第2話 ほたる

 小野ほたるは、不思議な少女だ。

 

 さらさらの白い髪に、すみれ色の瞳。透けるような肌と小さくて整った口、鼻はまるで人形のようだが、黒目がちの大きな瞳は彼女の意志の強さを表しているようだった。

 日本人離れしたその容姿が気になって、クラスメートに訊ねたが、訊く相手全員、興味はあっても理由は知らなかった。そこで思い切って本人に訊ねてみるとなんでもない風に、『母方の祖母が北欧の出身なので』と答えてくれた。つまりクォーターということらしいが、なんでもないということはないだろう、クラスの全員が気になっていたが知らなかった事案なのだから。

 実は意外なことにマイペース。

 朝は六時に登校して、人気のない学校で朝食を取る。寮で待っていれば朝食は出てくるのに、どうして毎日一人でコンビニのサンドイッチを食べているのか訊ねれば、朝のざわめきが身体に合わないのだという答えが返ってきた。あるとき、『寂しくない?』と聞いてみたことがあるが、不思議そうな視線を返された。やや間を置いて、『満足しているので』と付け加えられて、寂しくはないらしいとわかると、余計なお世話かもしれないが少し安心したのは亨だけの秘密だ。

 

 学年では主席。クラスメートによると、エレメンタリースクール時代から主席をキープし続けているらしい。

 SLWハイスクールの授業のレベルは、噂では聞いていたが相当高い。将来は捜査隊員になる異能者を育てるべく設けられた機関なのだから当然なのかもしれないが、それにしても亨が一週間だけ受けた一般の高校の授業よりも踏み込んだ内容だし、ペースも早い。よくよく説明を聞くと、どうやらジュニアハイスクールのうちに通常高校で扱う科目の基礎も押さえてあるというのが理由らしく、ハイスクールから編入した亨は毎回頭を抱えながら授業に臨んでいた。そして、異能者としての知識や道徳を扱う、SLW独自の授業もカリキュラムに含まれている。つまり、科目数が多い。亨は座学だけで投げ出したい気分だった。

 加えて、実技科目。前述の通り、ここは捜査隊員の養成機関である。「体育実技」と並んで、当然のように「異能実技」が設けられていた。

 しかし「体育実技」だって生半可な体育ではない。異能抜きの体育実技で身体を動かすことならなんとかなるだろうと考えていた亨だったが、十キロマラソン、長水路一五〇〇メートル、柔らかい砂・硬いアスファルト・水溜りが繰り返される障害物走、エトセトラエトセトラ…… 『ここは軍隊か!』と泣き出したくなるような課題が終わったあとは、相当エネルギーを消費したはずなのに疲れ過ぎて食事が喉を通らないほどだった。

 他方、異能実技は異能に合わせた個別指導で、似たタイプの異能を持つ捜査隊員と一組になって異能の扱い方を学ぶことになっている。他のクラスメートの異能実技は誰も見たことがないが、前線で戦う捜査隊員が指導者なのだから、亨だけでなくクラスメートの多くは悲鳴をあげていた。

 そんな座学と実技、すべてにおいて、ほたるは一位の成績を保持し続けていた。もちろん朝礼前も放課後も暇を惜しんで勉強している姿は目にしていたし、実技のあとは無表情ながら周りと同じく疲労していることは亨の目にも明らかだったから、天才や超人などと簡単な言葉で片付けてしまうのは努力を重ねる彼女に対して失礼だと思った。思ったけれど、テスト返却や成績発表のたびに、やはり『ここまでできる人がいるのか』と努力の天才を見た気持ちになるし、尊敬の念を抱かざるを得なかった。

 

 捜査隊員としても優秀。

 エレメンタリー時代から捜査隊の訓練に参加し、ジュニアハイスクール生のときに三等隊員として入隊。そして今ではハイスクール生でありながら準二等捜査隊員。本人はひけらかしたりしないが、聞くところによるとこれは日本SLWハイスクール創設以来の快挙だそうだ。卒業までに二等隊員にまで昇進するのではと取り沙汰されている。

 ただし、亨個人としては、等級だけ聞いても彼女の凄さはわからないだろうと思う。同じ隊、同じ班に所属して、初めて彼女の働きぶりを見せつけられた。

 大人に混じって捜査報告をする彼女はいつも落ち着いていて、須藤隊長も彼女を信頼しているのがわかる。戦闘となると美雪の後ろに付いてサポートに回ったり、先陣を切って飛び込んだりもする、つまりは自分のすべきことを瞬時に把握して戦える。その判断も戦いぶりも、美雪や隼人の認めるところだ。隼人などは『ホタルがバックにいると思うと安心して戦えるんだよな』と亨に話したことがある。高校生ながら一人前の隊員として認められているのである。

 加えて、軽井沢での一件では巨大国際犯罪組織が関わっていることを知りながら、亨のために駆けつけてくれた。すぐ近くにいながら亨が拐取されるのを防げなかった自分を責める気持ちもあったのかもしれないが、それだけで危険な現場に駆けつけようなどとは普通は思えないはずで、あの現場に来てくれたのは彼女の勇気ゆえだと亨は思う。亨が身の回りの誰かを守れるくらい強くなりたい、捜査隊に入隊したいと決意したのは、あの場に駆けつけてくれたほたるの存在が大きかったとも言えるだろう。

 

 親切で、真面目。

 ハイスクールから編入した亨のことを、生活面でも学修面でもサポートしてくれる。それはもう、『お世話係』なんて軽い表現では申し訳ないと亨が思うくらいの心強い助っ人だ。

 食堂での食券の買い方だとか、購買部の開いている時間だとか、図書館での本の借り方だとかを、自分の休憩時間が惜しいだろうに、嫌な顔一つせず教えてくれた。移動教室のときは中庭を突っ切るのが早いだなんて優等生らしからぬことまで教えてくれたし、でも『よほど急ぎでない限りこの近道は使ってはいけません』と釘を刺されたのでやはり真面目なのだ。基礎が抜けている亨のために、ジュニアハイスクール時代のプリントをコピーして纏めて、亨のための特別講座まで開いてくれた。亨の一学期の成績は『もう少し頑張りましょう』といったところだったが、なんとか夏休みの補講地獄は回避できたのもほたるのおかげだと言ってよい(代わりにほたる独自の勉強会が開催されたので結局夏休みもほぼ毎日登校することにはなったのだが、おかげで宿題は片付いたし一学期の反省もできたのだから感謝するしかない)。

 

 そんな、人形のように可愛らしい容姿で、マイペースで、学校でも仕事でも優秀だと評価されていて、懇切丁寧で誠実で何事にも熱心で、けれどそれを鼻にかけることもない、亨が尊敬するとても優しい少女。

 図書館の奥の方、二人の勉強会のための特等席となっている机に向き合って座り、熱心に教科書と参考書を照らし合わせているほたるを覗き見ながら、亨は相棒に語りかける。

(やっぱり、小野さんが犯罪者に狙われているなんて、信じられないよな)

『スドウ隊長に言われた《トクベツニンム》のこと?』

 夏休みが始まる前、軽井沢での事件がようやく一段落ついた頃。

 亨は、須藤俊彰隊長に呼び出され、ある特別任務を言い渡されていた。

 

   ********

 

 亨がビッグ4から救出されて一ヶ月。

 

 巨大国際犯罪組織”ビッグ4”幹部と目される高遠風音、アルベルティーナ・クラインミヒェル、ユーリ・クズネツォフの行方は、SLW本部と各国支部が総出で追跡しようとしたが、結局誰にもわからないまま、時間だけが無為に過ぎていた。

 

 その間、亨はといえば、SLW捜査隊に入隊したいと打ち明けた母親・あやのに猛反対を食らったのをどうにか説得し続けていた。つい先日、そのSLWのお膝元で誘拐されたのだから当然の反応である。週末に実家で顔を会わせるたびにその話が飛び出すので、あやのにあからさまに避けられていた時期もあった。

 しかし、あるとき突然、『危険なことに巻き込まれそうになったら逃げること』を条件に入隊許可のサインをしてくれた。理由を訊ねると、『お父さんが、好きにさせろって……』と今にも泣きそうな表情で言った。

 父親・正は亨とともに軽井沢から帰ってきてからしばらく実家にとどまっていたが、亨の復学と同時に何処とも知れない《仕事場》へと戻っていった。あやのはそんな正と家族をつなぐ唯一の糸である携帯電話に縋るように連絡し、亨を止めて欲しいと相談した。にもかかわらず、自分のことは自分で決められる年頃だ、実地で経験を積めば自分の身を守る技術も得られると、正は答えたのだという。あやのは正の言葉の真意がわからず悩みに悩んで、悩み抜いた末に、夫が息子を信頼しているのだという結論に行き着いた。そして、自分も息子を信頼することに決めた。

『お願い、約束して。なにがあっても生きて帰ってきて。正義とかルールとか命令なんてどうでもいいの、あなたが「これは危険だ」と思ったら全部放り投げてでもここに帰ってきて』

 あやのは許可状を手渡すと、亨の両手を震える手でつかんで、噛み締めていたせいで真っ赤になった唇を開き、そう言った。

 自分を信頼してくれた両親を裏切るわけにはいかない。亨は、潤んだ母の目をしっかりと見つめて頷いた。

 

 こうして保護者の許可が下りたあと、亨ひとりのための時期外れな入隊式が行われた。異例の入隊式は、主役である亨の他は各隊隊長と支部長のみが参加しただけの、密やかなものだった。

 日本史部の長、神崎修が、目の前に立って亨を見下ろしていた。

 初めて会ったはずなのに、これといった会話もしていないのに、目を見ただけで嫌な気分になる相手というのがいるのかと、亨は驚いたものだ。

 ――まるで薄汚い野犬でも見つけたかのような、蔑んだ目だった。

 亨は負けるかとばかりに鋭く見返した。

 不穏な空気が漂う中、形ばかりの儀式はあっという間に閉式した。

 

『アイツ、()な奴だったね。まるでドブネズミでも見てるみたいな目してさ。あんなのの下で働くの? ちょっと考え直したほうがいいんじゃない?』

 マモルが怒りに任せて騒ぎ立ててくれたおかげで、亨は逆に冷静になれた。

(高校生を戦闘に参加させろって命令してる時点でロクな大人じゃないのはわかってただろ。直属の上司は須藤さんだ。あのオッサンとは話すこともない)

 堅苦しい隊服を脱いで、ハイスクールの制服に着替えながら、そんなやりとりをした。ネクタイを整えたあと、約束していた通り、須藤の待機室に向かう。入隊の命令が下りたことを説明され、亨が入隊の意向を示した日に、須藤から打ち明けられた『内密に約束して欲しいこと』の話の続きだ。須藤の部屋にはこちらも礼装からいつもの制服姿に戻った須藤と、白衣の長谷川が待っていた。

「佐倉君、第一部隊への入隊、歓迎するよ。改めて、君の上官となる須藤俊彰だ。困ったことがあったらなんでも相談して欲しい」

 デスクチェアから立ち上がって、きびきびと、しかし自然に差し出される上司の右手に、亨は慌ててズボンで手汗をぬぐって応える。その様子を眺めていた長谷川が吹き出した。

 首をかしげる亨に長谷川は「(わり)ぃ悪ぃ」と弁解する。

「さっきお前が神崎さんにガン飛ばしたって聞いてたからな。善意の塊みたいな須藤の旦那の前で緊張してるの見たら、不思議な奴だと思ってさ。いや、オレは好きだけどね」

「はぁ⁉ ガンなんて飛ばしてません!」

「いや、佐倉君。支部長に睨み返したのを見ていて、俺は胃が痛かったよ……」

 亨は否定したが、側から見ていた須藤に指摘され、ひょっとしたら睨みが利き過ぎていたのかもしれないと思った。

(いや、睨んでるように見えたかもしれないけど見返しただけだし、相手が壇上にいたから上目遣いになってたのが睨んでるように見えただけだと思うし!)

『トオルは背が低いしオッサンも上背あったしねぇ』

(低くはないだろ一七〇センチ。普通だよ)

『トオル、なんでサバ読んだの? ホントは一六九センチでしょ?』

(うるさいなぁ……)

 頭の中で不毛なやり取りを繰り広げながら、亨は目の前で苦笑する須藤にしぶしぶといった風に頭を下げた。

「なんか、見返しただけのつもりだったんですけど、睨んでるように見えたのかもしれないです。ハラハラさせてしまったのなら、すみませんでした」

「うーん、まあ支部長の方も、とてもじゃないけど友好的とはいえなかったからなぁ、責めるつもりはないんだけど…… 反抗的だと目をつけられないようにね。……君は、ただでさえ《《目立つ存在》》だから」

 須藤は人のよい笑みをたたえたまま、声を抑えてそう忠告した。

 目立つ。そうか、目立つのか、と不思議な気持ちだった。普通の小学校に通って、中学校に通って、そのまま普通の高校に通うはずがどういうわけか異能者の養成機関に通うことになったそのときまで、亨はよくも悪くも目立たない、平凡な少年だった。だが、あの日を境に、周りが自分を見る目が変わった。――亨自身はなにも変わったつもりはないにもかかわらず、だ。

(……でもさ、それってつまり《俺が》、じゃなくて《マモルが》目立つってだけなんじゃない?)

 そんな亨の考えに、相棒は素早く反応した。

『……トオル、目立つの嫌だった? ボク迷惑かけてる?』

 頭の中の少年が心細そうに訊ねるのを、亨は慌てて否定する。

(そんなわけないだろ、そういう意味で言ったんじゃない。お前だってわかってるくせに)

『……ん、ごめん。ちょっと不安になっただけ。忘れて』

 なんだか自分の本質ではないところで注目を集めているらしいことに、亨は違和感を覚えていた、それだけだった。黙り込んだマモルを頭の中に抱えて、亨はひとり居心地の悪さを感じた。

 そんな亨の外側の世界で、長谷川が妙にタイミングよく咳払いをして、「んじゃ、本題に入ろうか? 旦那、佐倉」と切り出した。須藤が人の良い笑みを引っ込めたのにつられて、亨の表情もびくりと固くなる。

 須藤が居住まいを正して口を開いた。

「以前、ホタルについて話したことは覚えているね?」

 『話した』と言われても、そのときはほんのわずかな情報しか得られなかったので、亨は曖昧に頷いた。

「えっと、『守って欲しい』とか……」

「そう。端的に言うと、ホタルの頭の中には、君と同じ結晶型能力者〈緋の心臓〉に関する記憶が眠っている」

 世界に五人の結晶型能力者のうちの一人、〈緋の心臓〉。

 先日の軽井沢での一件で、SLW側に情報提供をしたということは、亨も耳にしていた。その情報が正確であったことは間違いないが、須藤含め上層部は、どちらかというと『〈緋の心臓〉による情報提供であったこと』を問題視しているらしい。SLWにとって彼が何者なのか、亨も関心がないわけではなかった。

 しかし、須藤は〈緋の心臓〉の素性については特に触れないまま、話を続けた。

「各国SLW隊長格以上の隊員には、結晶型能力者の身柄確保という極秘指令が下されている。……あ、その話は聞いた?」

「はい。俺の場合は、ハイスクールに通いつつ捜査隊員になって、須藤隊長による監視を受けている、ってことにしてもらったんですよね」

 亨は躊躇いもなくさらりと答えた。おおよそ同じような説明を受けていた。

 すると、不意に須藤の目元が伏せられた睫毛のせいで暗く陰った。

「……すまない。無理やり転校させられた上に、監視されることになるだなんて思ってなかっただろう」

(あ……)

 亨は自らの不思慮に数秒前の自分の頭を叩きたくなった。「監視」という言葉は、本心では亨を束縛したくなかったはずの須藤を責めているようにも響く。かといって、時間を巻き戻すこともできない。

 少年が失言をどうにか撤回しようと頭を動かす前に、長谷川がフォローに入った。

「旦那、子どもを困らせるもんじゃないぞ。佐倉だってアンタが身柄拘束のために働いたとは思ってないんだ、だろ?」

 うまく言葉にできなかったことを代弁してくれた長谷川に、亨は大きく頷く。

「そうですよ、実際監視されてるとか思ってないですし。拘束しないって特例を認めてもらうために、いろんな人にお願いして回ってもらったこと、知ってますもん。須藤さんに見つけてもらえて、俺、よかったと思ってます」

 亨も、心から、よい人に巡り会えたと感謝していた。その思いが伝わったのか――伝わっていればいいと思う―――、須藤はぎこちないながらも笑顔を取り戻した。

「ありがとう。困らせてしまってすまなかったな」

 長谷川がすかさず、「話を戻すぞ」と説明を引き継いだ。

「つまり、隊長である須藤の旦那にも〈緋の心臓〉の身柄を拘束する義務がある。結晶型能力者が妙な犯罪組織やらに捕まっていいように使われたら敵わんからな。そうなると、小野のお嬢ちゃんから〈緋の心臓〉の情報が外部に漏れるだなんて事態はどうしても避けなければならない」

 なるほど、と頷きかけて、亨は違和感に気づく。

「小野さんは覚えていないのに、外部に情報が漏れるなんてことあるんですか?」

 長谷川はがしがしと後頭部を掻きながら答える。

「ホタル自身の力で思い出されることは恐らくない。ただし、外部からなんらかの刺激を受けたら……、たとえば薬物とか、催眠とかだが……、そういう手を使われると、記憶が掘り起こされる可能性はないとも言い切れない。それに、他人の心を視る異能だなんて発見されたしな。潜在的な記憶を読み取る異能者がいないとも限らん。……そういえば、奴さんは小野の嬢ちゃんの記憶を読み取れるのかねぇ?」

 長谷川は、今度は須藤の方に視線を向けて訪ねた。

 須藤は困ったように首を傾げつつも、はっきりと返答した。

「それはわかりません…… しかし、彼女の能力を《学習》した佐倉くんも、他人の無意識な行動を先読みすることはできます。先日の常習窃盗犯の逃走ルートを読み取ったのはまさにそれでしょう。そうすると、心の奥底にある思い出せない記憶であっても、読み取られる可能性はゼロではないのでは?」

 大人たちの小難しいやりとりを聞きながら、亨は、琥珀の欠片を散りばめた美しい眼球を持つ少女を思い出していた。

『どうなんだろうね? もしもカザネさんがホタルの記憶を読み取れるなら、ビッグ4が相手になるってこともありうるんだよね?』

「……」

 マモルに巨大国際犯罪組織の名前を挙げられて、亨は身震いした。できれば今後一生、一切関わりたくない相手だ。

「しかし、だからこそ敵と同じ異能を行使できる佐倉くんの存在は重要になってきます。まだその能力の再現率は千里を見通すには足りませんが…… 百メートルくらい離れた相手の意識なら読み取れるようになったんだろう?」

 長谷川に話しかけていた須藤が、急に亨に顔を向けて問うた。それに対して、亨はぱっと居住まいを正して首肯した。「仕事でも使って、扱いに慣れてきました」

「そいつぁいい傾向だ。勤勉な奴は好きだぜ」

 長谷川が満足げに口角を上げた。そして中断していた説明を再開する。

「そういうわけだから、小野のお嬢ちゃんを掻っ攫って記憶を暴いてやろうというクソ豚共は、これまで数回現れていたんだよ。無論、全て未遂に終わったがな」

 亨はまたも首を傾げた。「小野さんが撃退したってことですか? 俺ますます必要なくないですか?」任務中、無表情で飛針を操るほたるを見た者であれば、あの剣幕でどんな敵でも完膚なきまでに叩きのめす彼女を容易に想像できるだろう。新人の亨が出る幕はないようにも思えた。

 しかし、長谷川は首を横に振る。

「小野のお嬢ちゃん本人が撃退したケースもあるが、それだけじゃない。お前さんと同じく旦那から《密命》を下された奴らが、お嬢ちゃんに危害が及ぶ前に芽を摘んでいたんだ。そいつらは今、ちょいと日本を離れているがな」

 ほたるを守る仲間がいるらしいことに、亨は驚きつつも好奇心を抱いた。それが顔に出ていたのだろうか、須藤が微笑んで付け加える。

「ああ、佐倉くん一人じゃない。ホタルの友人で、ミスズとエデンという。いつもホタルと三人一緒にいる、なかなか面白い子たちだよ。今は留学しているが、秋には戻ってくるはずだ」

『えっ、ホタルって友達いたの⁉』

(マモル、それわりと失礼)

 大仰に驚くマモルに亨は思わず突っ込んだが、いつも教室に一人きりでいるほたるを見ていれば仕方のない反応かもしれない。しかし、ほたるは(多少変わってはいるが)優しく頭もよい女の子だ。友人が全くいない方がおかしいだろうと亨は思った。

「じゃあ、俺もその子たちと一緒に、小野さんに近づこうとする悪い人たちを追い返せばいいんですね?」

「そういうことになる。まあ、具体的にはホタルと行動を共にしてもらえればいい。常に誰かが近くにいるというだけでも、それなりの牽制になるしね」

 亨が確認すると、須藤は亨の緊張をほぐそうとしてだろうか、いつもの人のよい笑みを浮かべて答えた。

 「密命」を拒否するつもりはなかった。もともと、亨がSLWに入隊しようと決意したのは身の回りの大切な人たちを守りたかったから。

 ただ、ひとつ、須藤も長谷川も大切なことをまだ説明していない。

「小野さんを守る任務はもちろん引き受けますけど…… どうして小野さんに、〈緋の心臓〉と関わりがあるんですか?」

 長谷川は「すっ」と須藤に目を向けた。須藤は笑みを引っ込めて、睫毛を伏せる。鳶色の瞳は、なにもない虚空の向こうにある古い思い出を見つめていた。

「……ホタルは、〈緋の心臓〉四条理仁と出会い、ほんのわずかな期間だったが彼らと交流していた」

 押し殺した声が、待機室に響く。

「四条理仁がなぜ、ホタルに近づいたのかはわからない。しかし、SLWがその情報を掴むとすぐに、神崎支部長から〈緋の心臓〉の身柄を拘束するよう、先代の隊長が率いていた第一捜査隊に指示が下された」

 あの、蔑むような瞳を思い出し、亨の胸がきりと痛んだ。

「四条理仁の元へ向かうホタルを尾行して、奴を捕らえようという作戦が練られた。オレも、奴の能力を確認するために、作戦メンバーに加えられていた。奴は確かに現れたが、作戦はすぐに看破され…… 結果は失敗。四条理仁は仲間と共に逃走し、ホタルだけが残された」

 相手を見くびっていたわけではないはずだ。結晶型能力者の異能は、数少ない資料から想定されていたより遥かに強力だったということだろう。亨はこくんと唾を飲んだ。

 そこで、須藤の表情が険しくなる。

「……神崎支部長は、残された幼いホタルを重要参考人として取り調べた。早朝から深夜遅くまで、最低限の食事と睡眠時間しか与えずに一週間だ。子どもを相手に、誰もが異常だと思ったさ」

「なんで…… そりゃ、本部から通達はあったかもしれないけど……」

 亨は耐え切れずに口を挟んだ。それに長谷川が吐き捨てるように答える。

「取調べに託けた神崎さんの八つ当たりみたいなモンだ。あの人は昔からそうだ。気に入らないことがあると徹底的にぶちのめさなきゃ気が済まないんだよ」

「けれど」須藤は話を続ける。「ホタルはなにも言わなかった。黙秘し続けたんだ。……四条理仁を守りたかったんだろう。四条理仁にそれだけの人望があったのか、それとも、ホタルが彼に心酔しきっていたのか。先代やオレには後者に見えたが…… なんにせよ、これ以上の取調べは無意味だと、先代は支部長を止めた。その代わりに、ホタルから情報が漏れないよう、記憶を封じることを提案した」

 納得いかない部分も多かったが、亨の中で、ようやく話の筋が見えてきた気がした。「それで、小野さんは今、〈緋の心臓〉と出会った記憶を失っている」

「ああ。記憶を封じたのは長谷川さんだった。オレと長谷川さんが初めて会ったのもそのときだ。第一捜査隊隊長の任を引き継いだとき、先代はオレに『小野を頼む』と言った。それは、四条理仁の情報を狙う犯罪者とSLW上層部、両方からホタルを守れという意味だ」

 ほたるは外部(犯罪者)からだけでなく、身内(SLW)にも狙われている。嫌な話だと亨も思った。須藤や長谷川は、もっと生々しい現実を直接見てきたのだろう。二人とも眉間に皺を寄せていた。

「上層部の圧力を躱すのはオレでもどうにでもできる。施術が解けないよう、長谷川さんに定期検査もしてもらっている。しかし、私生活や戦闘となればオレにできることは少ない。だから、プライベートでは友人のミスズとエデン、そして任務中は戦闘員のミユキとハヤトに協力してもらい、ホタルに近づく犯罪者を排除することにした。それに、ミユキとハヤトが一緒にいれば、任務を通して護身の心得も習得できる」

 それでも、自分の目の届きにくい彼女の私生活に関しては、須藤も不安があるということだろう。現に、彼女の友人たちは留学中でそばにいないのだから。

「ただ、ミユキたちには、ここまで詳しいことは説明できていないんだ。〈緋の心臓〉に関する任務とはいえ、通達に基づいて結晶型能力者について教示できる『例外』的な場合に当たらないと、支部長が判断したからね。……だから、完全にオレの不手際なんだが、ミスズとエデンが揃って留学すると言い出したときもどうしようもなかった。捜査隊長に学生の自由な学修を制限する権限なんてないし……」

 段々と須藤の声から力が抜けていくようだった。

 いろいろなしがらみや規則、上からの圧力に雁字搦めにされて、須藤も疲れているのだろうと、亨は目の前のまだ年若い隊長を責める気にはなれなかった。

「俺なら、学校でもわりと一緒にいますし、捜査隊の班も同じです。あまり戦闘の経験はないですけど、これから《学習》していけばいいし、一緒にいることはできますから」

 やはり結論は変わらない。「密命」を引き受けると、亨は決めていた。須藤と長谷川が、疲れを隠しきれていないけれど、心から安堵したように、ほうっと息を吐いた。

 亨とほたるは、まだ「友人」と呼ぶには少しだけ遠いようで、「知り合い」と呼ぶのはなんだかよそよそしい、微妙な関係だけれど。亨にとってのほたるは、学校で亨を助けてくれる優しい女の子で、捜査隊で同じ班に属し行動を共にする頼もしい仲間で、亨の危機に駆けつけてくれた、尊敬する相手だ。

 少なくとも、亨が守りたい『身の回りの大切な人たち』に、ほたるは間違いなく含まれていた。

「佐倉亨、初めての特別任務ですね!」

 亨は、しがらみだとか規則だとか、なんとなく気に食わない上の人間の思惑だとかを吹き飛ばしたくて、冗談っぽく笑って見せた。

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