第8話 出立前夜の突破劇

 妙なテンションの聖と興奮気味のアンジュの説明を要約するに、「個人的に進めていたSLWネットワークへの侵入が成功した」ということらしい。万能の天才と電脳精霊がタッグを組んだ犯罪史に残るファイアーウォール突破劇の恐ろしさを十兵衛少年は理解していなかったが、特に理解する必要もないので無問題である。
 ただ、自身も納得した上でのことであっても、決して別れたかったわけではない仲間の声を聴けば、懐かしさで胸がいっぱいになる。困難に挑んでくれた彼らの思いが嬉しい。
 これも十兵衛にはよく理解できなかったが、彼等の声はこの廊下にひっそりと設けられた変電室のドアをスピーカー代わりにして届いているという。アンジュが部屋ごとジャックしているのであるが、この建物は(犯人たちにまったく害意がないとはいえ)サイバー攻撃を受けている真っ只中ということになる。
『ノイズはご愛嬌として、スゲェだろ』
『こんなのお茶の子ささいのさいだよ!』
 十兵衛とて、もちろん彼らの能力の高さは知っていた。知ってはいたが、この万能の天才とプログラムの少女が組んでしまった今、突破できない壁など地球上をくまなく探してもないのではないか。蓋し、やらなくていいことですら規格外の情熱をもってやらかしてしまうのである。

『よーし、よく頑張った。十兵衛、もう一人じゃねぇぞ』

 ――笑っていたつもりだったのに、鼻先がツンと痛い。
 つま先にぽたり、水滴が落ちるのを見とめて、ああ、情けない、こんなに素晴らしい彼らの前に立つには、自分はまだあまりにも子どもだと別の意味でも泣けてくる。
『おっと、十兵衛、泣くなって。おい、ちょっと……』
『ジュウベエくん、どうしたの? 辛いことあった?』
『うん、辛いか、じゃあもう泣け! 見ててやっから!』
 辛かったのかもしれない。兄姉と慕った仲間たちと離れて、ついて行った魔王からも引き離されて、彼と知らない女の子との「密会」をずっと手伝って、気が休まる日もなくて。
 でも、困るだろうな、べそをかいたとき側にいてくれる聖は今は遠いどこかで監視カメラと即席のスピーカー越しでしか様子がわからないのだから。困らせてはいけない、強くなると、みんなの支えになると宣言しておいてこの様ではいけない。だというのに涙は言うことを聞かず溢れてくるのだから質が悪い。
『でもな、泣き終わったらこっちに顔見せてくれ。……手が届かないのは辛い』
 みっともない顔を見せたくなくて、やっぱりしばらく俯いていたが、袖口で顔を拭って上を向く。
 カメラの向こうの彼らに、どうかこの胸を溶かしてくれた、彼等がもたらしてくれた喜びが伝わりますように。そう願ったら、また一つ、暖かい涙がこぼれた。

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 思っていた以上に堪えた。
 というか、まさか泣かれるとは思っていなかった。『なに馬鹿なことしてるんですか暇なんですか』とか言って冷ややかに、年齢よりずっと大人びた少年は笑ってくれると、信じて疑っていなかった。改めて考えるまでもなくかの少年は、年齢よりずっと大人びているだけで、真実は人懐こい幼気な子どもなのだ。
 もっと早く壁を突破していれば。もっと早く声を届けていれば。
(いや、それだけじゃ駄目だ……)
 触れられないのがもどかしい。どうして泣いているのが見えているのに、涙を拭ってやることも、抱きしめて背中を叩いてやることもできないんだろう。
 見守っていることしかできない自分の無力さにも、手が届かない少年の涙にも、心臓を鷲掴みにされた気分だった。
 やがて、少年は涙を拭ってカメラに笑顔を向けた。まだ涙の筋が残っていたけれど、ひとまず安心する。
『ヒジリくん。魔王さまはずっと、別の部屋に隔離されているみたい。今は例の女の子と一緒にいるよ』
 アンジュは理仁の部屋の様子をモニタの隅に映した。魔王の黒衣を簡素な平服に着替えた、黒い長髪の男と向かい合うのは。
(ホタルねぇ……)
 ほたるが悪い人間でないことは聖も知っている。理仁の話し相手になってくれているだけならば気にすることはない。そう頭は判断しても、気持ちがついて行かない。
(十兵衛はあれを見せつけられているわけか)
 桜の幸せを願う十兵衛のこと。穏やかではなかったはずだ。
 理仁と連絡を取り合うのは保留とした。ほたるがいるというのもあるが、単純に聖の心中がざわついていて、今のままではどんな言葉を吐いてしまうか自分でもわからなかった。
『聖さん』
 ノイズ交じりの少年の声に耳を傾けた。アンジュが軽減してくれているとはいえ、即席の代用スピーカーでは雑音がひどい。
『魔王さまの様子、オレはよくわからなくて。だから、お伝えできないんですけど、ごめんなさい。……アネキたちは大丈夫なんですか?』
「問題ない。今は席を外しているが…… 友恵さんが付いてくれてる。桜は強いからな、心配すんな」
 そんな気休めを簡単に聞き入れるほど、十兵衛が初心ではないこともわかっていた。
『強いから、なにかの拍子に折れてしまいそうで、怖いんじゃないですか』
 十兵衛の責めるような声に、聖は気の利いた台詞の一つも出てこない。
 桜は若々しい木のように伸びやかな性格と、積もる雪も受け止めるしなやかさを兼ね備えた強い少女であったが、よく撓る木も強すぎる負荷をかければ折れる。
 常に友恵が付き添ってくれている現状に甘えていた。友恵が六角と離れて日本まで付いて来ると言った意図を改めて理解する。今の桜を支える役目は、聖には荷が重い。
「……友恵さんなら多少力任せだろうが守ってくれる。箱舟最強の人が付いてるんだぜ、桜だってバカな真似はできねぇよ」
『……そうですね。聖さんやアンジュさんも一緒にいるんです、オレだってそこまで心配してるわけじゃないですよ』
 また気を遣わせた。不甲斐なさに泣きたくなる。
 子どもが二人も泣くのを堪えているのに、図体と態度ばかりでかくなった自分は何もできないでいる。『万能の天才』はどうしてこんなところで役に立たないのだろうと思う一方、けれどこんな時まで異能力に頼る自分なんて恥ずかしくて表に立てないとも思うし、そもそもそれは自分が成長しないまま大人になってしまった事実から目を逸らしているだけなのだろうから、情けなさが倍の重さになって圧し掛かってきただけだった。
 大人になりたくないと思っていた、家を飛び出したばかりの頃の自分を否定するつもりはないが、もう少し早くまともな大人になっていたかったと、二十歳になった聖は新しい煙草の煙を思い切り飲み込んだ。

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 ホテルを出たところで、戻ってきた桜たちと鉢合わせた。
「おう、戻ったか」
「うん。ただいま」
『サクラちゃんおかえりー!』
 ジャケットの内ポケットに潜ませておいたスマートフォンからアンジュの明るい声が飛び出す。……周囲に第三者がいないことを確認した上での発声だろうが、予備動作がないので心臓に悪い。聖は仕返しにもならないと理解しながらポケットを小突いた。
『痛いっ!』
「んなわけねぇだろーが」
 こんなくだらないやりとりでも、見ていた桜が吹き出したので逆に心配になる。
 友恵に視線をやれば、困ったように肩を竦めただけだった。大した気分転換はできなかったのだろう。
「首尾は?」
「問題ねぇですわ。というか」
『すごいんだよ! ジュウベエくんとお喋りできちゃった!』
「オレの台詞を」
「は? マジで どうやって、っていうかまだ喋れる」
 台詞は取られたのに胸倉を掴まれ揺さ振られる役目は自分に降りかかる、その理不尽を黙って受け止めた聖は「また今度な」と桜を宥めた。
「今から理仁の検査で移動するらしくてな。そっちに付いていくからって通話はさっき切った。明日以降も繋がるから安心して待て」
「それはすごいけれど。聖?」
 ぴたり。
 桜と聖の動きが止まり、アンジュはポケットの中で黙り込む。
 笑っていはいるものの、友恵の目が据わっていた。
「本来の役目を忘れないようにね? SLWから追跡されていない?」
「はい。大丈夫です」
 使い慣れない丁寧語が脊椎から飛び出し、危うく舌を噛みそうになった。
 正直なところ忘れかけていたが、SLWによる追跡の確認は済ませてある。聖たちはマークされていない。
「そう。なら、安心して本隊に合流できるわね。故郷は名残惜しいけれど、早めに出発しましょう」
「……そうだね」桜の表情が曇る。理仁と違う国へ旅立つ、彼女にとっては人生で初めての経験となる。
 会わせてやりたいが、それは叶わないだろう。技術的に可能であっても桜がそれを望むまい。あえて桜の心を惑わす提案をしようとは、聖には考えられなかった。
「……そうっすね。でもその前に、ちょいと買い出しに行ってきますわ。お前は? 部屋に戻るか?」
「うん。あ、お茶買ってきて。そうけんびちゃ」
「わかった」短く答え、聖は逃げるようにその場を離れた。

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