ほたるに潜ませておいた分身が発動した。
いつかはこうなるとわかっていたから、きっと冷静に受け止められると思っていたけれど、そんなのは無理な話だった。理仁はかつて覚えがないくらい動揺していた。
拘束されるのは構わない。ただ、ずっと続くと思っていたふたりの旅がこんなに唐突に終わりを迎えるだなんて想像していなかった。自分が自由を奪われるのは、きっと彼女がいなくなってしまった後だと、何の根拠もなく信じていた。
戸惑ったとき、まず助けを求めるのはいつだって彼女だった。テントを出て月明かりを頼りに黒いジャケットの少女を探す。
彼女は野ざらしにしてある舞台セットの上で仰向けに寝転がっていた。理仁も軽い足取りでそこに上る。顔を覗き込んだら、紅の瞳と目が合った。
「どしたの?」
さして驚いた風でもない、彼女は勘がいいから理仁が来ることも予期していたのかもしれない。理仁は、胸の中に渦巻いているそれを言葉にできなくて、ただ一つの確定した事実だけを伝える。
「ほたるに仕掛けておいた術が発動した」
「ほたるは無事?」
「ああ」
「そう、よかった」
桜は勢いをつけて起き上がり、相変わらず空を眺めている。
理仁はその隣にそっと移動した。
「……じゃあ、行くんだ? SLW」
しばらくして、桜が話を再開する。理仁は小さく頷いた。
「このままでは、ほたるがオレと関わりを持っていることになる。だから、ほたるの手で、オレはSLWに連行されなければならない」
そこでまた沈黙が下りる。
自分からなにか言えば、この不安は解消されるのだろうか。ふと思いついたけれどなにを言えばいいのかわからない。自分がどうしたいのかも、ずっとずっとわからないままだった。そんな自分を導いてくれたのが彼女だったのに。
「……まあ、いつかはこうなるって覚悟してたし。アタシの心配はしなくていいわよ、アタシはどこででもうまくやるから」
先に口を開いたのはやはり桜だった。
迷いのない、いつも通りの耳に心地よい声。いつもより若干早口かもしれない。
「でも、十兵衛は連れて行きなさいよ。あんたが拾ったんだから。あんたが最後まで面倒見なきゃ」
「桜。貴女は、」
「アタシは、ここでまだやらなくちゃいけないことがあるの。ノアの箱舟に、アタシはまだ、借りを返しきれてないから」
だから、と一瞬声が震える。
けれど、理仁に向ける桜の笑顔は、いつもと変わらず、美しかった。
「お別れね、理仁」
そうか、お別れなのか。
珍しいこともあるものだ。彼女に訊ねても、胸のざわめきが収まらないなんて。彼女に訊ねて、今、むしろ悪化した気がする。病気ではないだろうが、これはなんだろう。
星が教えてくれるわけもないのに、どちらもなにも言わないから、ずっと並んで空を見上げていた。
ここが分岐点だとわかってしまったから、せめて、この最後の空を目に焼き付けておこうと。いつまでもいつまでも、ふたつの黒い影はそこに並んでいた。
忘却のニュンフェの正歌劇 了