長いようで短かった夏休みが明けて。
亨はいつも通り、朝六時に待ち合わせていたほたると登校した。夏休みもほぼ毎日、ほたるの特別講義のため学校には通っていたので、新学期だからと気持ちが改まるものでもなく、本当に、ここ四ヶ月ほどでできあがっていた「いつもの」生活がこれからも続くのだと、亨は漠然と思っていた。
朝礼の十分前、クラスメートが集まり始めた教室に、壊れるんじゃないかという勢いで引き戸を開け放った金髪の女子生徒が飛び込んでくるまでは。
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亨は教室の後ろの方、窓際から二列目の自分の席でぱらぱらと教科書をめくっていたが、プレス機で自動車を潰したかのような音に、思わず顔を上げて教室の入り口を見た。
やわらかな金糸のような髪を、頭の高いところで二つに結った、制服姿の女の子と目が合う。色素の薄いわりにはっきりと強い意志が感じられる瞳を収めた、ぱっちりとした目をツンと尖らせて彼女が睨みつけているのは、つまりは亨の顔だった。
『え、あの子なに、トオル。知り合い?』
(知らないけど……)
『この展開は「わたくしは幼き日にトオルさんと契りを交わした婚約者です!」みたいな王道のあれじゃないの?』
(悪いけど、俺はその手のラブコメ要員じゃない)
突然現れた女の子に睨みつけられ呆気にとられた表情の下で、亨は頭の中の友人となんともくだらない漫才を繰り広げていた。
遅れて騒がしいことに気づいたのか(そういうところがマイペースなのだと亨は思っている)、教室の後ろの方の窓側の席、つまりは亨の隣にいたほたるはゆっくりと顔を上げて、小さく「あ」と声を漏らした。
わからないことがあるととりあえずほたるに質問する癖が染み付いていた亨は、事情を把握しているらしい彼女に小声で訊ねる。
「小野さん、知り合い?」
「はい。留学のため渡米していた、このクラスの生徒です。エデン・マクレガーといいます」
エデン。どこかで聞いた名前だと記憶を掘り起こす前に、そのエデンとかいう女子生徒はツカツカと大股で、亨たちの前に移動していた。
近くで見ると本当に、金色の髪は絹糸のようで、毛先にゆくにしたがってゆるりとウェーブがかかっている。肌の色は白く、しかし、ほたるのように消え入りそうな白さではない、ここに生きているのだと主張するような健康的な肌色だった。色素の薄い大きな瞳は、相変わらず亨の顔を睨んでいる。
「アンタ誰?」
エデンは、キッと引き結んでいた唇を開き、小鳥が捕食者を警戒するような高い声で、ごくごく短く訊ねた。
見知らぬ女の子にいきなり「アンタ」呼ばわりされ、思わず顔をしかめた亨の代わりに、ほたるが答える。
「エデン、こちらは佐倉亨さん。転入生がいるって、春先に連絡したでしょう? ……佐倉さん、こちらはエデン・マクレガー。春から留学していたクラスメートです。一学期が始まる前に出発しましたから、佐倉さんとは入れ違いになっていましたね」
いつもの凜とした優しい声で紹介され、亨は安心するとともに驚きに似た感想を抱いていた。
(……小野さん、連絡取り合うクラスメートがいたんだ……)
『まあわりと失礼かもしれないけどボクもびっくりした……』
コミュニケーション能力には問題ないが、自ら進んで他人と関わろうとはしない。ここ数ヶ月で、亨はほたるのことをそのように解していた。
ほたるの友人ということならばと、とりあえずしかめっ面を引っ込めて、亨はエデンに向き直った。
「えっと、はじめまして。佐倉亨です。よろしく。マクレガーさんは小野さんと仲良いんだ?」
ほたるの名前を出した瞬間、エデンは可愛らしい顔が苦々しく歪んで、亨は内心でギョッとした。ぶっきらぼうに「ヨロシク」とだけ答えると、エデンは亨の問いかけをあからさまに無視してほたるの方に顔を向ける。
「それよりホタル、あんたどうして迎えに来ないのよ! 今朝空港に着くって連絡したじゃん!」
「悪かったわ、新学期の準備であまり余裕がなかったの」
「誰が迎えに来たと思う? よりにもよって白雪姫よ! おかげでミスズが縮こまって帰りの車でも口聞かないし! 帰国早々散々な目に遭ったわ!」
「美鈴は? 一緒に戻ったんでしょう?」
「白雪姫に捕まってる。あたしのことはシカトだし、なんなのあの女!」
けたたましく叫び散らすエデンは、先ほどの不機嫌はどこへやら、文句を垂れながらも友人との再会が嬉しいようで。
対応するほたるはいつも通り淡々とした話しぶりだったが、エデンに対して気を許しているのだと、亨にもすぐにわかった。その表情が、とても穏やかだったから。
理由はさっぱりわからないが、エデンにはどういうわけか疎まれているらしいので、亨は邪魔をしないようにそっと席を立つ。朝礼はもうすぐだったが、まだ手洗いに行くくらいの時間はあった。どこかに引っ込んでいようと、事なかれ主義な自分が囁いた。
教室を出た瞬間、黙り込んでいたマモルが不満げに喚き始める。
『なに、アイツ! カンジ悪いなぁ!』
(なぁ、エデンって名前、どっかで聞いたよな?)
マモルの言葉を否定するつもりはなかったが、亨は話を逸らすように訊ねた。マモルは(んー……)としばらく唸ってから、『ピコーン!』と頭の上で豆電球が光ったような効果音を鳴らした。変なところで器用というか芸の細かい奴だと亨は感心する。
『思い出した! スドウさんが言ってたんだ。ほら、トオルが来るまではエデンとミスズって子が、学校でホタルと一緒に行動してたって、言ってたでしょ?』
しばらく記憶をまさぐって、「ああ」と亨も思い出す。確かに須藤の話の中でそんな名前が出てきた気がする。
しかし、同じ音声を聞いていたはずであるのに、亨はマモルに言われるまでまったく思い出せなかった。マモルがたまに見せる記憶力の良さは、彼が《学習》を司る結晶の意識であることを示しているのだろう。彼の正体を知った今ならすんなり納得できる気がした。
『でもさぁ、初対面でこういうこと言うのボクだって嫌だけどさぁ、やっぱりあの子は好きになれそうにないよ。トオルもどうして退散しちゃうのさ、誰が見てもケンカ吹っ掛けてきたのはあっちじゃん。コトナカレ主義、はんたーい!』
(そんな小学生みたいなケンカ買えるかよ……)
教室では初対面の女子に睨みつけられ、頭の中では子どもっぽい相棒に詰られ、面倒な状況に陥ったものだとほとほと参ってはいたけれど、ため息の一つも漏らせない。神だか仏だか(直接の原因は人格破綻した研究者だったが)に厄介な性質と環境を与えられた少年は、新学期に合わせてそろそろ買い換えようかと迷っていた上履きの踵をくしゃりと踏み潰した。
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ハイスクールの校舎に入ると、まずは下駄箱、そこを通り過ぎて右手に階段があり、まっすぐ行くとトイレがある。
亨が男子トイレに入ろうとしたとき、下駄箱の設置された方向からよく知った女性の声が聞こえた。思わず足を止め声のする方に目をやると、見慣れたスーツ姿の、捜査隊の先輩。
『ミユキさんだ! ハイスクールに来るなんて、なにかあったのかな?』
(さあ?)
一応挨拶しておこうと近づきかけて、誰かと話していることに気づく。美雪と向き合っているのは、緩やかにウェーブのかかった肩までの黒髪と、すらりと高くまっすぐ伸びた背に長い手足が美しい女子生徒だった。
美雪は仕事のあとで亨にアドバイスするときとまったく同じように、さらさらと言葉を紡いでいた。
「春はなぜ突然『留学する』だなんて言い出したのかと思ったけれど、得るものはあるだろうと送り出したわ。まさかマクレガーと遊びに行っただけ、だなんてことはないでしょうね」
「……うん……」
天敵を前に震える小動物みたいにか弱い声が、亨の耳にどうにか届く。ちょっと背伸びして彼女の顔を覗き見れば、すっと通った鼻筋にアーモンド型の目、しゃんと前を向いていたなら『モデルだ』と言っても通用したであろう東洋系の美人だった。実際には、その顔は俯きがちで、視線は話し相手の足元と顔とを行ったり来たり、唇は固く引き結ばれ、華やかにステージを闊歩するような自信なんてこれっぽっちも感じさせない、むしろ頼りない印象を与えていた。余計なお世話だとわかっていたが、素材がいいだけにもったいないと、亨は少しだけ惜しく思った。
無責任に残念がる亨の存在など気づいていないらしい美雪はさらに続ける。
「日本はあちらと比べれば平和だけれど、気を抜かないこと。須藤隊長も秋からの働きに期待していらっしゃるわ」
「……うん、わかってる…… あの、朝礼あるから、行くね。迎えに来てくれて、ありがとう……」
「仕事だもの」
美雪はそっけなく答えて、「行ってらっしゃい」と、この面談の終了を宣言した。女子生徒の肩が一瞬震えて、飛んで逃げるように美雪の前から立ち去る。彼女が教室に駆け込んで行くのを、亨は男子トイレの前で黙って見送った。
「トオル?」
突っ立っていた亨にようやく気づいた美雪が、やはりさらさらと川を流れる冷水のように声をかけた。亨は美雪に軽く頭を下げながら近寄る。
「おはようございます、先輩。学校でお仕事ですか?」
「留学していたハイスクール生を迎えに行くように指示されたの。さっきの子…… 鏑木美鈴と、エデン・マクレガーという子。ふたりとも春からアメリカのSLW支部に留学していた第一捜査隊のジュニアなのよ」
「マクレガーさんにはさっき会いました」いきなり喧嘩腰に突っかかられたことは伏せておいた。まるで告げ口のようで、嫌だったから。「へぇ、お迎えに行くほど先輩と仲良いんですか?」
「仲が良いというか、美鈴は私の妹なの」
美雪があまりにさらりと言ったものだから、亨は一瞬聞き流しそうになった。「え、先輩、妹さんいたんですか?」
「両親が離婚して、姓は違うけれど。美鈴は私の実妹よ」
「ふうん、美人姉妹なんですね」
言ったあとで、我ながら頭の悪いセリフだなと気恥ずかしくなった。けれど、お世辞でもなんでもなく、百人が百人同意してくれるであろう、姉妹が向かい合っているところを見た亨が素直に抱いた感想だった。
対する美雪が、不相応に謙遜することもなく「ありがとう」と微笑んで返すのも、かえって好感が持てる。こんな、美雪がしばしば見せる過不足のない自信の表れが、亨も好きだった。
「美鈴…… 鈴のように美しい声だったでしょう。あまり外向的な子ではないけれど、よければ仲良くしてあげて」
「それはもう、喜んで」へらりと笑ったところで、担任がスリッパを引きずりながら階段を降りてくる音が耳に届く。美雪もそれに気づいたらしい、「引き止めて悪かったわね」と教室に戻るよう亨に促した。
もう一度頭を下げてから美雪と別れる。下駄箱の前で美雪に気づいた担任が世間話をしているのが、遠ざかっていく亨の背中に届いた。
『まさに美人姉妹だねー。妹さんの方はちょっと気弱っぽかったけど』
(気弱なんだろうし、美雪さんが堂々としてるから余計に際立つよなぁ)
『ふたりとも見た目はアジアンビューティーなのに、雰囲気全然違うよねー』
頭の中の友人と、意図せず目撃してしまった姉妹のやりとりを思い出す。通りすがりの他人が見たら、美雪が妹に投げかけた言葉はかなり辛辣だったかもしれない。
しかし、亨は気づいていた。半年ぶりの再会というわりに味気ない会話しかしていなかったけれど、美雪が纏う空気は、いつになく優しかったことを。
(でも、美雪さんってお姉さんっぽいもんな。俺もし姉ちゃんができるなら美雪さんみたいな人がいい)
『ミユキさんの弟ならもう少し知能レベル高くないとダメじゃない?』
余計なセリフはチャイムに掻き消されて聞こえなかったふりをして、亨は朝礼が始まる前に教室に滑り込んだ。
SLWハイスクールの二学期は、こうして新しいクラスメートが加わって、大層賑やかに幕を開けた。