったし」

「君が検診を受けたのは小学校入学時…… 十年も前のことだろう。時代は変化して、その後に従前の検査では発見できない新種の異能者が発見されたんだ。君も多分、それに近い異能者なんだと思う」

 須藤はさらりと答えた。その辺りの知識に疎い亨には反論できない。

 それに、と須藤はソファから立ち上がって亨に詰め寄った。

「君は何か抱えているようじゃないか。さっきの間は何だい? 誰かに何か囁かれたように見えたけど?」

「……!」

 バレてる。亨は背中に変な汗が流れるのを感じた。

 パニックに陥りかけている亨を、頭の中の幼い声が現実に引き戻す。

『トオル、ボクのことがわかるかも! 話してみようよ、何か知ってるかもしれないよ、このおじさん!』

 おじさんって歳じゃないだろ多分、と、亨は頭の中でわりとどうでもいい点に突っ込んだ。

 須藤は、返事をしない亨に痺れを切らしたのか、後ろでにこにこと微笑んでいる校長を振り返る。

「校長先生、彼には異能者としての素質があります。僕は彼のような人間を見たことがあります、間違いなく佐倉君は異能者です。彼の健全な成長のため、僕らSLWに引き取らせて下さい」

「お話はわかりました。ですが、佐倉君のご両親にもご説明をしていただけないかと……」

「もちろんです。先方のご都合がよろしければ今日中にでも」

 亨の与り知れないところで話が進んでいく。亨は思った。自分を救えるのは自分だけだと。

「あの、須藤さん……」

「佐倉君、ご両親とお話させて頂けるかな?」

「はい、父親は単身赴任しているのでいませんけど、母親は家にいると思います。あ、いや、そうじゃなくて、そもそも僕は生まれてこの方、特殊能力なんかに目覚めたことはありません!」

 亨は須藤の勢いに流されそうになりながら、必死で抗う。

 しかし、須藤はあっさりとそれを受け流す。

「能力によっては外面に現れにくいこともある。僕の能力だって、『異能者の能力を見分ける』だなんて微妙な能力だったから、僕自身気づいたのは君くらいの年頃になってからだったし、周囲に理解されるまではもっと時間がかかったよ」

 自分の能力を「微妙な能力」扱いするこの男は、どうやっても亨を組織で引き取りたいらしく、須藤はさらに言い募る。

「佐倉君、君はSLWを誤解しているようだけど、ハイスクールに入ったからと言って別に異世界に囚われるわけじゃない。異能者の健全な発達のためには、まず自分の能力のことを知らなければならない。そうでないと、異能犯罪者が佐倉君を見つけて、自分たちの仲間に引き入れようとしないとも限らないんだからね。それに、ハイスクールは異能についての講義が組み込まれている以外は、普通の学校だよ。転入生なんて滅多にいないから、きっとみんな仲良くしてくれるよ」

(逆だろ、小学校からお仲間同士の中に高校生になってから放り込まれたら普通孤立するだろ)亨は思ったが、須藤の勢いに逆らえない。

「それに、学費も生活費もSLWが負担する。お小遣いはお家の人にもらわないといけないけどね。経済的にも悪くない話だと思うんだ」

「そういう問題じゃありません。だってほら…… SLWハイスクールに入ると、一生監視されるとかって言われてるし……」

「それは卒業生との同意の上でのことだよ。まあ、ほとんどの卒業生は受け入れてくれるけどね。自分がいつ能力を狙われて攫われたりするかわからないから」

『ボクも、トオルが攫われるのは嫌だなあ……』

「お前は今関係ないだろ黙ってろ!」

 亨は口に出して叫んでから、はっと我に返る。

 須藤隊長の後ろで、校長の笑顔が固まっているのが亨にも見えた。

 頭の中の声は亨にしか聞こえない。今の状況を外面から説明するなら、「日本の平和を守る組織の偉い人に一高校生が『黙ってろ』と言い放った」ということになる。あまり穏やかではない。

 亨はそっと、自分より高いところにある須藤の顔に目だけを向ける。

 意外にも、須藤は気分を害した様子もなく、顎に手をやって思案に暮れているようだった。「うん、やっぱり何か聞こえているようだ。ということは感知系か、あるいは……」などとぶつぶつ言っている。

 須藤は校長に改めて向き直ると、「新垣校長」と口を開いた。

 亨の方はといえば碌に動かない頭で、(そう言えば校長の名前は新垣だったな)などとこの場に関係のないことを思い出していた。

「新垣校長、やはり彼には何かあります。ご両親には僕から説明をしますので、彼がSLWハイスクールに転入できるよう、速やかに手続きをしていただけますか」

 質問文の形式ではあるが、発言の強さには有無を言わせない力があった。

 校長は呆気にとられていたが、すぐに「はい、わかりました」と頷いた。

 その日のうちに、須藤は亨の母親と面会し、母親も須藤の勢いに飲まれて転入を承諾した。

 かくして、亨の「普通の高校」生活は四月の半ばであっけなく幕を閉じた。

 

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 亨とほたるは、短い通学路の途中にあるコンビニで朝食を買うと、SLWハイスクールの校舎に向かう。

 朝の七時まで待てば寮の食堂で食事を摂れるので待てばいいのにと亨が言うと、「騒がしいところでごはんは食べられません」と凛とした声で返された。

 亨とほたるは誰もいない教室に入ると、二人並んで窓際の席とその隣の席に着く。窓際がほたる、その隣が亨の席だ。

 ほたるは両手を合わせて「いただきます」と小さく言うと、買ってきたサンドイッチのパッケージを開けて、紙パックの紅茶にストローを指す。

 亨はそれを見てから、おにぎりのフィルムを剥がす。今日は焼鮭の気分だったのでそれを一つと、それだけでは足りないのでツナマヨも買った。

 しばらく二人とも無言で朝食を摂っていたが、せっかく人がいるのに喋らないのもおかしなことだと、亨は切り出す。

「もう一ヶ月経つけど、小野さんはいつまで俺のお世話係してくれるの? 主席だからって先生に押し付けられてたけど、いい加減飽きたでしょ。もうだいぶ慣れたから俺のことは気にしなくていいよ」

「そういう訳にはいきません。先生に言いつけられたからには先生がやめろとおっしゃるまでお世話させていただきます。それに、慣れたと言ってもまだ佐倉さんの能力はわからないままではありませんか。ここでの生活は、能力が判明してからの方が大変なんです」

 ほたるは口の中の物を飲み込んでからそう答えた。亨は(そういうものか)と無理矢理納得して、緑茶のペットボトルのフタを開ける。

 ほたるは寮で過ごす時間と授業が別々のとき以外は常に亨のそばにいる。亨に言わせれば監視されているようで動きにくいのだが、ほたるはあくまで担任の指示に従うらしい。

 亨の感覚では、そんな面倒な役を押し付けられたら適当なところで段々と手を抜いていくのが普通だが、SLWハイスクールというところはそういうところで真面目な校風なのか、ほたるが手を抜くということを知らないだけなのか、おそらく両方だろうと亨は思った。

 しかし、ほたるに助けられることは転入から一ヶ月経った今でもしばしばある。生物の授業とは別の、Sn細胞についての特別授業の前に、知識の全くない亨に「予習です」と言って勉強に付き合ってくれたのはほたるだけだ。

 初対面時こそ、その整った顔つきや肌の色の白さ、真っ白な髪にすみれ色の瞳という日本人離れした外見と、淡々とした言葉や行動にばかり目が行っていたが、一ヶ月も経てば外見にも慣れ、淡々とした言動の中にも優しさが垣間見えることに気づいた。

(ていうか、こんな可愛い子と一緒にいられるってだけでラッキーじゃん。それでよしとしよう)

『トオル。ボクには見えてるよ、シタゴコロ』頭の中の冷たい声は無視する。

 亨は食べ終えたおにぎり二つ分のフィルムを教室の隅に置かれたゴミ箱に捨てにいく。

 ほたるがそれを、監視者の目で見つめていることには気づかなかった。

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