第16話 勇気

「ナマエってなあに?」

 亨の問いかけに、見えない友人は不思議そうに問い返した。

 亨は少し考えて、「君は人からなんて呼ばれているの?」ともう一度訊ねた。

「君」

「それは名前じゃないよ。もしかして、名前がないの……?」

 うーん、そうなのかなあ、と友人は戸惑ったように答えた。

 そのとき、亨の頭に、ある考えが浮かんだ。

「じゃあ、僕が決めてもいい?」

「ナマエを?」

「うん。……マモルって、呼びたいな」

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 亨の意識が覚醒する。腹部に感じた鈍痛は、もう残っていない。

 覚醒する前に何となく、誰かと喋っていたことは覚えている。

 それが誰の仕業によるのかもわかっていた。

『マモル、お前勝手に人前に出るなよ…… 説明して回るのが面倒くさくなるだろ……』

『ごめんね。でもカザネさんのことはちょっと本気でムカついたし。一言言っておいてやりたくてさ』

『もういい、お前はちょっと休んどけ』

『トオルはもう大丈夫なの?』

『大丈夫、お前が治してくれたから』

 目を開くと、前にいるのは険しい顔をした風音と、遠くに須藤とほたるの姿も見えた。

 ほたるの姿を見つけて、まだ助かったわけではないのに、ほっと安堵する。

 それと同時に、亨は自分が口にしていた言葉を思い返す。

(って、マモルのやつ、どんだけ好き勝手に喋ってんだ……!)

「佐倉亨ね?」

 気配が変わったことを感じ取った風音が呼びかける。亨は彼女に視線を向けた。

「あの、マモルが好き勝手言ったみたいで……」

「本当だわ、飼い主なら犬の世話くらいきちんとなさい」

 風音の言葉の刺が刺さる。

 頭の中で『誰が犬っころだー!』と喚く声はとりあえず無視して、亨は頬をかいた。

「すみません。……でも、アイツの言うことにも一理あるかなって、思うんです……」

「……」

「確かに、たかだか十歳の女の子に、自分を受け入れようとしない両親を信じ続けろだなんて、無茶だなって思うし、そもそも、もう過ぎたことだし」

「……そうね。もう遅いわ。お父さんもお母さんも、もういない。弟だって、私のことなんてもう姉だと思っていないでしょう。私にはもう、№1しかいないの。もう、一人にはなりたくないの」

 ぽつり、ぽつりと呟くように話す風音に、マモルは腹が立ったと言っていたが、亨は心のどこかで同情していた。だからこそ、彼女に言っておきたいことがあった。

「風音さんの気持ち、わかるだなんていわないけど、これだけはわかる。風音さんは、もう、あのときの小さな女の子じゃない。風音さんは、No.1とも、他の誰とでも、きっと断ち難い絆を築けます。だって、風音さんは」

 聡明だから。自分とそう歳も変わらないのに、巨大組織のリーダーを支える腹心として認められるほどに。

 強いから。逆境の中でも泣いて縋るようなことはなかった、ただ、自分の幸せを掴もうと一歩前に踏み出した。

 優しいから。食事に手をつけられなかった自分を、放っておけばいいのに、わざわざ訪ねて、毒味までして。

 ───他人の痛みを感じられる人だから。

 結晶を抱えることになった亨の行く末を案じて、不安を分かち合ってくれた人だから。

 ……そんなこと、ほたるたちが見ている前で、恥ずかしくて言えるわけもなかったから、言葉になる前に不自然に飲み込んでしまったけれど。

「……だから、どうか勇気を持ってください。風音さんに必要なのは、人を信頼する勇気です」

「……」

 風音が小さく頷いた。少なくとも亨にはそう見えた。

 その姿が、

「……えっ⁉︎」

「なっ……」

「きゃ……‼︎」

 視界が暗転し、一瞬で世界が闇に染まる。眼球に墨でも流し込まれたかのような、完全な暗闇。

 遠くで須藤とほたるの悲鳴が聞こえた、彼らもおそらく同じ状況に陥っている。

 若い男の声が山に響いた。

「おいおい、 千里眼。敵に絆されてどうするんだ…… ったく」

 風音が応じる。

「……情けないところを見られましたね。ごめんなさい」

「しおらしくしても遅いんだよ。まったく、№4もこのザマだしよぉ」

「彼は無事ですか?」

「ああ。気ぃ失ってるがな。お前も行くぞ」

「佐倉亨は……」

「オレの腕は二本しかねぇんだよ。お前ら二人抱えたらもう席はねぇ」

「でも……」

「オレの任務はお前らを無事に連れ帰ることだ。それ以上は聞いてねぇ。わかったらさっさと来い…… っておい……」

 目の見えない亨の前に、近付いてくる気配があった。

 それが風音だと、亨にはわかった。

「佐倉亨。私の千里眼は、ときに自分を傷つけるわ。私がお父さんたちの心を盗み見たときのように。……だから」

 それ以上は、言葉にされなくてもわかった。亨は答える。

「わかった。千里眼は、よほどのことがない限り使わない。忠告ありがとう」

 風音は安心したように息を吐くと、遠くに駆けていった。

 それからしばらくして、夕日が頬を照らす頃、亨たちの視界が戻ってきた。

 そこには当然のことながら、風音たちの姿はなかった。

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「当時は護の気配がなくなるのが怖くて。って、死んじゃったんだから当たり前なんですけど」

 亨は病院で治療を受けながら、須藤と長谷川、正に話をした。

 彼が、マモルと呼ばれる意識と出会ったときのことを。

「だから、名前のなかった友達に『マモル』って名前を付けたんです。それが、頭の中のコイツ。……Sn細胞の結晶の意識だったみたいですね」

「ああ。そうらしいな」

 須藤が頷き、長谷川も視線で同意する。

 亨は正に向かって頭を下げた。

「ごめん、親父…… 縁起でもないよな、死んだ兄貴の名前つけるとか……」

「いや、お前がそこまで思い詰めていたとは思ってなかった。オレたちこそ、すまん」

 正は首を振った。

 須藤が訊ねる。

「君は『他の能力者の異能を学習する』能力者だと言ったね。どんな異能を学習したんだい?」

「身体から薬物を放出する能力と、他人に化ける能力、近くにいる人の心を読む能力と、小野さんの能力と、須藤さんの能力。どれも中途半端にしか使えないけど、あわせて五つです」

 千里眼については、亨はあえて誤魔化した。正もそれを咎めなかった。

 須藤は正に向き直る。

「息子さんの能力については、上に報告しなければなりません。なにせ、今世紀初の結晶型能力者ですから…… もちろん、今回貴方という白銀の脳細胞の使者が現れたことも、報告しなければなりません。ただ、貴方が亨君のお父様だという事実は、我々だけの秘密とします」

「ありがとうございます。息子をよろしくお願いします」

 正が頭を下げた。長谷川が片眉をぴくりと上げる。

「意外だな。『白銀の脳細胞で保護する』と言われるのではないかと心配していたんだが」

「亨には自由にさせてやりたいんです。あの御方のように不自由を不自由と思わない人間ならともかく、亨は普通の子ですから」

 正はそう言って苦虫を噛み潰したような顔をした。

 須藤たちは追及しなかった。

「それでは、亨君はこれからSLWで保護します。でも、今回はお母様を心配させてしまっただろうから、一旦ご実家に顔を見せに帰りなさい。日本支部と学校には俺たちから説明しておくから」

 そう言って、須藤は亨と正を送り届けるための車を手配した。

 亨たちはその車で、一足先に東京へと帰っていった。

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 亨が東京に帰ってきた明くる日、さゆりを学校に送ってから、亨たちは護の墓参りに訪れた。

 実のところ、家族で、というか、母親とともに墓参りに来たことはなかった。あやのは一人で息子を弔い、亨は父にせがんで別の日に兄の弔いにきていた。今回も、あやのは三人で来ることを最後まで拒んでいたが、二人の説得にあって首を縦に振るしかなかったのである。

「ずっと、俺のせいだと思ってたんだ」

 亨が線香を立てて、手をあわせてから呟くように言った。

「俺が不注意だったから、護が死んじゃったんだって。でも、おふくろは自分のせいだって言い張ってたし、どうすればいいのかわかんなかった。そしたら今度は、護の持ち物がどんどん消えていって、

 ……そんなはずないってわかってるんだけど、当時は俺のせいでみんなが護を忘れちゃうんじゃないかって、怖かったんだ」

 正が何か言おうとするあやのを、そっと制する。

 亨は振り返らずに話し続けた。

「そしたら、頭の中に声をかけてくる子がいて。その子に護の名前を押し付けた。護の気配が消えていく中で、俺だけは忘れたくないって思って、頭の中に響く声を墓標の代わりにしたんだ」

 亨の声は悲愴さを感じさせるのに、どこか淡々としていた。

「亨のせいじゃないの、お母さんのせいなの」

 あやのがそう呟いた。

 正は今度は止めなかった。亨が振り返る。

「お母さんが、護に無茶なことをお願いしたから。亨を守ってほしいとは思っていたけど、まさか、護がいなくなるだなんて思ってなかったから……」

「でも、俺が道路に飛び出さなければ、護も死ななかったんだから、やっぱり俺のせいなんだよ」

 亨がやはり淡々と言う。

 そうじゃない、とあやのが言う前に、正の声がそれを遮った。

「二人とも、そんな風に自分のせいだって思い詰めることを、護が望んでいると思っているのか?」

 亨はぴくり、と背筋を伸ばした。正の声に、どこか怒っているような、呆れているような、申し訳なく思っているような、いろんな感情を感じ取った。

「二人とも覚えてないのか、オレが言ったこと。その様子じゃあ覚えてないんだろうな」

 亨とあやのが目を見合わせる。父はなにを言おうとしているのだろうか。

 正は墓石の前に跪いて、手をあわせた。そして言う。

「オレはな、葬式のときにお前たちに言ったんだ。でも、亨はまだ小さかったし、あやのも取り乱してたし、覚えてないのも無理はないよな。おまけに、オレにとっては当たり前のこと過ぎて改めて言ったこともなかったしな」

「親父、俺たちになんて言ったんだ……?」

 亨は正の背中に問いかける。

 正は墓石を見上げて口を開いた。

「オレはな、護はすごく勇敢な子だったって、言ったんだ。我が身を顧みずに弟を助けにいこうとする、本当に勇敢な子だった。オレの自慢の息子だよ。お前たちにとってもそうだろう、護は勇敢な息子で、兄貴だった。だから、オレは誰のせいだとも思っていないんだ。オレの息子は、捨て身で弟を助けにいくくらい勇敢な子だった。そんな勇敢な子が、やれ俺のせいだ、やれ私のせいだ、なんて家族が言い合っているのを、天国で喜んで見ていると思うか?」

 そんなはずねえよなあ、と、正は墓石に向かって言った。

 喪服姿の正に、あやのとともに抱きかかえられたことを、亨も思い出した。

 母親も今の今まで忘れていたのだろうと、亨は思った。あやのは、そんな大事なことを忘れていたことに驚いたような顔をしていた。

「……今度からみんなで護に会いに来ような。次はさゆりも連れて来ようか、あいつにも勇敢な兄ちゃんのことを教えてやりたい」

 あやのが小さく、「そうね」と同意したのが、亨の耳に届いた。

 それが、亨にはどうしようもなく嬉しかった。

 正が「じゃあな」と墓石に手を振って、桶を持って歩き出す。

 あやのも最後に手をあわせてから、正に続いた。

 亨は「またな」と手を振り、両親を小走りで追いかけた。

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 帰りの車の中で、亨はうとうとと眠りかけていた。

 目の前が真っ白になり、そこに小さな男の子の影が生まれる。

 それが誰かは、すぐにわかった。

「よお、マモル」

「やあ、トオル。吹っ切れたみたいだね」

 男の子ーマモルは嬉しそうに微笑んだ。

 亨はつられて笑いそうになるが、その前に表情が曇った。

 マモルが不思議そうに顔を覗き込む。

「トオル、どうしたの?」

 亨は思う。自分を責めているときに限って、この子どもは亨のそばにいる。まるで亨が呵責に陥るのを止めようとしているかのように。

「マモル、お前はそれでよかったのか?」

「それって?」

 マモルはわけがわからないといった風に首を大きく傾げた。

 亨は彼にも伝わるよう、言葉を選んで訊ねなおす。

「だから…… 死んだ兄貴の名前なんて付けられて、勝手に墓標の役を押し付けられて、お前はそれでよかったのか?」

 彼は優しい。幼い容姿と声をしているが、いつでも亨を含めた周りのことを優先して、思いやる心を持っている。風音に対して話しかけたのも、彼のお節介なほどの優しさからだと、亨にはわかっていた。

 だからこそ、亨はずっと、この幼い子どもの声に甘えてきたのではないか。亨の頭のどこかで、ずっとそのことが気にかかっていた。

「名前ってものがなんなのかもわからないまま、いきなり押し付けた。ずっと謝らなきゃって、思ってた」

「そんなにこだわるとこ? それ」

 子どもはあっけらかんと言い放った。

 そのあまりの平然さに、亨が逆に口をつぐむ。

「うーん、ボク、名前がなんなのかもいまだによくわかってないんだけど、これだけはわかるよ」

 口をつぐんでしまった亨に、マモルは言った。

「トオルは、ボクを呼ぶとき、一度も『護』とは呼ばなかった」

「……?」

 今度は亨が首を傾げる。

 だからね、とマモルはふわふわとした物言いで説明した。

「トオルは、ボクを護じゃなくて、マモルとして扱ってくれた。別人なんだってわかった上で、ボクを呼んだ。それって、トオルはボクを一人前の人格として認めてくれたってことでしょ? それなら、ボクが怒ることなんかなにもないよ」

 男の子はそう言ってにっこりと笑った。

 亨には考えも及ばないマモルの結論に、ぽかんとしていた。

「……それでよかったわけ?」

「まあ、確かに、ボクの名前を呼ぶたびにトオルが辛そうになるのは悲しかったけど、パパさんのお話聞いて、トオルはもう悲しまずに済むと思うから、全部解決した。めでたしめでたし!」

 マモルはぱちぱちと小さな手を叩いてみせた。

 それにね、とマモルは悪戯っぽく笑う。

「『マモル』って、ボクが生まれた理由にぴったりだと思わない? ボクはトオルを守るために生まれてきたんだから。トオルは気にしてるみたいだけどさ、ボク、気に入ってるんだ」

 亨はそれを聞いて、顔を伏せた。やっぱり彼は優しい。彼を見ていたら、思わず泣いてしまいそうだった。

「え、なあに? トオル、泣きそう? なんで?」

「泣くかバカ! なんでもない!」

 叫ぶことで泣きそうになるのを隠し、亨は右手を差し出した。

「え? なに?」

「握手。これからもよろしくな、マモル」

 そう言うと、マモルは嬉しそうにキャッキャとはしゃいで、右手を差し出す。その手を亨はしっかりと握った。

 小さな右手は、ひだまりの香りがした。

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