第2話 ピーター

 

 街の大きな公園の一角に立てられたテントに、アンジュは目を輝かせる。
「ミーナ! こんな大きなテント、どうやって組み立てるのかなあ? あっちの風船もらってきてもいい? あ、チケット売り場、あっちだって!」
「わかったから、ちょっと落ち着きなさいよ。あと風船は終わってからにしなさい、邪魔になるから」
 ミーナはアンジュが迷子にならないように手を引いて、チケット売り場に向かう。色とりどりの風船とフラッグで彩られた異空間に、アンジュの視線はくるくると向けられる。ミーナは隠しもせず溜め息を吐く。このはしゃぎ様では、一瞬目を離したら最後、どこかへ飛んで行ってしまいそうだ。
 チケットを手に入れて、アンジュがどうしてもとせがむのでキャンディをひとつ買って、テントの中に入る。中は空調が効いていて、意外に涼しいとミーナは思った。
 アンジュとミーナが適当な席に腰掛けたとき、ちょうど良いタイミングでブザーが鳴り響き、場内が暗くなる。
『これは、永遠の少年・ピーターと、子どもたちの不思議な冒険の物語』
 静かに響くナレーションに、アンジュが身を乗り出す。
 ミーナは、幼い頃に読んだ絵本の内容を思い出す。
 たしか、永遠に大人にならない国に暮らす少年と、夢見る少女が巡り会って、妖精と知り合ったり、海賊の船長を退治したりするお話。
 舞台はおおむね、ミーナの記憶の通りに進む。

 ベッドに腰掛ける姉弟にあてられたスポットライト。
 そこに天上から舞い降りる少年と妖精。
 妖精が魔法の粉を振り掛けると、少年たちの身体が宙に浮き、舞台のずっと上を滑空する。
 少年たちは姉弟を引き連れ、ネヴァー・ネヴァー・ランドを訪れる。
 口から火を吹くインディアンと、お供のトラとの交流。
 そして、少女を人質に取られ、ピーターは海賊と対決する。

「ミーナ、ピーターとフック船長の対決だよ……!」
 アンジュが興奮したように小さく囁く。
 ミーナも設置された舞台装置にわずかに驚く。そこにあるのは、大きな海賊船のセットと、その上に、一本のワイヤー。下には巨大なワニのハリボテが大きな口を開いている。
「ワイヤー……の上で、戦うのかしらね?」
 どうやらミーナの考えていた通りらしく、ワイヤーの上にピーターとフック船長が同時に舞い降りる。
 そして。
「キャ……ッ!」
 誰かがどこかで悲鳴を上げる。ミーナの隣でアンジュも息を呑むのがわかった。
 二人は、ワイヤーの上で、ナイフと剣を交え始めたのである。

『ピーター。今日こそ決着をつけてやる』
『ワニさん、タコはお好きかねっ?』

 アンジュは顔を多い、指の隙間から戦いを見ている。
 ミーナも瞬きを忘れてそれを見守る。
 おそらくこれが、この舞台の一番の見所なのであろう。
 精悍な顔つきのピーターと、上品な顔立ちのフック船長が、ワイヤーの上にいることを忘れているかのように華麗に舞う。
 フック船長の迷いのない太刀筋は確実にピーターを仕留めにかかっていて、対するピーターはそれを軽く往なしてフック船長の頭上を一回転しながら舞い上がり、振り返って茶化してみせる。
 一進一退が続き、とうとうピーターのナイフがフック船長の剣を弾き飛ばす。フック船長もそれに引き連れられてワイヤーから真っ逆さまに落ちて行き、その身体を巨大なワニの口が飲み込む。ピーターの勝利に歓声が上がる。ピーターは紅の瞳で一つ、客席にウインクしてみせた。
「こ、怖かった……」アンジュは胸に手をあてて、顔を上気させている。
「……」ミーナも静かに頷く。パフォーマンスというより、一流の演武を魅せつけられたときに似ている、こちらまで精神が研ぎ澄まされたような心地だった。
 ピーターは少女を取り戻し、姉弟は自分たちの国に帰った。一夜の夢の物語はこうして幕を閉じる。
 惜しみない拍手とカーテンコールに呼び戻されたキャストが、再び舞台へと登場し、観衆に笑顔で応えた。
 ミーナがぼうっとそれを見ていると、キャストの一人と目が合った。
 長い黒髪をうなじでまとめた男の、金色の瞳。フック船長である。
「……」
 フック船長は何事もなかったかのように目を逸らした。
 ミーナの胸は、どういうわけかざわついた。
 
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「ミーナ、あの人だかりはなに?」
 テントからでると、そこから影になった方向に、アンジュの言った通り人だかりができていた。
 ミーナは少し考えて、思い当たる。
「……ああ、出待ちじゃない?」
「出待ち?」
「キャストが舞台から出て来るのをファンが待ってるの」
「ふーん。人気者は大変なんだね」
 アンジュはそちらには興味がないようで、テントから出た後でもらってきた賑やかな色の風船に夢中になっていた。
 ミーナは用は済んだとばかりに、アンジュの手を引いて人ごみから出て行こうとする。
「ミーナ、何で急ぐの?」
「無茶して出てきたんだから長居するのは危ないの。サーカス見て満足したでしょ、帰るわよ」
 アンジュは唇を尖らせていたが、ミーナの言うことももっともだと無理矢理納得して付いて行く。
 テントがある公園の近くのスーパーマーケットの駐車場まで、無断駐車した大型スクーターを取りに戻る。少し遠いので、ミーナは近道をすることにした。
「ミーナ、怖いよ、危ないよ」
「そうよ、危ないから急いで」
 月が雲に隠れた暗い空の下、ビルの裏の細い道を足早に駆け抜けようとしたとき、暗がりから声をかけられた。
「よぉ、お嬢ちゃんたち、ちょっとおじさんと遊んで行かないかい?」
 咄嗟に、ミーナがアンジュを庇うように前に出る。
 現れたのは、不潔な衣服に身を包んだ年配の男一人。ミーナがあからさまに舌打ちすると、男は気分を害したようにミーナに手を伸ばそうとした。
「ミーナ!」
 アンジュが悲鳴を上げるのと、ほぼ同時に。
「来んな、クソジジイ!」
 ミーナが罵倒するのと、ほぼ同時に。
「うへぇっ!?」
 上から降ってきたなにかに圧し潰されて、男が倒れた。
「……へ?」
 アンジュが呟いたのか、それともミーナか(おそらく二人共だろう)。呆気にとられて気の抜けた声を漏らした。
 二人に近づこうとした男の上に、痩身の影が立っていた。
「乙女の敵は人類の敵よ……」
 耳に心地好いアルトで、地獄の淵から這い出てきたかのような呪いの言葉を口にしたその影は、アンジュとミーナの方に目を向ける。
 ミーナが警戒を解かずにアンジュを後ろに庇おうとしたが、アンジュはそれを気にすることなく男の上に立つ影に声をかける。
「もしかして、ピーター?」
「……、はぁ?」ミーナが素っ頓狂な声を上げる。
 暗がりに雲間から月明かりが差し込んで、影を照らす。
 そこにいたのは、精悍な顔つきの、紅の瞳の女性。
 黒いジャケットの下には、白いシャツ。靴は高いヒールのある、黒いサイハイブーツ。
 ピーターパンカラーの衣装こそ着ていなかったが、しかし、その整い過ぎた相貌は見間違えようがなかった。先ほどまで舞台上にいたピーター、その人である。
 彼女は髪をがしがしと掻き、「あー」とか「ハロー?」とか言葉に迷っているらしかったが、「ハロー」の発音からして英語圏の人間でないのが明らかだった。最終的に、母語であるらしいアジアの島国の言葉で「日本語喋れる?」とミーナたちに訊ねた。
 呆れながらも、ミーナが答える。
「少しなら喋れるわ。……助けてくれてありがとう」
「ねぇ! ピーターだよね! さっき舞台、二人で観てたの!」
 アンジュが飛び出して行く。
 女性は照れたように笑って、「ありがと」と手を伸ばした。
 アンジュは躊躇うことなくその手を取って、握手をする。その目は先ほどの舞台の、夢見る少女そのものだ。
「ちょっと出待ちの人ごみができてたから、こっそり抜け出してきたの。ここで会ったのは秘密ね」
「うん!」
 アンジュが無邪気に大きく頷く。
 ミーナは黙ってその手を引いて、自分の方に引き戻す。
「すみません、急いでいるので。助けていただきありがとうございました」
 そう言って、ピーターの脇を通り過ぎて行く。
「あ、ピーター、バイバイ!」
 引き摺られるように立ち去るアンジュが、ピーターに向かって手を振る。ピーターはにこりと笑って手を振り返した。

 桜は二人が無事に路地を抜けたのを確認してから、反対方向に歩き出そうとする。
「あれ?」
 倒れた男の側に、花を模した髪飾りが一つ落ちている。
 桜はそれを手に取って、月明かりにかざしてみる。
「綺麗ねー…… あの子たちの落とし物かしら?」
「ちょっとアネキ、五階から飛び出すとかアクションスターみたいなことして! ……いや、実際そうだけど!」
 ミーナとアンジュが入ってきた路地の入口から、少年と青年が駆け込んでくる。少年の方は「もう、いきなり窓から飛び出すからお店の人ビックリしてたよ……」と溜め息混じりの非難を零す。
 青年は「なんだ、それは?」と桜の手元を覗き込んだ。
「理仁、十兵衛。ごめん、乙女の緊急事態だったから。……これはたぶん、アタシたちのお客さんの落とし物」
 理仁が目を細める。
「……ああ、そして、オレたちが救うべき少女の落とし物だ」
「え? マジで? じゃあニアミスしたってこと?」
「そういうことになる」
 あちゃー、と頭を抱える桜を、理仁がとりなす。
「すぐに会いに行くんだ、そのとき返そう」
「あー、そうよね、また会うのよね。そうよ、話しかけるきっかけにもなるわ」
 桜は髪飾りをそっとジャケットの胸ポケットに仕舞った。
 理仁は少女たちが走り去った方向に目を向けて、その金色の眼を閃かせた。

 

    ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃

 

 アンジュはベッドを移動させ、カーペットを捲り上げ、収納ボックスから私服をまき散らして、それでも探し物が見つからないことに絶望して頭を抱えた。
「髪飾り、なくした……」
 とぼとぼと自室を出て、研究所の奥の部屋、ミーナの居場所へ向かう。廊下の重力が普段の倍になったかのように足が重いし、どこまで行ってもミーナの部屋へはたどり着かないのではないかと不安になるほど遠く感じる。
 もちろん、数分歩けば部屋にはたどり着いたし、ミーナは今日も変わらずパソコンとにらめっこをしていた。
「ミーナ……」
「……どうしたのよ、アンジュ。元気ないじゃない?」
 声からして明らかに様子がおかしい友人に呼びかけられて、ミーナはすぐに振り返る。
 アンジュは泣きそうになるのを必死にこらえながら、頭を下げる。
「ごめん、ミーナ…… ミーナがくれた髪飾り、なくしちゃった……」
「髪飾り?」
 ミーナは首を傾げる。
 アンジュはこくりと頷き、「去年のクリスマスにくれたやつ……」と付け加える。
「あー、アレ?」
 去年のクリスマス、この研究室で二人だけで開いたささやかなクリスマスパーティーで、小さなクリスマスケーキとともにミーナが用意したプレゼント。花を模した銀色の髪飾りは、アンジュの黒髪に似合うだろうと、街に出たときに購入したものだ。
「なに? なくしたの? じゃあまた新しいの買ってあげるわよ」
「違うの! あれじゃなくちゃダメなの! ミーナが初めてくれたプレゼントだから!」
 アンジュが首をぶんぶんと振って俯く。
 ミーナは眉根を寄せた。この娘はときどき子どものようにものすごく頑固で、扱いにくくなる。子どもの相手をするのはどうも苦手だった。
「ごめんなさい…… 部屋中ひっくり返したけど見つからなかったの……」
「ほう、それでは研究所内に落としたのでしょうな?」
 アンジュが飛び上がりながら振り返る。勢いがつきすぎてバランスを崩し、倒れそうになったところをミーナに抱きかかえられる格好になった。
 ミーナは、いつの間にかアンジュの後ろに亡霊のように立っていた上司をみとめて、溜め息を吐く。
「アニル所長、あまりアンジュを驚かさないでください」
「これは失礼」
 銀の細いフレームの眼鏡をかけた、几帳面そうな、壮年の男。
 研究所の所長、名はアニル。のりでぱりっとした白衣に身を包むこの男は、他人の背後を取るのが誰よりも上手いと、アンジュとミーナの間で見解が一致している。
 アニルは「さて、問題の探し物ですが」と前置きして、
「自室を探してもないのであれば、研究所内でなくしたと考えるのが自然でしょう。警備室には問い合わせましたか?」
 とアンジュに問うた。
 アンジュは首を振る。
「ううん、警備室には行ってない。でも、昨日なくしたんじゃないかと思うの……」
「昨日?」
「うん、昨日の夜……」
「アンジュ」
 ミーナが静かにアンジュの言葉を制する。
 アンジュは、はっと自らの失言に気づくが、アニルの眼鏡がきらりと光った。
「昨日、どうしたんです?」
「あ、えーっと、あの……」
 困り果てたアンジュは視線でミーナに助けを求める。
 ミーナに無理を言って出かけたことは昨夜が初めてではないが、アンジュは本来、研究所の外に出てはならない。これは研究所へ来た時からの約束であるし、ミーナを含めた所員全員に敷かれている規則だ。
 ミーナの方はというと、慌てるでもなく、小さく溜め息を吐いて、「……昨日、廊下をはしゃいで走っていたでしょう。そのときに落としたんだわ。アニル所長のおっしゃる通り、警備室に届いているかもしれないから、確認してきなさい」とアンジュの逃げ道をつくった。
「う、うん……」
 そうなると部屋に残されるミーナが心配だったが、『大丈夫よ』という唇の動きを信じて、アンジュはアニルから顔を背け部屋を出た。
 アニルは「ふむ」とアンジュを見送った後、ミーナに向き直る。
「それで? どこに連れ出したんです?」
「……サーカスですよ、先週から街に来てる」
 ミーナは観念して口を開く。
 それを聞いたアニルが眉尻をぴくりと動かす。
「何事もなかったでしょうね?」
「はい」
 一瞬、暴漢に襲われかけたことが頭をよぎったが、ピーターのおかげで大事には至らなかったので気にしないことにした。
 アニルは、ふうと溜息を漏らす。
「貴女がアンジュさんに甘いのは仕方のないことかもしれませんが、弁えてください。彼女はまだ試験段階なのですから」
「申し訳ありませんでした」
 規則違反を侵したことは間違いないので、ミーナは素直に謝罪する。
 アニルは満足そうに一つ頷いて、部屋を出て行こうとする。
 研究室のドアノブに手を伸ばしたとき、「そういえば」とミーナを振り返る。
「なんでしょう?」ミーナは首を傾げる。
 アニルはなにもない方向を見やりながら、誰に話しかけているのかわからない様子で呟く。
「最近、おかしな噂を耳にしました。正体不明の異能者集団が、ここインドに渡ったと」
 ミーナは首をかしげた。
「……それがなにか?」
「……どこにも所属しない異能者というのはなにを仕出かすかわかりませんからね。なにも起こらなければ良いのですが。……貴女も、よく注意するように」
 アニルは今度こそ部屋を出て行く。遠ざかっていく足音がやがて聞こえなくなったころ、ミーナはようやく安堵のため息を吐いた。
 静かになった部屋で、仕切り直すべくパソコンに向かい、二つの窓の中を流れる文字の羅列に険しい視線を向ける。
「あと、もう少し……」
 ずれた眼鏡を定位置に戻してから、ミーナの両手がキーボードの上を踊った。

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