第3話 商談は突然に

 高遠風音はその幼さの残る整った眉をひそめ、養父へ問い返した。
「私を日本へ?」
 無論、不服などあるはずがない。義父であり首領でもある李の命とあらば硝煙と血の臭いしかない戦場にだって赴こう。ただ、先の失態を鑑みれば、自分があの故郷というべき地にこんなにも早く再上陸するなど思いもよらなかった、その驚きが半分。残りの半分は、常に余裕を感じさせる微笑みが今ばかりは引っ込んで、胡桃と一緒に虫を噛み潰してしまったような表情を浮かべる彼が珍しかったから。
 執務室で額を抑える李はというと、聞いてくれとばかりに説明する。
「私も当然不安です。……いえ、貴女の実力を軽んじているわけではありませんよ、念のため」
「もちろん、承知しております」
「よろしい。ですが危険であることに変わりはない。今の状況で日本に再潜伏など、本来であれば避けたいのですが」李は深い深い溜め息をついて、続ける。「ですが、他に当てがないのです。今回ばかりは懐刀(ダガー)一人を派遣するわけにもいきませんし、いざというとき彼を制御できるのは貴女くらいですから」
 懐刀ことユーリ・クズネツォフは、どのような指示も確実に、ときに執念すら感じさせるほど徹底的に遂行する男である。そんな彼が、なにもかもを忘れて一匹の獣と化す――ひょっとすると、そちらが本来の性質なのかもしれないが――そのスイッチとなる存在が、ひとつだけある。
 千里眼を使うまでもなく辿り着いたのは、風音本人もあまり気乗りしない内容であった。
「……『緋の心臓』関連ですか」
「話が早くて助かります。依頼が入ったのです。しかも、縁故から引き受けざるを得ませんでしたが、あまり私や貴女の趣味ではない依頼です。『レディ・ハート』。ご存知ですね?」
 レディ・ハート。
 風音の頭の中では、その名前と彼女に関するありったけの情報が瞬時に導き出された。
「脱法臓器バンクの元締めの御令嬢でしたか。父親が倒れてからは組織の実権を握っていると聞いています」
「ええ。そして代々異能者の家系であり、我々も活動資金の提供を受けています。趣味は『臓器集め』、特に心臓を好む特殊性癖の持ち主です」
「それを性癖として片付けてよいのか疑問は残りますが…… つまり、今度は『緋の心臓』が欲しい、と?」
 ノアの箱舟に守られ、この十年ほどは表舞台に立つことのなかった、生きる伝説たる結晶型異能者。
 本来であれば情報の海に出ることのない神秘は、ほんのひと月前、ある少女を巡るSLW内部の抗争の中で顕わとなった。結晶の所有者である男を手に入れようとする動きは、既に裏社会の一部で始まっている。
 そこでふと、風音はその騒動に巻き込まれたという少年を思い出した。半年前、風音も気づかなかった記憶の瘡蓋を無理矢理引き剥がした、ひだまりの瞳の少年。彼もまたその現場に居合わせていたと報告を受けており、風音は憐れむと同時、密かに心躍らせた。借りを返す機会はそう遠くない時期に訪れるだろう。
 脱線した思考を軌道修正し、風音は李のゆったりと伏せられた目を見据えた。
「彼を巡ってどれだけの戦士が倒れたか、令嬢は興味もないのでしょうね。――李さんはよろしいのですか? 緋の心臓を相手にする以上、こちらも相当の損失を覚悟せねばなりませんが」
「確かに同胞を相手取るのは私の望むところではありません。とはいえ、それでノアの箱舟側の戦力が大きく削がれるのも事実。ノアが勝ち目なしと引けば、箱舟に乗り込んだ多くの無力な異能者と全面抗争せねばならない事態は避けられる。……命を天秤にかけるのはナンセンスですが、ねぇ」
 まあ、それはともかく。李はいつもの微笑みを貼り付け、風音に問う。
「自信はおありで?」
「必ず。李さんにとって最良の結果を持ち帰ります」
「この件に関しては貴女に全権を委ねます。貴女はビッグ4の首領として、№1として、誠意ある姿勢で臨みなさい」
 畏まりました。そう言って一礼し立ち去る養女を、李はただただ穏やかな表情で見送っていた。

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 死神は廊下の端で彫刻のように身じろぎひとつせず、凭れ掛かった壁と同化していた。どうやら風音を待っていたらしい。
「次の指示はもう?」
「聞いた。ヒロミツをブッ殺せばいいんだろ」
「心臓だけは持ち帰ってくださいね。……それと。№1は私に、本契約に関する全権を委譲しました。身勝手な行動は慎むよう、一応、お願いしておきます」お願いしたところでこの男は、今回の標的の影を見たが最後、理性が働く前に抜刀して襲い掛かるのだろうが。「……なんて、№1が何度諫めたか私も覚えていないあたり、貴方にその指示は通らないのでしょうけれど」
「ガキが一人前の口利いてんじゃねぇよ」
 ぎろり、燐光を放つ瞳で睨まれたところで、風音もさして気にしない。なにせ十になる前からこの男の粗野な言動を目の当たりにしてきたのだ。だから風音は、この男が自身の寄る辺たる人間に刃向かうことはないと正確に理解していた。
「出発は二時間後です。準備をお願いします」
「フン」
 忌々しげに舌打ちをして、風音が向かおうとするのと反対の方向へ歩き出すユーリは、千里眼に頑是ない子どものように映っていた。

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