第13話 自然美観保護地区

(あれ、なんだろう、この…… 懐かしい匂い……)
 薄く目を開ける。そこに飛び込んできたのは、

 薄汚れたスニーカー。

「うぉぉぉぉぉお⁉」
「よし、起きた」
「山本、おはよ」
 スニーカーの向こうには亨と陽一。村上の方は六人分のリュックサックを抱えて、亨は泥はねで汚れたスニーカーを平蔵の鼻先に掲げて、友人の顔を覗き込んでいた。
「なんだよその靴クッセェ!」
「いやコレお前のだけど。起きねぇから最終兵器使った」
 悪びれることもなく言ってのけて、亨は靴下だけになっていた平蔵の右足に最終兵器をちょこんと戻した。自分の足の臭いで起きるとか。首の後ろの鈍い痛みとの相乗効果で最悪の目覚めである。
「山本くん。さっそく事情聴取するけど、誰にやられた?」
 落ち着いた声が頭の上から降ってくる。亨の隣に知らない顔があった。
「山本。こちらは第一部隊の先輩で、赤松さん。俺たちを保護しに来てくれたんだ」
 亨が簡単に紹介するのをぼんやりと聞き流していたが、「保護」の意味がわからない。自分たちは普通に山に遊びに来てて、エデンがいなくなったから探しに来て、それから――
「あ…… そっか、頭殴られて気絶したんだっけ……」
 気を失う直前のことをようやく思い出す。思い出したとはいっても、後ろから殴られたから犯人の顔も見ていないし、殴られたという感覚しか残っていないのだが。
「相手が誰かはわからない、後ろからだったから…… 小野さんは?」
「異能者に誘拐された。だけど、ミユキ先輩とハヤト先輩が追いかけてる。今から俺と鏑木さんも探しに行くから、山本と村上は赤松先輩と一緒に山を降りて。歩ける?」
 亨に手を引かれて起き上がろうとしたが、首の痛みに顔をしかめた。赤松は慌てて平蔵の身体を支えて、「彼は僕がおぶって降りるよ。トオルくんたちは行って」
 亨と美鈴に向かってそう言った。さすがは同じ第一捜査隊で戦う仲間と言うべきか、亨たちは視線だけで了解し合い、木々の間を縫って走り去った。
「あの、亨たち、大丈夫ですか……?」
 陽一が不安げに、平蔵を背負った赤松の顔を見上げる。平蔵だって心配しているのは同じだった。対する赤松の方は、誇らしげに、そしてどこか寂しそうに、笑って頷く。
「もちろん、大丈夫だよ。美鈴ちゃんはアメリカの部隊でもよい成績を修めてきたし、トオルくんだってこの数ヶ月でびっくりするくらい強くなった。なにより、うちの戦闘員ツートップであるミユキ先輩とハヤト先輩がついてるんだから」
 トオルくん。
 第一捜査隊は日本支部の中で特に仲間意識が強いことで有名だ。信頼した仲間を名前で呼ぶといった、他の部隊では見られない伝統のようなものがある。
 ほんの半年前に突然連れてこられた異能者社会でも、亨は仲間に信頼されるまでになっていたらしい。そのことがとても嬉しくて誇らしくて、少しだけ悔しい。
「それにトオルくんには」赤松は歩き出してから、背中の平蔵になんとか聞こえるくらいの小さな声で付け加える。
「君たちもついて、いるからね」
 当たり前じゃないですか、そう笑い飛ばしたかったけれど、赤松が本当は聞かせるつもりでなかったことも声の掠れ方でわかった。
 まあ、どうせ当たり前なのだし。平蔵はなにも聞かなかったことにした。

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 身体を強かに打ち付けられて意識が飛びそうになった。幸いなことにほたるを攫って行った不届き者の姿が視界にあるうちに立ち上がれたので、キリキリと痛む肋を抑えて走り出す。追いついたところでエデンになにかできるわけでもないのだけれど。美鈴がいれば心強かったのに。怒らせてしまったから迎えになんて来てくれないだろう。痛みとは別の原因で泣きたくなった。
 ほたるは渡さない、誰にも。
 そう強く決めていたのに、犯人との距離はどんどん開いていく。エデンの耳であればまだ感知可能な範囲の内だけれど、一度見失ったら二度とほたるに会えないような気がして、恐怖と不安が脳髄からじわじわと侵食を始め、次第になにも考えられなくなっていく。
 感覚を最大限まで研ぎ澄ませていた耳に、鼓膜をつんざくような銃声が響いて、エデンの足元で銃弾が跳ねる。それすら厭わないほど、エデンの頭にはほたるしかいなかった。
 威嚇では効果がないと判断した射手は、エデンの身体の中心に標準を合わせようとしていた。
「エデン!」
 銃声より一瞬早く親友の声が雑木林に響いて、思わず立ち止まる。弾は明後日の方向に飛んでゆき、エデンから数メートル離れたところに赤黒い蔓で拘束された男が倒れこんだ。
 しばらくぶりに我に返って振り返る。
 世界で一番頼れる親友と、ほたるを攫っていこうとするクラスメイトが、あろうことか並んでこちらに向かっているのが視界に飛び込んだ。
 美鈴が来てくれた。安心で泣きたかったのに。
 どうしてアイツはいつもいつも、エデンの思いをぐしゃぐしゃに踏み潰してくれるんだろう。

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 古賀を追いかけるエデンに追いついたとき、亨は正直なところぎょっとした。
 目が血走っていて、耳が特別にいいはずなのに、雑木林で響く銃声にすら気づかない。
 もはや千里眼は意味をなさなくなっていて、エデンの視界にはほたるしか映っていなかった。
 美鈴がエデン以外に動く人影を見つけて捕縛するのが一瞬でも遅かったら、目の前であの金髪が赤く染まっていたかもしれない。脳を巡る血が一瞬で凍ったような心地だった。
「エデン!」
 ようやく足を止めたエデンに追いつくと、美鈴は自分より小柄な親友を包み込むように抱きしめた。
「よかった、無事で……!」
「……美鈴、痛い……」
 肋を痛めていたことを今さら思い出して、エデンは控えめに抗議する。美鈴は慌ててエデンを解放して、代わりに視線の高さを合わせた。こうすると親友というよりお姉ちゃんみたいだ。
「応援が来たの、お姉ちゃんとハヤト先輩。もう大丈夫、みんなで帰ろう?」
 エデンの顔に一瞬だけ安堵の気持ちが表れたが、すぐに曇る。半歩離れて見守っていた亨を射抜くように見据えていた。
「みんなって、誰……?」
 こんな時でも警戒心を解こうとしない、その強情っぷりに亨は呆れるのを通り越して感服した。
「エデン」
 美鈴は案外はっきりと、エデンに優しく語りかける。
 そんな美鈴を、エデンは噛みつくように遮った。
「みんなって、あたしたち三人のことでしょ? また三人でいようよ、ねぇ、美鈴、お願い……」
 だんだんと声がか細くなって、視線が下がっていく。もうわかっているのだ、彼女も。
 美鈴たちが、三人の世界から解放されたがっていることを。
 けれど、美鈴の返事は亨も想像していなかった。
「わかった。また三人でいよう?」
 亨だけでなく、エデンにとっても、その答えは意外だったらしい。
 パッと顔を上げたエデンの目の前には、やはり穏やかに微笑む美鈴がいた。
「いいよ。ほたるがどう思うかはわからないけど、私はエデンと一緒にいる」
「でも、美鈴…… 楽しそうだった……」
「エデンを泣かせてまで新しい友達が欲しいとは思わない」
 それはもうきっぱりと。
 美鈴は吹っ切れたような笑顔で亨を振り返る。
「佐倉さん、今日は誘ってくれて嬉しかった。でもやっぱり、私はエデンを置いて行きたくない」
 鈴の震えるような声だったけれど、亨を見据えるのは覚悟を決めた少女の目だった。
 だから、亨はちっとも寂しくなんてなかった。寂しくはないけれど、
「うん…… わかった」
 寂しくはないけれど、やはり幾らか不満はあった。ただ、それは美鈴に対してのものではなかったから、口には出さなかった。
「でもね、エデン。今はほたるを助けなくちゃいけないから、今だけは私と佐倉さんについて来て。ほたるを取り戻したら、今度は三人で帰ろう?」
 子どもをあやすみたいに諭されて、エデン自身気恥ずかしかったのか、視線をそらして頷いた。
『トオル』
「わかってる」
 平蔵から学習して強化された嗅覚が、火薬の臭いが近づいてくることを告げていた。
「鏑木。誰かが近づいてる。ミユキ先輩たちじゃない、もっと多い」
「古賀学の仲間?」
「古賀は自分を単独犯だと思ってるけど、古賀をサポートしてる奴らはいるみたい。さっき捕まえてもらったあの人とか」
 相変わらず赤黒い網に雁字搦めにされて倒れこんでいる男を視線で示す。
 美鈴は一つ頷いて、数秒考え込んだ。そして。
「佐倉さん。私と佐倉さん、どっちの方が持久戦で勝機がある?」
 亨もエデンも、美鈴の言わんとしているところを察して目を丸くした。
「鏑木、それって」
「ここで足止めができれば、背後を気にせずほたるを追いかけられる。だから教えて、持久戦ならどっちが強い?」
 なるほど道理ではあるが、この問いかけに素直に答えると別の意味でほたる捜索が困難になるのではなかろうか。
「……鏑木の異能力は、血液の固化だよね。ミユキ先輩みたいに硬質じゃなくて、もっと柔らかな血の蔓だ」
 しかし、美鈴のたどり着いた結論をひっくり返すほどの代案は、亨の頭には浮かばなかった。ここは美鈴の戦略に乗るしかない。
「おまけに鏑木の方が現場慣れしてる。だから、ここで足止めをしてもらえるなら、鏑木の方が心強い」
 エデンが縋るように美鈴を見上げる。
 一方の美鈴は、安心して欲しいとエデンに微笑みかけた。
「エデン。私はここに残って、エデンと佐倉さんにほたるを任せる。エデンの耳ならまだ追えるでしょ? 絶対にほたるを取り戻して」
「でも、あたし……」
 視線をうろちょろさせるエデンの顔を、美鈴は両手で包んで半ば無理矢理、自分の方へ向けた。
「わかってる、不安だよね。だけど、今は佐倉さんを信じて、行って。それが無理なら、私のことを信じて。それならできるよね?」
 有無を言わせない力強さがあった。結局、エデンが押し負けて、子どもみたいにこくんと頷いた。美鈴が亨に頷いて見せたから、亨は「マクレガー、走るよ」と短く告げて、美鈴を置いて走り出す。すぐ後ろをエデンが続いた。
 すでに美鈴の目は亨たちを追撃しようとする正体不明の敵を睨んでいる。地面から音もなく生え出す血液の蔓がゆらゆら揺らめいていたかと思うと、その蔓は突然美鈴の左前の空気を突っ切って、木の影に潜んでいた迷彩服を立木ごと拘束し、力一杯締め上げて無造作に投げ捨てた。雑木林に、先ほどまで大自然の一部だった大樹がどさりと倒れ物騒な重低音が響く。
 走りながらも一連の動きを後ろ目に見ていた亨は、ひゅうと口笛を鳴らした。見た目は蔓だが強度は美雪の螺子にも引けを取らない。樹木を根っこから引き抜くとは。
「鏑木、気合入ってるな……」
 エデンもやはり親友が気になっていたのか、ちょこちょこと後ろを振り返っては様子を見ていたので、頷いて同意した。
 ただ、こうなると別のことが気になり始める。
「でも、この林ってさ……」
「ん…… んん……」
 亨も同じことを懸念していた。
 登山道の入り口に掲げられていた、この山の管理者による警告文。

『この地区は景観条例に基づき自然美観保護地区として定められています。
 管理者の許可のない地区内の樹木の伐採は条例により罰せられます。』

「……緊急避難でセーフだろ……」
「……須藤隊長、後はよろしく……」
 許せ、大自然。
 ごめんなさい、隊長。
 双方に一瞬だけ懺悔したら雑念を振り払い、二人はほたるの奪還に全力を注ぐことにした。

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