プロローグ 誰

 いつも決まった時刻に目を覚ます。

 小野ほたるにとって、それは午前五時。部活動はないし、学校まで歩いて数分の寮で生活している生徒としては少し早いかもしれないが、習慣になってしまったものは変え難い。それに、早起きは幾らかの得というから変える必要もないだろう。ほたるにとっての早起きの得は三文には収まらない。

 まず、朝の寮の騒々しさに巻き込まれなくて済む。生徒数の少ない学校の寮は、人混みというほどではないが、それでも登校前は騒がしくなる。女子生徒たちの笑い声があまり好きではなかった。早起きが苦ではないのが幸いして、彼女らの賑やかな声に巻き込まれる前に自分のペースで登校できる。これで一文。

 それに、朝の空気が好きだった。春の朝は陽の光で暖められた穏やかな風が吹いていて、夏の朝は日中より少し涼しくてなんだか得をした気分になって、秋の朝のひんやりとした空気はどこかで咲いている金木犀の香りを連れてきてくれて、冬の朝に深呼吸すると肺胞の一つひとつが、その空気が巡っていく身体の末端までもが、清められるような気がした。これで二文。

 そして、朝は頭がよくはたらく。昨日の晩に寮の部屋でどれだけ頭をひねってもわからなかった問題が、登校して教科書を開いて改めて見ると、意外なほど簡単なものであったことに気づく。さらさらとシャープペンシルを走らせて、少し余裕を持って予習を済ませておく。いつSLWから召集がかかってスケジュールが狂うともわからないから、念のためだ。これで三文。

 それから、それから……

 

「……」

 

(あれ、なにか足りない……)

 いつものコンビニの前で同級生の少年を待ちながら、ほたるは違和感に気づく。

 いつも通っているコンビニ。ほたるがSLWの関連校に入学した頃は、コンビニではなくて、小さくて薄暗い公園があった。百日紅の木が植えられていて、そのそばにベンチがあって、そこにいたのは、幼い私と、――

 

「小野さん、ごめん。待たせた?」

 

 ――同級生の声で、はっと意識が現実に引き戻される。

 いいえ、と首を振って、少年とともに歩き出す。この数カ月、行動をともにしてきた少年は、最初こそ欠伸を噛み殺しながらほたるの後ろを歩いていたが、今ではほたるの早朝の登校に付き合えるくらいには早起きが身についたらしい。ほたるの歩幅に合わせてゆったりと隣を歩いて、いつも彼から始める世間話に、ほたるはごくごくたまに相槌を打つ。別に世間話がつまらないわけではなくて、初めてできた男の子の友達にどう接していいのか未だ模索中なだけだった。少年の方もそれを察してくれているらしく、必要以上には踏み込んでこないし、ほたるの一見気まぐれみたいな相槌に怒ることもなかった。

 

 少年の世間話を聞きながら、頭の半分でほたるはまたも思考する。

 ちらりと振り返ったコンビニの敷地には、もう、百日紅の木はない。

 

 あの花を一緒に見ていたのは、幼いわたしに微笑みかけてくれたのは、

 

 

 ――……誰?

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